第八話『二人だけの修復作業』

 あの日以来、俺の日常に新しい時間が生まれた。定時になると、俺は自分の職場であるアーカイブ室に背を向け、雫の待つ古文書修復室へ向かう。それが、俺たちの密かな習慣になっていた。灰色の日常の中に差し込んだ、唯一の色彩を持つ時間。俺は、いつしかその時間を待ち遠しく思うようになっていた。


 古文書修復室のドアを開けると、いつも同じインクと古い紙の匂いが俺を迎えた。最初は戸惑ったその匂いも、今では不思議と心を落ち着かせる香りになっていた。部屋の主である雫は、巨大な作業台の隅を俺のために空けてくれている。そこには、分解されたオルゴールの無数の小さな部品が、まるで精密な標本のように白い布の上に並べられていた。


「おかえり、律。今日はどこまで進められそうかな」

 作業用のゴーグルを額に上げた雫が、にこりと笑う。俺は黙って頷き、自分の席に着いた。ここが、俺たちの秘密基地。そして、あの壊れたオルゴールは、俺たちが共に挑むべき最初のミッションだった。


 修復作業は、想像を絶するほど繊細で、非効率なものだった。雫はまず、オルゴールの構造をスケッチブックに描き出し、それぞれの部品が持つ役割を、根気強く俺に教えてくれた。シリンダーに埋め込まれたピンの一本一本がメロディの欠片であること。櫛歯と呼ばれる金属の板が、そのピンに弾かれて音を奏でること。そして、それらすべてを動かすゼンマイと歯車の、緻密な連携。それはまるで、小さな機械仕掛けの宇宙のようだった。


「いい? 律。こういうのは、焦ったらダメ。部品の一つ一つと、対話するみたいに、丁寧に触ってあげるの」

 雫はそう言うと、ピンセットの正しい持ち方から、錆を落とすための薬品の配合まで、手取り足取り教えてくれた。俺の手は、最初はぎこちなく震えるばかりだった。端末に文字を打ち込むことしかしてこなかった俺の指先は、ミクロン単位の作業にはあまりにも不向きだった。何度、小さなネジを床に落として二人で這いつくばって探したことか。何度、力の入れすぎで部品を傷つけそうになり、雫に「こら」と軽く叱られたことか。


 ある日のことだった。俺は、オルゴールの心臓部である櫛歯についた、頑固な錆を磨く作業に没頭していた。特殊な研磨剤を染み込ませた布で、金属の表面を優しく、繰り返しなぞる。気の遠くなるような作業だ。エデンなら、超音波洗浄機を使えば数秒で終わる作業を、俺は何時間もかけて手作業で行っている。この行為に、一体何の意味があるのだろう。ふと、そんな虚しい思考が頭をよぎった。


「……なあ、雫。こんなことして、本当に意味があるのかな」

 思わず、弱音が漏れた。雫は、隣で古文書の修復をしていた手を止め、静かに俺の方を見た。

「意味、か。どうだろうね。少なくとも、エデンから見たら、生産性ゼロの無駄な時間だろうね」

「だよな……」

「でもね」と、彼女は続けた。「意味があるかどうかを決めるのは、AIじゃない。私たち自身よ。律は今、この作業がつまらない?」

「いや……」

 俺は即答できなかった。つまらない、わけではなかった。むしろ、その逆だ。息を詰め、指先に全神経を集中させていると、いつの間にか時間が経っている。昨日までびくともしなかった錆が、ほんの少しだけ薄くなった時。くすんでいた金属が、鈍い光を取り戻した時。俺の心の中には、今まで感じたことのない、静かで確かな達成感が満ちていくのを感じていた。

「……つまらなくは、ない。むしろ……面白い、とさえ思う」

「でしょ?」

 雫は、自分のことのように嬉しそうに笑った。「効率や意味だけを追いかけてたら、絶対に見つけられない楽しさが、こういう無駄な時間の中には隠れてるの。おばあちゃんが教えてくれたみたいにね」


 その日から、俺は作業に対する迷いを口にしなくなった。代わりに、雫との会話が増えていった。彼女が修復している古文書の内容について尋ねたり、俺がアーカイブ室で見つけた奇妙なタイトルの本について話したり。それは、エデンが推奨するような、互いの有益な情報を交換するための会話ではなかった。ただ、その瞬間に感じたこと、思ったことを、とりとめもなく言葉にするだけの、無駄で、温かい時間だった。


 俺たちは、作業の合間にノートを取り出し、その日の『実験記録』を書き留めるのが習慣になっていた。

『実験記録:律は、オルゴールの櫛歯を磨く作業に三時間を費やした。彼はそれを『面白い』と表現した。非効率な行為の中に、主観的な価値を見出し始めている』

 雫がそんな風に書くと、俺は少し照れながら、自分のページにこう書き加えた。

『雫は、作業に集中すると、髪が顔にかかるのも気づかなくなる。その時の横顔を、俺はなぜか、ずっと見ていたいと思った。この感情の分析結果を、エデンに問いかけてみたい』

 俺の記録を盗み見た雫が、「何それ、変なの」と笑いながら、俺の肩を軽く叩く。そんなやり取りの一つ一つが、俺たちの絆を少しずつ、しかし確実に強くしていった。


 修復作業を始めて、二週間が経った頃。俺たちは、最大の壁にぶつかった。

 オルゴールの動力源である、香箱と呼ばれる歯車。その中心にあるべき、一本の小さな心棒が、根元からぽっきりと折れてしまっていたのだ。それは、他の部品のように磨いたり、錆を落としたりすれば直るような、生易しい損傷ではなかった。

「……ダメか」

 俺は、ピンセットで折れた心棒の残骸をつまみ上げながら、呆然と呟いた。あと少しで、すべての部品が元の輝きを取り戻せそうだったのに。すべての努力が、水泡に帰したような感覚だった。このオルゴールが、再び音を奏でることはない。それは、俺たちの実験が、しょせんは無意味な悪あがきでしかないという事実を突きつけられているかのようだった。


「……諦めるの?」

 隣で、雫が静かに言った。その声には、いつもの快活さはない。だが、絶望の色もなかった。

「だって、これはもう直せない。代わりの部品だって、こんな旧式のもの、どこにも……」

「なければ、作ればいいじゃない」

 雫は、きっぱりと言った。俺は、彼女の顔をまじまじと見た。

「作る? こんな、精密な部品を?」

「そうよ。完璧なものじゃなくていい。不格好でも、少し音がずれても、私たち自身の手で作った部品で、この子をもう一度鳴らしてあげるの。それこそ、最高の反逆じゃない?」


 彼女の瞳は、挑戦者の光を宿していた。そうだ。彼女は、いつだってそうだ。道がなければ、自分で作る。答えがなければ、自分で探す。その、システムに屈しない強さに、俺はずっと惹かれていたのだ。


「……どうやって?」

「決まってるじゃない」

 雫は、にやりと笑った。「また、宝探しに行くのよ。あの、ガラクタの山にね」


 ジャンク・ヤード。あの日、俺の世界に初めて色がついた場所。

 俺は、手のひらに乗った折れた心棒の残骸と、雫の挑戦的な笑顔を、交互に見つめた。

 諦めるのは、簡単だ。元の灰色の日常に戻り、死んだように生きていけばいい。だが、もう、その選択肢は俺の中にはなかった。この、どうしようもなく非効率で、無駄で、しかし確かな希望に満ちた時間を、手放したくはなかった。


「……ああ、そうだな」

 俺は、ゆっくりと頷いた。

「行こう。二人で。俺たちの部品を、探しに」


 その言葉を聞いて、雫は満面の笑みを浮かべた。

 壊れたオルゴールは、まだ音を奏でない。俺たちの実験の行方も、まだわからない。だが、俺たちの心は、確かに同じメロディを奏で始めていた。それは、エデンには決して聴こえない、二人だけの、不格好で、温かい音色だった。

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