第七話『記録されない心』

 約束の休日、俺はエデンが管理する中央公園の北ゲート、その巨大な時計塔の下に立っていた。ここは市内でも有数の待ち合わせスポットとして、AIが推奨している場所だ。最適化された人流、あらゆる角度から個人の安全を保障する監視網、そして天候に左右されない全天候型のドーム。約束の場所として、これ以上なく合理的で、効率的な選択肢だった。

 だからこそ、雫がこの場所を指定したことに、俺は少しだけ拍子抜けしていた。彼女のことだ、もっと突拍子もない、例えば忘れられた路地の片隅などを指定してくるのではないかと、心のどこかで身構えていたからだ。


周囲には、エデンによって導かれたであろうカップルや家族連れが、穏やかな時間を過ごしている。彼らの服装は、その日の気温と湿度、そして個人の身体データに基づいてAIが推奨した、機能的で洗練されたものばかりだ。会話も、表情も、まるで最適化されたBGMのように、調和が取れていて波風がない。その完璧な風景の中で、俺は一人、場違いなノイズになったような居心地の悪さを感じていた。昨日までの俺なら、この風景に何の疑問も抱かなかっただろうに。


「お待たせ、律!」


 不意に背後からかけられた声に、俺は弾かれたように振り返った。そこに立っていたのは、俺の知る世界のどんな法則からも逸脱した、鮮やかな色彩の塊だった。

 雫は、旧時代の映画でしか見たことのないような、太陽の光を吸い込んだかのような黄色いワンピースを着ていた。風が吹くたびに柔らかく揺れるその布地は、機能性など微塵も感じさせない。頭には、これまた非効率な麦わら帽子が乗っている。周囲の人々が、まるでシステムエラーでも発見したかのように、怪訝な視線を彼女に向けていた。


「……なんだ、その格好」

思わず、心の声が漏れた。雫はそんな俺の反応を待っていたかのように、くるりと一回転してみせる。

「どう? 可愛いでしょ。おばあちゃんが遺してくれた、二百年以上前のデザインの復刻品なの。こういう『無駄』な服を着るだけで、気分が全然違うんだから」

「無駄、か……」

「そうよ。AIの推奨コーデじゃ、絶対に心は躍らないもの。さあ、行こっか」


 悪戯っぽく笑うと、雫は俺の腕を掴んだ。その瞬間、俺の個人端末が警告音を発する。ディスプレイには『警告:未承認の身体的接触です。相手のIDをスキャンし、関係性を明確化してください』というエデンの冷たいメッセージが表示されていた。俺は慌ててそれを無視し、ポケットにねじ込む。


「どこへ行くんだ。ここからなら、最新の空中庭園か、ヴァーチャル美術館あたりが推奨ルートのはずだが」

「そんな退屈な場所に行くわけないじゃない。今日はエデンが絶対に教えてくれない、この街の秘密の顔を見せてあげる」


 雫はそう言うと、俺を引っぱるようにして歩き出した。俺たちが向かったのは、光り輝く中央エリアとは正反対の、古びた区画だった。最新の自動交通システムではなく、わざわざ旧式の地下鉄に乗り換える。ガタンゴトンと不規則に揺れる車内は、リニアモーターが静かに滑る最新の乗り物とはまるで違った。窓の外の景色は、徐々に輝きを失い、くすんだ灰色のビル群へと変わっていく。


「着いたわ。ここが私たちの最初の実験場よ」


 電車を降り、地上へ出ると、そこは俺の知らない東京だった。空気は淀み、様々な匂いが混じり合っている。道の両脇には、テントやプレハブの店が、まるでキノコのようにひしめき合っていた。看板の文字は色褪せ、あちこちで旧時代の音楽が大音量で流れている。ここは、都市再開発の波から取り残された、『第七商業地区』。通称、『ジャンク・ヤード』。エデンが非効率の極みとして、その存在すら市民のマップから消している場所だった。


「……なんだ、ここは」

俺はあまりの混沌に、思わず立ち尽くした。人々は喧騒の中で大声を張り上げ、得体の知れないものを売り買いしている。整然とした中央区画とは、何もかもが正反対だった。

「どう? ワクワクしないでしょ。ここにはね、エデンが『ガラクタ』だって切り捨てた、宝物がたくさん眠ってるの」


雫は、まるで自分の庭のように、楽しそうに俺の手を引いて雑踏の中へと進んでいく。店先には、埃をかぶった奇妙なものばかりが並んでいた。フィルムで撮影するカメラ、黒くて丸い音盤、バッテリーも電脳も繋がっていない、ただのインクが出るだけのペン。俺が知っているどんな製品とも違う、不便で、不格好で、しかし不思議な存在感を放つモノたち。


「見て、律。これ、レコードっていうんだって。針を落とさないと、どんな音楽が入ってるかもわからないの。不便でしょ? でも、だからいいのよ。自分の手で宝物を掘り当てるみたいで」


 雫は一枚のレコードを愛おしそうに手に取り、ジャケットに描かれた色褪せた絵を指でなぞった。彼女の瞳は、古文書修復室で見た時と同じ、静かな情熱で輝いている。


 俺は、ただ圧倒されていた。エデンが支配する世界では、全ての価値はデータ化されている。音楽は、個人の嗜好に合わせて最適化されたプレイリストが自動で生成され、ストリーミングで聴くのが当たり前だ。ジャケットのデザインも、中身の音楽もわからないものを買うなど、愚の骨頂とされていた。

 だが、雫の横顔を見ていると、どちらが本当に豊かなのか、わからなくなる。


 しばらく歩くと、甘くて香ばしい匂いが鼻を掠めた。匂いの元は、小さな屋台だった。老人が一人、鉄板の上で何かを焼いている。

「おじさん、これ二つちょうだい!」

雫が指差したのは、小麦粉を溶いた生地にあんこを詰めた、半月型の焼き菓子だった。もちろん、成分表示もカロリー計算もされていない。

「ほら、律も。美味しいよ」

渡された温かいそれを、俺は恐る恐る口にした。その瞬間、口の中に、今まで経験したことのない、不均一で、素朴で、しかしどうしようもなく優しい甘さが広がった。合成栄養食の、完璧に計算された味とは全く違う。

「……うまい」

「でしょ? 完璧じゃない味っていうのも、悪くないものよ」


 雫は満足そうに笑って、自分の分を頬張った。その口元に、あんこが少しだけついている。俺は、それを指摘すべきか数秒間迷った末、結局何も言えなかった。心臓が、また勝手に速度を上げている。これが、俺の感情なのか?


 ジャンク・ヤードの最も奥まった一角に、特に雑然とした店があった。店先には、壊れた機械や、用途のわからない部品が山と積まれている。そのガラクタの山の中に、俺はふと、一つの小さな木箱を見つけた。

手に取ってみると、それはオルゴールだった。蓋には、色褪せた花の絵が描かれている。横についているネジを巻こうとしたが、錆びついているのか、びくともしない。完全に壊れている、ただのガラクタだ。

 だが、なぜか俺は、その小さな箱から目が離せなかった。

「どうしたの?」

雫が、俺の手元を覗き込んできた。

「いや……なんでもない。ただの、壊れた箱だ」

「そう? でも、なんだか寂しそうな音がしそうだね。きっと、持ち主が聴きたかったメロディが、この中に閉じ込められてるんだわ」


 雫はそう言うと、そのオルゴールを俺の手から取り、店の主人である老人に話しかけた。

「おじさん、これ、いただくわ」

雫は、なけなしの旧式通貨で、その壊れたオルゴールを買ってしまった。そして、それを俺の手に押し付けた。

「え……?」

「今日の記念。私たちの、最初の実験の記念品よ。非効率なガラクタだけど、私たちにとっては、どんなプラチナよりも価値があるでしょ?」


 手のひらに乗った、冷たくて重い木の箱。それは、何の役にも立たない、壊れたガラクタのはずだった。だが、雫から渡されたその瞬間から、それは俺にとって、世界でたった一つの特別な宝物になった。


 帰り道、夕日が灰色のビル群を茜色に染めていた。ジャンク・ヤードの喧騒が嘘のように、街は再び静けさを取り戻していく。俺たちは、言葉少なに地下鉄に揺られていた。俺の隣で、雫は少し疲れたのか、麦わら帽子を目深にかぶり、静かに窓の外を眺めている。


俺は、ポケットの中のオルゴールにそっと触れた。

今日一日、俺はエデンの推奨から外れた、無数の「非効率」を体験した。不便な乗り物に乗り、混沌とした場所を歩き、栄養バランスの悪いものを食べ、そして、壊れたガラクタを手に入れた。

だが、その一つ一つが、今まで感じたことのない種類の感情を、俺の心に刻みつけていった。驚き、戸惑い、好奇心、そして、この温かい何か。

これが、雫の言う「生きている」ということなのだろうか。


実験は、まだ始まったばかりだ。この先に何が待っているのか、全く予測できない。だが、俺は確信していた。この非効率な冒険は、俺の灰色の世界を、少しずつ変えていくに違いない、と。手のひらのオルゴールを握りしめながら、俺は隣に座る共犯者の横顔を、そっと盗み見た。

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