第五話『契約のルール』

 夜の図書館は、死んだように静まり返っていた。エデンによって最適化された照明は最低限まで落とされ、巨大な書架が落とす影は、まるで古代の巨人の墓標のようだった。俺の革靴の音だけが、大理石の床に冷たく、大きく響き渡る。一歩進むごとに、過去の自分と決別していくような、後戻りはできない儀式のような感覚があった。ここは俺の職場のはずなのに、まるで禁じられた聖域に忍び込んだ侵入者のように、背筋がぞくりと粟立つのを感じた。


 時間外通用口で職員IDを認証し、重い防音扉の向こう側へ足を踏み入れる。俺が向かうのは、自分の職場であるアーカイブ室とは反対の棟にある『古文書修復室』。ほとんど訪れたことのないその場所を目指し、薄暗い廊下を、まるで自分の運命を確かめるかのように進んでいく。


 やがて、目的の部屋の前にたどり着いた。重厚な木製のドアには、古風な真鍮のプレートが埋め込まれている。ドアの隙間から漏れる温かい光が、この無機質な空間で唯一の生命の灯火のように見えた。彼女は、まだ残っている。

 俺は一度、固くこぶしを握り、汗ばんだ手のひらを開いた。覚悟を決め、ドアを三度、ノックする。その音は、俺の心臓の鼓動と重なって響いた。


「はい、どうぞ」


 中から聞こえてきたのは、あの鈴が鳴るような、しかしどこか落ち着いた声だった。俺はごくりと喉を鳴らし、ゆっくりとドアノブに手をかけた。


 部屋の中に広がっていたのは、インクと古い紙、それから薬品の入り混じった、不思議と落ち着く匂いだった。俺の知る図書館のどの部屋とも違う、混沌とした、それでいて創造的な活気に満ちた空間。壁際には修復を待つ古書が地層のように積まれ、作業台の上には、大小様々な見慣れない道具がまるで外科医のメスのように整然と並べられている。非効率で、人間臭いガラクタで満ちた、秘密基地のような空間。その中央で、水瀬雫はヘッドホン型の拡大鏡をつけ、ピンセットを片手に、朽ちかけた本のページと向き合っていた。その真剣な横顔は、昼間の快活さとは違う、静かな情熱を宿していた。


 俺の存在に気づくと、彼女はゆっくりと顔を上げた。驚くかと思ったが、その表情は穏やかで、まるで俺がこの瞬間に来ることを寸分違わず予測していたかのように、ふわりと微笑んだ。


「やっぱり、来たんだね」

「……ああ」

 俺は短く答えるのが精一杯だった。彼女の前に立つと、昨日までの自分が嘘のように、心臓が自分の意志とは無関係に跳ね上がるのがわかる。

「気が、変わった。あんたの言っていた実験……俺も、乗る」


 震える声だったかもしれない。だが、瞳だけは逸らさなかった。俺の覚悟を確かめるように、雫は数秒間、黙って俺の目を見つめた。やがて、その唇に満足そうな笑みが浮かぶ。

「ようこそ、反逆者さん。歓迎するわ」


 彼女は拡大鏡を外し、手にしていた道具を丁寧に置くと、椅子から立ち上がった。そして、俺の目の前までやって来る。

「それで、これからどうするんだ。何をすればいい」

「焦らないで。壮大な反逆には、それにふさわしい儀式が必要よ。まずは、この実験における、いくつかのルールを決めましょう」


 そう言うと、彼女は作業台の引き出しから、一冊の革張りの古びたノートと、深い青色のインクが入った瓶、そして旧時代の遺物である万年筆を取り出した。非効率の塊のような品々が、今この瞬間、世界で最も重要な契約書に見えた。


「まず一つ目。これからはお互い、名前で呼び合うこと。敬語も禁止。私たちは『対等な共犯者』なんだから」

 俺は一瞬、言葉に詰まった。だが、ここで躊躇うわけにはいかない。

「……わかった、雫」

 初めて口にしたその名前に、自分の声ではないような違和感を覚える。雫は嬉しそうに頷いた。

「うん、それでいい。私のことは『雫』って呼んで。よろしくね、律」


 不意に名前で呼ばれ、心臓を直接掴まれたような衝撃が走った。雫はそんな俺の様子を楽しんでいるかのように、ノートの最初のページに、万年筆のペン先を滑らせた。カリカリ、という紙を掻く音だけが部屋に響く。


『実験ルール①:律と雫と呼び合うこと』


「ルールその二。私たちの行動、会話、感じたこと……その全てを、このノートに記録する。デジタルデータじゃない、私たちの手で書かれた、誰にも改竄できない記録。これが、AIに突きつける私たちの反証データになる」

「わかった」

「そして、一番大事なルールが三つ目」


 雫は一旦ペンを止め、射抜くような真剣な眼差しで俺を見た。


「何があっても、嘘はつかないこと。特に、自分の感情には正直になること。これは実験だけど、私たちの心まで偽物である必要はないから」


 その言葉は、ずしりと重く響いた。ずっと自分の感情に蓋をして、死んだフリをして生きてきた俺にとって、それは最も難しく、そして最も残酷なルールかもしれなかった。

 俺が黙って、しかし強く頷くと、雫は満足そうに微笑み、ノートを閉じた。


「さて、契約成立ね。それじゃあ、私たちの記念すべき最初の実験を始めましょうか」

「最初の実験?」

「そう。私たちの、最初のデートよ」


 雫は窓の外に広がる、完璧に制御された光の海を見つめながら、楽しそうに言った。


「次の休日、エデンが決して推奨しないであろう、最高に非効率で、無駄だらけの冒険に行ってみない?」

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