第四話『死んだ世界の片隅で』
雫と別れた翌日から、俺の世界に静かな亀裂が入り始めていた。
ルーティンは何も変わらない。朝は決められた時間に起床し、最適化された栄養素が詰まったペーストを流し込む。無人の公共交通機関に乗り、古びた紙の匂いがするアーカイブ室で、端末が示す通りに書物を整理する。昼休みには合成栄養食を摂取し、定時になれば無機質な自室へ帰る。完璧に管理された、波風一つ立たない毎日。俺が望んでいたはずの、「静かな生活」だ。
だが、その全てが、薄っぺらい作り物のように感じられて仕方がなかった。
『このまま、死んだように生きていくの?』
雫の言葉が、まるで思考に感染したウイルスのようだった。仕事をしていても、食事をしていても、ふとした瞬間に、あのまっすぐな瞳と挑戦的な笑みが脳裏をよぎる。そのたびに、整然と並んでいたはずの俺の中の何かが、音を立てて崩れていく。今まで当たり前だと思っていた日常の風景が、色褪せたホログラムのように見えた。
その日の帰り道、公共交通機関のシートに深く身を沈め、窓の外を流れる完璧な街並みを眺めていた。車内の宙に浮かぶモニターでは、政府広報が「プラチナ適合者」のカップルを特集していた。マッチング率九十八パーセント。エデンが保証する、この国で最も理想的な男女の姿だ。
「エデンのおかげで、私たちは無駄なすれ違いや喧嘩を経験せずに済みました」
「ええ。常に最適な選択を提示してくれますから。私たちの関係は、とても安定的です」
彼らの声は、感情の起伏を一切感じさせない、滑らかな合成音声のようだった。表情も、頷くタイミングも、まるでプログラムされたかのようにシンクロしている。安定。それは、揺らぐことのない幸福。以前は羨望の対象でしかなかったその言葉が、今は「停滞」という二文字に聞こえた。
ふと、公園で鳩に餌をやっていた雫の姿を思い出す。警備ドローンに叱られても悪びれずに笑っていた、あの生命力に満ちた表情。非効率で、無意味で、予測不能。だが、あの時の彼女は、モニターの中の誰よりもずっと、激しく「生きて」いた。
自室に戻り、オートロックのドアが静かに閉まると、完璧な静寂と無菌の空気が俺を包んだ。エデンが推奨する、精神衛生に最も良いとされる環境だ。だが今、この静けさが、まるで分厚い壁に囲まれた棺桶の中にいるかのように息苦しかった。
俺は、吸い寄せられるように部屋の姿見の前に立った。そこに映っていたのは、生気の欠片もない、灰色の瞳をした男だった。モニターの中のプラチナ適合者たちと同じ、いや、彼ら以上に――死んでいるような目をしている。
雫の言葉が、稲妻のように心を貫いた。
『社会のバグとして、ただ息をしているだけ』
そうだ。俺はずっと、息を殺してきたのだ。システムから弾き出されることが怖くて、異端者として扱われるのが嫌で、エデンが下した「お前は不要だ」という審判を、ただ受け入れてきた。傷つかないように、目立たないように、死んだフリをし続けてきた。
――本当に、それでいいのか?
このまま、何も選ばず、何も求めず、この静かで安全な棺桶の中で、心が完全に朽ち果てるのを待つのか?
ポケットの中の端末に触れる。ひやりとした感触が、指先から現実を伝えてきた。雫は言った。『気が変わったら、また図書館に来て』と。
彼女の提案は、あまりにも無謀で馬鹿げている。成功する保証などどこにもない。下手をすれば、社会から完全に抹殺される危険すらある。
だが。
このまま何もしなければ、俺の未来は「無」だ。確率ゼロ。ならば、その無謀な実験に賭けることは、本当に無価値なのだろうか。たとえ失敗に終わったとしても、それは俺が初めて、自分自身の意志で何かを選び、何かに抗ったという証になるのではないか。
鏡の中の、死んだような目をした男が、俺をじっと見ている。
もう、こいつのままではいたくない。
俺は、決意した。
端末を起動し、震える指で図書館の内部マップを開いた。職員名簿から「水瀬雫」を検索する。光の速さで表示された『古文書修復室』という文字。マップが示す光点を見つめながら、俺は大きく、深く息を吸った。それは、この死んだ世界で、初めて自分の意志でする呼吸のようだった。
もう迷いはない。
俺は静かに部屋のドアを開け、生暖かく、無数のざわめきに満ちた夜の街へと、確かな一歩を踏み出した。
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