第三話『疑似恋愛実験』

「あなたも、『適合者ゼロ』なんでしょ?」


 夕日に照らされた彼女の唇から放たれた言葉は、ナイフのように鋭く俺の胸に突き刺さった。思考が停止する。なぜ、どうして、この見ず知らずの女性が、俺の最も触れられたくない秘密を知っているんだ?


 俺が声も出せずに固まっていると、彼女は悪戯が成功した子供のように、楽しそうに目を細めた。

「そんなに驚かないでよ。私の名前は水瀬雫(みなせ しずく)。よろしくね、相羽律(あいば りつ)くん」

「なっ……なんで、俺の名前まで……」

「昼間の公園。あなたが端末を見てた時、肩越しに見えちゃったの。あなたのIDと、残酷な『0』の数字がね。あの絶望した顔……私も毎年、鏡で見てるから」


 雫と名乗った彼女は、あっけらかんと言った。俺は全身の血が引いていくのを感じる。個人情報の秘匿が徹底されたこの社会で、他人の診断結果を覗き見るなど、重大なプライバシー侵害だ。だが、彼女の口調には罪悪感など微塵も感じられなかった。それどころか、その瞳には、同じ痛みを分かち合う者だけが持つ、不思議な親密さの色が浮かんでいた。


「……人違いだ」

 俺は、かろうじてそれだけを絞り出した。ここで認めてはいけない。この社会で「適合者ゼロ」だと知られることは、社会的な死を意味する。関わってはいけない人間だと、本能が警鐘を鳴らしていた。

 俺は彼女に背を向け、足早にその場を去ろうとした。しかし、雫は俺の数歩先へと回り込み、行く手を塞いだ。


「ねえ、悔しくないの?」

 真剣な声だった。さっきまでの明るさが嘘のように、その瞳がまっすぐに俺を見据えている。

「生まれた時から全部AIに管理されて、健康も、仕事も、結婚相手まで決められて。私たちは、そのレールからさえ弾かれた。遺伝子がダメだから、価値観が合わないからって……そんなの、おかしいと思わない?」


 彼女の言葉が、俺の心の壁を叩く。おかしいに決まっている。ずっとそう思ってきた。だが、それを口に出せば、この完璧な世界では異端者として扱われるだけだ。

「……何が言いたい」

「私たちで、証明しない?」

「証明? 何をだ」


 雫は、にこりと笑った。それは、世界そのものに挑戦状を叩きつけるような、大胆不敵な笑みだった。


「AIの予測なんて、大したことないってことをよ。エデンは言ったわ。『あなたたちに適合する人間は存在しない』って。恋に落ちて、幸せな家庭を築く確率はゼロだって。……じゃあ、試してみようよ」


 彼女は一歩、俺に近づいた。甘い花の香りが、ふわりと鼻を掠める。


「私とあなたで、恋人のフリをするの。AIが非効率だって切り捨てた、昔ながらのデートを重ねる。意味のないお喋りをして、喧嘩して、仲直りして……その全部を記録するのよ。そうやって、AIが予測できなかったデータを、私たちの手で作り出す」

「……なんだ、それは」

「名付けて、『疑似恋愛実験』よ」


 ぎじれんあいじっけん。

 その言葉の意味を、俺の脳はすぐには理解できなかった。あまりにも突拍子がなく、非現実的で、馬鹿げた響きを持っていたからだ。


「そんなことして、何になる。ただの自己満足だ」

「なるわよ。もし、適合率0%の私たちが本気で恋に落ちたら? それは、エデンのシステムの絶対性に、たった一つでも『例外』を作れるってこと。世界で一番非科学的な感情で、あの完璧なシステムにエラーを起こしてやるの。……面白そうでしょ?」


 面白い、だと? 俺は眩暈がした。この女性は、正気じゃない。あまりにも危険すぎる。俺は首を横に振った。

「悪いが、付き合ってられない。俺は、静かに生きていきたいだけだ」

 今度こそ、俺は彼女の横をすり抜けようとした。もう、一秒だってこの場にいたくなかった。


「本当にそう思ってる?」


 背後から、静かな声が投げかけられる。俺は、足を止めてしまった。


「このまま、死んだように生きていくの? 誰からも愛されず、誰のことも愛せず、社会のバグとして、ただ息をしているだけ。そんな人生に、本当に満足できるの?」


 図星だった。それは、俺が毎晩、自分自身に問いかけていることだったからだ。雫は、俺の返事を待たずに続けた。


「気が変わったら、また図書館に来て。私、あそこの古文書修復室で働いてるから」


 振り返ると、彼女はひらひらと手を振り、夕暮れの雑踏の中へと消えていった。

 俺は一人、その場に立ち尽くす。ポケットの中の端末が、まるで俺の未来の重さを示すかのように、ずしりと重く感じられた。

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