第二話『非効率な彼女』
「適合者ゼロ」の通知を受け取ってから三日が過ぎた。世界は何も変わらない。エデンが管理する完璧な日常が、昨日と寸分違わず繰り返されている。変わったのは、俺の心に溜まっていく澱(おり)の重さだけだった。
昼休み、俺は図書館の職員食堂には向かわず、外の公園にあるベンチに座っていた。合成栄養食の味気ないブロックを齧りながら、ぼんやりと広場を眺める。そこでは、エデンに導かれたのであろうカップルたちが、最適化された穏やかな時間を過ごしていた。彼らの会話に、無駄な感情の起伏はない。表情も、仕草も、全てがプログラムされたように滑らかだ。それが、この世界の「幸福」の形だった。
俺はため息を一つついて、視線を足元に落とした。その時だった。
「こら!あなた、そこで何をしているんですか!」
静寂を切り裂くように、鋭い声が響いた。声の主は、公園を巡回している自律型の警備ドローンだ。球体のボディについた単眼レンズが、赤い警告灯を点滅させている。その視線の先、広場の中央にある噴水の縁に、一人の女性が立っていた。
彼女は、警備ドローンの警告など意にも介さず、手に持った小さな袋から何かを撒いていた。よく見ると、それは旧時代のパンか何かの欠片のようだった。数羽の鳩が、彼女の足元に集まってそれを啄んでいる。エデンが徹底した衛生管理を行うこの都市で、野生動物への餌やりなど、最も非効率で無意味な行為の一つとされている。
「警告します。速やかに行為を中止し、その場から離れなさい。あなたの行動は、都市衛生条例第七項に違反します」
「はいはい、わかってますよーだ。でも、この子たちだってお腹が空くの。あなたみたいに電気で動いてるわけじゃないんだから」
女性は、ドローンにまるで友達に話しかけるかのように、悪びれもせずに答えた。その声は、鈴が鳴るように明るく、この無菌室のような公園には不釣り合いなほど生命力に満ちていた。周囲の人間たちが、眉をひそめて遠巻きに見ている。まるで、システムに紛れ込んだノイズを見るかのように。
俺も、最初はそう思った。迷惑な人だ、と。
だが、なぜか目が離せなかった。風に揺れる長い髪。太陽の光を反射してきらめく瞳。そして、鳩を見つめる優しい微笑み。彼女の存在そのものが、この完璧に制御された世界に対する、ささやかな反逆のように見えた。
やがて、彼女は最後の一欠片を撒き終えると、満足そうに手を叩いた。そして、くるりと振り返ると、遠巻きに見ていた俺と、不意に視線が合った。彼女は少し驚いたように目を丸くしたが、次の瞬間、悪戯っぽく片目をつぶって笑った。
心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
俺は慌てて目を逸らし、食べかけの栄養食を無理やり口に押し込んだ。なんだ、今の……。
結局、彼女はドローンに連行されるでもなく、鼻歌交じりで公園を去っていった。嵐のような出来事に呆然としながらも、俺はどこか安堵している自分に気づく。そして同時に、胸の奥に、今まで感じたことのない奇妙な感情が芽生えていることにも。
午後、俺はアーカイブ室でいつも通り作業に戻っていた。だが、頭の中からは、あの女性の姿が消えてくれなかった。あの笑顔が、網膜に焼き付いて離れない。こんなことは初めてだった。
集中力が途切れ、俺は気分転換に休憩室へ向かった。自動販売機で合成コーヒーを買い、窓の外を眺めていると、ふと、見覚えのある人影が視界の隅に入った。
図書館の出口に向かって歩いている、あの公園の女性だった。なぜ、こんなところに?
俺は、自分でもわからない衝動に駆られて、彼女の後を追うように休憩室を飛び出していた。
追いついたのは、図書館の正面ゲートを出たところだった。俺はどう声をかけるべきか分からず、ただ数メートル後ろで立ち尽くしてしまう。そんな俺に気づいたのか、彼女が不意に足を止め、ゆっくりと振り返った。
「何か、ご用ですか?公園からずっと見てましたよね、私のこと」
夕日に照らされた彼女の瞳が、まっすぐに俺を射抜く。俺は言葉に詰まった。
「あ、いや、その……」
しどろもどろになる俺を見て、彼女はくすりと笑った。
「別に、怒ってませんよ。ただ、あなたもきっと、私と同じ人なんだろうなって思っただけ」
「同じ……?」
意味が分からず問い返す俺に、彼女は一歩、近づいてきた。そして、まるで秘密を打ち明けるように、声を潜めてこう言った。
「あなたも、『適合者ゼロ』なんでしょ?」
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