紅血の吸血姫戦記

@yoimachi_aya

第1話 緋色の王女と雪の騎士

I. 帝国の心臓、その影

帝都オルドリアの尖塔群は、いつもなら黄金色の夕日に照らされ、威容を誇っているはずだった。だが、この数か月、帝国の心臓たるこの都の空は、絶えず暗い雲に覆われている。


皇帝派と反乱軍――《漆黒の獅子》ゼルヴァン公爵派との内戦が始まって以来、帝都の賑わいは消え失せ、広場には飢えと不安を抱えた民衆があふれていた。


「また、兵の召集があったわね」

「仕方ないさ。ゼルヴァン公爵の軍勢は、もう北の砦を落としたと聞く。次は帝都だ」


老いも若きも、声を潜めて囁き合う。彼らの視線は、帝都の中心、皇宮の奥深くに建つ塔に向けられていた。そこには、内戦の影を一層濃くする、緋色の王女が暮らしている。


皇宮の西棟にある静かな離宮。そこは、外の喧騒とは隔絶された、冷たくも美しい空間だった。ステンドグラスを通した薄い光の中で、一人の少女が古びた革表紙の本を閉じ、ため息をついた。


リュシエンヌ・フォン・アウローラ。


帝国では「紅血の公主(ひめのきみ)」、あるいは畏怖を込めて「紅血の吸血姫」と呼ばれる少女。その年の頃は十六。肌は雪のように白く、しかし瞳と、背中まで流れる長い髪は、まるで絞り出した鮮血のように真紅**に染まっていた。


彼女は帝国の皇帝家に伝わる「紅血の力」を宿す唯一の存在。その力は、伝説では大地を焼き、敵を瞬時に滅ぼすと言われているが、同時に発動すれば命を削り、理性を蝕む**と囁かれている。


「また、怖い顔をされていますよ、リュシエンヌ様」


背後から、柔らかくも芯のある声が聞こえた。


振り返ると、そこに立っていたのは、一人の女性騎士。リュシエンヌとほぼ同じ年齢ながら、すらりとした長身と、肩まである金の髪、そして鋼のような銀色の瞳が特徴的だ。彼女の名はノーラ・フォン・ヴァレンシュタイン。帝国屈指の名門騎士家の令嬢であり、リュシエンヌの幼馴染にして、唯一の近衛騎士だった。


ノーラは白い手袋をはめた手で、そっとリュシエンヌの肩に触れた。


「帝都の喧騒が聞こえますか? 彼らはあなたを、怪物だと恐れ、同時に救いだと信じています」

「恐ろしいことね、ノーラ」リュシエンヌは、自らの白い指先を見つめた。「私の力は、私を私でなくす。私は……皆の言う救いではない」

「違います」ノーラは即座に否定し、その銀色の瞳を真っ直ぐにリュシエンヌに向けた。「リュシエンヌ様は、私がお仕えする主(あるじ)です。それは、その血の色や力の有無とは関係ありません」


ノーラの言葉は、いつでもリュシエンヌの心を強く繋ぎ止める鎖だった。彼女の存在だけが、リュシエンヌが「人」であり続けるための唯一の錨だった。


「ありがとう、ノーラ」リュシエンヌは微笑んだ。その微笑みは、外界の騒乱とは無縁の、儚い美しさを秘めていた。


II. 老将の覚悟と演説

その夜、リュシエンヌは皇宮の作戦会議室に呼び出された。


そこは荘厳な石造りの広間で、壁には古き英雄たちの肖像画が並ぶ。卓を囲むのは、皇帝派の老練な将軍たち。白髪を後ろへ撫でつけた将軍、片目に眼帯をかけた歴戦の武人、腹の底から響く声を持つ壮年の参謀らだ。彼らの中には、内心でリュシエンヌの「紅血の力」を忌避している者も少なくない。


「殿下、敵は本日にも帝都へ到達するやもしれませぬ」

「兵力差は歴然。我らの兵は三万、奴らは五万を超えると聞き及びます」


老将たちの声は、重苦しかった。帝都防衛の絶望的な状況が、空気を張り詰める。


老将軍ベルナールが、白髪の頭を深々と下げて進言した。

「殿下。我らが持つ城壁は強固ですが、敵の勢いは過去に例を見ません。もし殿下がその紅血の力をお使いになるならば……」

ベルナールは言葉を濁したが、その意味は重かった。「人の形を保ちながら人を超え、敵を屠る姿。だがその代償は決して小さくなかった」――彼はかつて目撃した「紅血の解放」の惨状を思い出し、不安に震えていた。


リュシエンヌは、重い空気に負けることなく、その中心に立ち、堂々と声を上げた。その声は、若さに満ちつつも、不思議なほど揺るぎがなかった。


「恐れることはない。我らには帝都の城壁がある。砦での戦いで学んだはずだ。──血を流す覚悟が、兵を強くするのだと」


真紅の瞳が卓上の地図を貫く。その姿に、重苦しかった空気が一瞬だが引き締まった。


ノーラが隣で小さく頷き、諸将の視線を受け止めるように言葉を添える。

「殿下は先の戦いで、兵を率い砦を救いました。その事実こそが答えです。殿下の剣は、帝都をも護るでしょう」


老将のひとりが唸り声を漏らした。

「若い姫君にここまで言われては、わしらも腹を括らねばなるまいな……」


会議の結果、帝都防衛の指揮権はリュシエンヌと老将二名が分担して担うことが決定した。リュシエンヌは、内戦の初期段階で陥落寸前の砦を救った功績により、すでに兵士たちの間では「紅閃」として希望の象徴になりつつあった。


III. 炎上の帝都と最初の激突

夜明け。帝都の城壁の上には、無数の槍と弓が並び、兵たちの息遣いが白い靄となって立ち昇っていた。


遠く地平には黒々とした影の波――ゼルヴァン公爵の反乱軍が進軍してくる。旗幟が林立し、鬨の声が大地を揺らす。


兵たちの喉が乾き、手の震えが伝わるその時、リュシエンヌが城壁に現れた。


「兵よ、顔を上げよ!」


真紅の外套が朝日に照らされ、風にはためく。その姿は城壁の上でひときわ鮮烈だった。


「帝都は、我らの家だ! 母が、子が、友が、ここに生きている! それを守るために立つのだ! 私が最前線で剣を振るう限り、誰も、ここを破ることは許されない!」


声は若さに満ちつつも揺るぎがなかった。兵たちの胸に火が灯る。

「殿下のために!」

「帝都を守れ!」


鬨の声が重なり、戦場に響き渡った。


やがて、敵軍の先頭が矢の射程に入った。

城壁の老将が杖を掲げ、どっしりとした声で命じる。

「放て!」


弓弦が一斉に鳴り、矢の雨が空を覆う。黒い影が幾つも倒れ、前進していた敵の列が波打つ。しかし、すぐさま後続が押し寄せ、地鳴りのような足音が迫る。


戦況は均衡を保つどころか、じりじりと帝国軍が押し込まれ始めていた。敵軍の兵数は二倍。重装歩兵と騎兵の連携が巧みで、壁上の防衛を突破するのは時間の問題に思えた。


老将軍ベルナールは馬上から戦場を見渡し、唇を噛んだ。

「く……持ちこたえろ! ここで崩れれば全軍瓦解だ!」


そのとき、敵軍の陣から地鳴りのような音が響いた。

「何だ……?」

兵たちがざわめく。


姿を現したのは、黒鉄に覆われた巨大な攻城兵器。

四本の脚で歩むその姿は、まるで獣のようだった。


「……動いている、だと!?」

ベルナールの声が震える。

それは魔導技術と機巧を融合させた禁忌の兵器――《黒鉄の獣》であった。


敵軍の兵が鬨の声を上げる。

「突き進め! この獣があれば帝都の壁も恐れるに足らず!」


黒鉄の巨獣は唸りを上げながら進み、壁を目指して歩みを速めた。大地が揺れ、兵たちの心もまた揺さぶられる。


ノーラが叫ぶ。

「リュシエンヌ様! あのままでは壁が破られます!」

「わかっている……」


リュシエンヌの胸の奥で、紅血が脈打っていた。

焼けるような痛み。全身を巡る力の奔流。それは彼女を飲み込もうとする獣の咆哮のようでもあった。


「……今しかない」


紅の瞳が燃え上がる。

彼女は静かに剣を抜いた。


「ノーラ。見ていてくれ。これが……私の戦いだ」


リュシエンヌは深く息を吸い込み、胸の奥底に眠る力を解き放った。


「――紅血、解放」


瞬間、彼女の身体から紅の光が迸る。

血潮のように鮮烈な光が彼女を包み、空気が震えた。

兵も敵も、一瞬その光景に息を呑む。


「な、なんだあれは……!」

「人の身から放たれる光ではない……!」


リュシエンヌの髪は燃え上がる炎のように揺れ、瞳は真紅に輝いた。

紅血がその身を蝕みながらも、彼女は一歩前へ踏み出す。


「……帝都は渡さぬ。この命、燃え尽きるまで――」


剣を振り抜くと、紅の閃光が奔り、迫る敵兵を一薙ぎに吹き飛ばした。

地面は焼け爛れ、黒煙が立ち昇る。


巨体を揺らし、黒鉄の獣が咆哮した。

魔力の波動を帯びた砲口がリュシエンヌを狙う。


だが彼女は恐れなかった。

紅血が、痛みとともに力を与えていた。


「……ここで止める!」


彼女は跳躍した。

紅の光に包まれた身体は人を超え、空を裂くように黒鉄の獣の頭部へ迫る。


振り下ろした剣が鉄を裂き、内部の機構が火花を散らして爆ぜた。

轟音とともに獣はのたうち、兵たちが歓声を上げる。


「倒したぞ! リュシエンヌ殿下が……!」


だがリュシエンヌは喜ばなかった。

胸の奥で紅血が暴れ、意識を飲み込もうとしていた。


「……う、ぐっ……!」

膝をつく。紅の光が暴れ狂い、周囲の兵を押し退けるほどの衝撃を放つ。


「リュシエンヌ様!」

駆け寄ったノーラが抱きとめる。


リュシエンヌの瞳は真紅に染まりきり、意識が遠のいていた。

「ノーラ……わたしを……縛ってくれ」


涙を浮かべながらノーラは彼女の手を握りしめた。

「必ず、戻します。あなたは私の……そして帝都の希望です!」


紅血の暴走が収まり始める。だが、その代償は身体を蝕み、リュシエンヌの顔色を蒼白に変えていた。


帝都防衛の最初の戦いは、緋色の王女の覚醒によって、かろうじて勝利を収めた。


しかし、これはまだ長い戦乱の序章に過ぎなかった。北の砦を落としたゼルヴァン公爵の本隊は、この敗北に怯むことなく、帝都への進軍を続けている。そして、その影には、さらなる闇が潜んでいることを、リュシエンヌとノーラはまだ知らなかった。

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