第3話
私と変人さんは週に一度ほど、仕事帰りにカフェで会うようになった。
彼が録音した「作品」の話を聞くこともあったけれど、大半はごく普通の、当たり障りのない会話だった。最近見た映画の感想や、おいしい料理店の情報や、ニュースについての意見。
職業柄、数多くの人と会話するらしく、ファッションから科学の話まで、幅広い分野を調査しているとのことだった。
ある事件の話にかこつけて、ディープな……心理学や性的犯罪といった話題を出してみたことがあったが、特に引くことはなく、いつもの口調で持論を答えていた。
彼は博識で話が面白く、本当に魅力的な人物だった。もちろん奇行を除けばの話ではあるけども。
秋晴れの穏やかな日曜日の昼下がりだった。
私が公園のベンチで文庫本を読んでいると、ふと、見覚えのある背中が視界の隅に入った。
変人さんだった。彼は私服姿で、木陰に立つその姿は、まるで風景画の一部のように静かにそこに馴染んでいた。
その時、砂場で遊んでいた幼い男の子が、派手にすっ転んだ。一瞬の静寂の後、空気を切り裂くような甲高い泣き声が公園に響き渡った。
「うわあああああん!」
母親が慌てて駆け寄り、周囲にいた数人が眉をひそめる。私も思わず顔をしかめ、本の文字に視線を戻そうとした。けれど、できなかった。木陰に立つ変人さんの姿が、磁石のように私の視線を引きつけて離さなかったからだ。
彼は、直立不動のまま、微動だにしていない。
いや、違う。彼は全身で、あの金切り声を取り込んでいた。
少しだけ傾けられた首筋。指揮者がオーケストラのたった一つの音色を拾い上げるように、全神経を聴覚に集中させているのが見て取れた。
周囲のざわめきも、鳥のさえずりも、もちろん私も、彼の世界からは消え失せているのだろう。ただ、あの甲高い一声だけが、彼の意識すべき対象なのだ。
彼の唇が、ほんのわずかに開いている。そこから、浅く、熱っぽい吐息が漏れているように見えた。目は爛々と輝き、恍惚と陶酔が入り混じった、まるで宗教的な法悦の表情を浮かべていた。
泣き声が一段と高くなった瞬間、彼の指先がぴくりと微かに震えるのを、私は見逃さなかった。
ああ――
分かる――
この音の魅力は分からないけれど、あの人が今、何を感じているのかだけは、はっきりと――
私は、あの愛おしい首筋を夢想して、空中に両手を這わせた。
・
「――へえ、まだ会ってんだ、あの変人さんと」
マキの部屋でその話をすると、彼女はいつものように呆れた顔をした。
「うん。変人さん、意外と話が合うんだよね」
「まあ、アンタならねー、面白いと思うかもね。そういう普通じゃないの、好きでしょ」
マキの言葉にはいちいち棘がある。これは私に限った話ではなく、誰にでも公平に行うものだ。何でもバッサリ切るのは彼女の魅力でもあり、ファンとなっている人物も多い。
そして、私の「癖」を知っている唯一の友人でもある。
マキの足元でじゃれていた小型犬の一匹が、クゥン、と鳴いて飼い主のスリッパに粗相をした。
彼女は「あららダメよ、チュピ」と濡れた足元を見下ろしてから、犬の首筋をぐいと掴み、ペット用トイレへと移動させた。
そして犬の顔を間近で見つめながら「そろそろかしらねー」とにこりと笑った。
・
後日、いつものカフェで会った時、私は思い切って公園での彼の様子を尋ねてみた。
彼は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに嬉しそうに目を細めた。まるで、自分の最も好きな音楽について語る機会を与えられたファンのように。
「ああ、あの子ですか。素晴らしかったですねえ。あのトーンも、伸びも」
彼はうっとりと目を閉じ、思い出すように語り始めた。
「ユカさん、あなたは子供の泣き声をノイズだと思いますか?」
「はい。そう思います」
「そうでしょうね。大半の人はそう言いますし、否定はしません。ただ――」
彼は身を乗り出し、熱っぽく続けた。
「アレには嘘も、見栄も、打算も一切ない。剥き出しの生命そのものが発する純粋なシグナルなのです。大人の声には必ず何かが混じります。しかし、理性が芽生える前の子供が本能だけで発する叫びには、一点の曇りもないのです。語弊を恐れずに言うなら、神性すらも帯びているといってよい」
彼の言葉は、もはや変人どころか、狂信者のそれだった。
しかし、その語り口はどこまでも理知的で、人を惹きつける力があった。
「周波数、音圧、響き……泣き声一つとっても、感情のテクスチャは全く違うのですよ。不満の表明である低く唸るような声、甘えからくる間延びした声。ですが、わたしが求めるのはそのどちらでもない。予期せぬ痛みや恐怖によって突発的に放たれる、脳髄を直接揺さぶるような、純粋なエネルギーの結晶! あれに比べたら、どんな偉大な交響曲も、退屈な環境音、あるいは雑味に満ちたドブ水に過ぎません」
彼はグラスの水を一口飲むと、恍惚の表情で締めくくった。
「最高の『作品』に出会えた瞬間、世界から他の音がすべて消え失せるんです。色も、匂いも、時間も。ただ、その一声だけがわたしの宇宙になる。あの感覚を一度知ってしまったら……もう、後戻りはできない」
彼の言葉を聞きながら、私は自分の秘密を考えていた。
眠る恋人の首に手をかけ、苦悶の果てに漏れる、あの掠れたうめき声。
あの音を聴く瞬間の、全身が痺れるような快感。
伝えたいと思った。これは初めてのことだった。
マキには伝えているけれど、まったく理解されなかった。
でも、この人とだったら、本当の意味で分かり合えるかもしれない――
「どうしましたか?」
変人さんの声に気づいた私は、自分の両手が前に伸びていることに気づいた。
席に座ったまま「前ならえ」の状態だ。
「そういえば、握手ってしたことないですよね? 私たち」
「握手、ですか。まあ、したことはないですね……」
する必要がないからね。もう、最悪。
こうして私は、変人さんと何の理由もなく握手をし――私以上にしっとりスベスベの手にショックを受けたまま帰ることになった。
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