歌声

佐伯ひより

第1話

いつもの帰り道。

どこからか声が聞こえてきた。

なにを言っているのかは、わからない。

ただ、なにかの声が微かに聞こえるだけ――。




なにかが聞こえてきたのは3ヶ月ほど前のことだった。

川の土手で遊ぶ子どもたち。

そして散歩をしている人々。

どこにでもある日常の風景。

僕はその場所を自転車でゆっくりと通り過ぎ、住宅街へと入ったところでなにか聞こえた気がして止まった。

辺りを見渡してみたけれど誰もいない。

「気のせい、かな?」

けれど、次の日も、その次の日も同じ場所でなにかが聞こえる。

遠くから聞こえているような、だけど近いような不思議な感じがしていた。

僕はだんだんそのなにかが気になって、いつもより速いペースで自転車のペダルを踏んでいた。


すぐに聞こえなくなってしまうのなら、時間をずらせばもう少し聞こえるかも……。


その予想は当たっていた。

自転車から下りて歩きながら家に近づくにつれて、いつもよりほんの少し鮮明に聞こえる。

「……女の人の、声?」

決して大きな声ではなく、微かに聞こえる程度。

話し声、でもなさそうだけど。

途切れ途切れに聞こえる声が、ついに「歌」だとわかった。

毎日その声に近づくように家の近くを散策するようになり、普段はあまり行かない坂道の近くを通ったときにはっきりと聞こえてきた。

お世辞にも上手だとは言い難いが、儚く聞こえるその歌声はやけに切なかった。


今日こそは、と意気込んで坂道を上り、辺りを見回しながら歌の発信源を探す。

赤い屋根の家。その窓際で頬杖をつきながら歌っている短い髪の女性。

(あの人が歌っていたのか。)

声自体は悪くないのに、やはり上手とは言い難い。

歌い終えたのか、彼女はそのまま遠くを見ている。

帰ろうとしたとき、彼女と目が合った。

(不審者だと思われたかも!)

そんな心配をよそに、彼女は僕を見ながらにっこりと微笑み手招きをしている。

どうしようかと迷ったが、見つかってしまったので、とりあえず行くことにした。


「もう来てくれないのかと思った」

いきなりそう言われて僕は困った。

「あの。誰かと、間違えていませんか?」

僕と彼女は初対面のはず。

それに僕はここへ来た記憶がないし、彼女に会ったこともない。

「……あら、そんなはずないわ」

少し驚いた表情を見せたあと、くすくすと笑いながら彼女は答える。

だけど僕にはわからない。

どうして僕のことを知っているのか、彼女が誰なのかさえも―――。

「僕は本当にあなたに会ったことがあるんですか?」

「えぇ、何度も会っているの」

何度も?今日が初めてではなく?頭が混乱してきている。

だからと言って、彼女が嘘をついているようには見えなかった。

「いけない、もうこんな時間。また明日遊びに来てね」

気がつけば日が沈み、星たちが顔を出していた。


次の日。

朝起きてからずっと昨日のことを考えていた。

坂道を上ったところにある赤い屋根の家。

そこに住んでいる短い髪の女性。

彼女は僕に会ったことがあると言うが、僕自身は記憶になく、彼女が誰なのかさえもわからなかった。

ただ、彼女が僕をとてもやさしい表情で見ている。それだけはわかった。


―――本当に人違いではないのだろうか。


たくさん疑問はあるけれど、いくら考えたところで答えは出ない。

彼女しか知らない、なにかがあるのだから。


家に自転車を置き、彼女の家へと向かう。

小さいけれどはっきりと歌声が聞こえてくる。

どうやら今日も歌っているみたいだ。

彼女の家に着くと僕に向かって窓から手を振ってくれる。

「また来てくれたのね、嬉しいわ!」

とても嬉しそうな弾んだ声。

家の中は彼女以外誰もいないみたいだった。

「家の人は誰もいないんですか?」

「……えぇ、両親は仕事で夜も遅いのよ」

彼女は少し寂しそうな顔をしながら笑う。

その表情に僕はドキッとした。

(そんな顔をさせたいわけじゃない!)

ふいにそんな気持ちが沸き上がってきて、自分でも戸惑っていた。

話題を変えようと気になっていることを彼女に問いかけた。

「えっと、その。……昨日から気になってることがあって」

「なぁに?」

彼女は首を傾げながら柔らかく微笑む。

「あなたは僕のことを知っているんですよね?でも僕はあなたのことを知らないんです。一体どこであなたと会ったことがあるんですか?」

すると彼女は少し困った表情を見せて、なにか思いついたように口を開いた。

「……ねぇ。私の歌を聞いてくれる?」

僕が小さく頷くと彼女は歌い出した。

楽しそうな歌。だけど、どこか切ないうた


「……この歌。どこかで、聞いたような」


そう言った僕を見て彼女は微笑んだ。

なぜか頭の片隅に記憶として残っている言葉。


”ときどきでいいから 私を思い出して”

”あなたの中で やさしい思い出として残るように”


この一部分だけが強く残っている。

どこで聞いたのか、全く覚えていないけれど懐かしい感じがする。

もしかして、誰かに教えてもらったのだろうか?

家に帰ってからも考えていたけれど、いつの間にか眠ってしまっていた。


薄っすらと浮かぶ人の影と、そこから聞こえる歌声。

はっきりとは見えなくて、多分女性がそこにいるのだろうと思った。

僕は懐かしくて仕方がないような感覚になり、自分でもよくわからなかった。

そして、見えていたものがだんだん薄くなっていき、目が覚めた。


学校へ行っても授業が頭に入ることもなく、彼女と歌について考えていた。

昔、あの場所へ行ったことがあるはず。そこで彼女に出会い、あの歌を教えてもらった?

何度も会ったことがあると言っていたので、そこは間違いないのだろう。

あの歌も、一部分とはいえ知っている。彼女から教えてもらったのだろうか。

歌は記憶に残って彼女のことだけを忘れている。

あんなに楽しそうでやさしく笑う彼女のことを。


そういえば、親の転勤で引っ越して数年前にこっちに戻ってきたんだっけ。

一緒に遊んだ友達も疎遠になったままだ。

あのころは、家の近くを探検していたら遅くなって怒られていた。

坂の上まで行ったときは見晴らし良く感じた。

なにか聞こえるからと他人様の庭先へと入ったこともあった。


そこでハッとして顔を上げる。

やっと思い出した。

なにか聞こえたところが赤い屋根の家だったはずだ。

確か歌が好きだと言っていた女の人がいて、あまり上手くはなかったけど楽しそうな歌声。

何度も聞きたくなって、彼女のもとへと遊びに行った。

いつの間にか歌を覚えた僕は自然と口ずさむようになっていた。


「明日、一緒に歌おうね」


そう彼女と約束をしたのに、僕は彼女のところへ行けなかった。

親の転勤で引っ越すことになったから。

それ以来、僕は彼女のことを忘れてしまっていた。

教室の窓から入ってくる風が髪を揺らす。

引っ越したのは今ぐらいの時期だったと思う。

そう思ったのと同時にガタン!と音を立てて椅子から立ち上がった。


―――約束の日は今日だったのかもしれない。


そんな気がしてならなくて、授業中にも関わらず教室を飛び出した。

先生の声やクラスメイトの騒めきも聞こえるけれど、そんなの気にしている場合じゃない。

間違っていても構わない。早く、彼女に会いに行かないと……。


風を切り、人を避けながら急いで進んでいく。

赤い屋根が見えた。もう少しだ、もう少しで彼女に会える。

坂を上りきったときには呼吸もままならなかった。


「……あら、学校じゃなかったの?」

窓から僕の姿が見えたのか、彼女は側へと寄ってくる。

「ごっ……ごめ、ん。い、今まで……忘れ、てて」

まだ呼吸が整わず途切れ途切れにしか話せない。

そんな僕に彼女はやさしく微笑み、嬉しそうにしている。

「いいの。思い出してもらえたみたいだから」

子どものように無邪気に可愛く笑う彼女。

そして、大分呼吸が整ってきたとき。

「間に合ってよかったわ。私ね、今日ここから離れることになっていたから」

「えっ!どうして!!」

そう問いかける僕に彼女は少し寂しそうな表情を見せた。

「……私はもうこの世の者ではないの」


”この世の者ではない”


これは彼女がもうこの世界にいないということ。

やっと思い出したのに、もう会えなくなるなんて。

そんな悲しいことって……。

その言葉を聞いて俯いたままの僕に彼女は言った。

「ねぇ、約束覚えてる?」

「……当たり前、だろ」

震える声で精いっぱい答えると彼女は、ふふふと笑った。

「じゃあいくよ?……いち、に、さん」

忘れていた歌も不思議と頭に浮かんできて、ちゃんと歌えている。

相変わらずな彼女の歌声も、このときだけは、とても上手に聞こえた。

歌い終わると満足そうな顔を僕に向ける。


「とても楽しかったわ。思い出してくれてありがとう!」


やさしい笑みを浮かべ、そのまま彼女は空へ溶け込むように姿を消した。

僕の心に残ったのは、悲しさと寂しさ。

それから彼女のやさしい笑顔と歌。


彼女が消えたあとも僕は歌い続けた。

何度も何度も―――。


そして今日もその場所を通ると彼女の歌声が僕の耳には聞こえてくる。

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