選ばれた場所

黒井真事

第1話 午後の魔法

 十二時三十九分。いつも通りの時間。昼食を食べ終えたわたしは学食を後にした。

 これから行くところは決まっていて、食後は図書室に行くのがわたしの日課になっている。わたしの通っているこの高校では食堂は何故だか地下にある。図書室に行くには一旦上にあがって、さらに校舎と文化棟を繋ぐ渡り廊下を経由しなければならない。意外と道のりは不便なのだ。

 

 それでもわたしは飽きもせずに通っている。別にそれほど熱心な読書家というわけではないが、それでも行くのには理由があった。


 面倒な道のりも食後の散歩だと考えれば苦にはならない。食堂を出た時に感じる地下の冷たい空気はむしろ気に入っていた。生徒たちで溢れ返る食堂は、その熱気と暖房が相俟って、むっとするような温度になっている。重たいドアを開けて外に出た時感じるその冷気は、なんだかとても貴重なものように思えた。この時間に地下をうろつく生徒はいない。わたしが一人でその空気を独り占めに出来るのは有難い。熱くなった頬を冷ましながらわたしはゆっくりと歩きだした。


 渡り廊下は何故か二階にしかない。わたしの教室は三階にあるので放課後図書室に行こうと思った場合も多少の移動を強いられることになる。まぁそれは別にいいけども。足早に階段を上がって二階へ。廊下が騒がしいのはいつものことだ。むしろ廊下という場所はこうでなければいけないような気がする。そんなことを考えながらお喋りに興じている名も知らぬ後輩たちの脇をすり抜け、渡り廊下へと向かった。

 この廊下はかなり変わった造りになっている。壁というものが無いのだ。その替わりに鉄格子のようなものがはめられている点が最大の特徴である。通気性の向上を狙ったのかどうかは知らない。夏は確かに風が気持ちいいけれど、雨が降ると容赦なく吹き込んでくるのだからたまらない。

 文化棟と校舎の間で学年のわからない女子生徒たちがバレーをやっている様子が鉄格子の隙間から見えた。どうしてあんな風に食べてすぐ動けるのかわたしには理解できない。少しの間歩みを止めてその様子を眺めていたかったけど、腕時計を見ると時間は既に十二時四十四分を指していた。急いだ方がいいかな。この時間ならもう来ている頃だろうから。わたしは薄暗い文化棟へと足を向けた。

 文化棟はこの時間だと人気がないのに加えて、特別教室だけでなく廊下の電気まで切られているから、その静かさと薄暗さが余計に際立っている。けれども埃っぽい空気の所為か不思議と音は響かない。わたしの足音もどこかに吸収されてしまっているのか、コツコツというよりパタパタという僅かな音を立てるだけだ。目指す図書室は三階だった。というか三階全体が図書室になっていて、階段を上がるとすぐそこという構造だ。

 古びたドアを開けて中へ。その瞬間に鼻につく図書室独特の匂いは嫌いではない。入ると入室カードを書くのが決まりになっている。備え付けのちびた鉛筆で記入を済ませ、カウンター(でいいのかな?)に向かう。司書の先生はお昼寝の真っ最中のようだったので、一応黙礼をしてからカードを置いておいた。そして奥に目をやると、あぁ、もう来てる。最奥から二つ目、窓際の席。いつもと変わらない。先生を除けば二人っきりっていうのも。足音を立てないようにそっと奥へ向かった。

 一葉はいつものように同じ席で本を読んでいた。

「奈っちゃん」

 わたしの気配、もしくは足音に気付いたのか、本から顔を上げてわたしのあだ名を口にした。名前が奈津だから『奈っちゃん』。極めてシンプルかつ明確なあだ名なのでそこそこ気に入ってはいる。それにいつもと同じ敬礼のような手振りで応える。

「よっす」

 そして音を立てないように注意しつつ、向かいの席に腰を下ろした。色艶を失った木の机は二人で座っても大き過ぎるほどだった。一葉が本に栞を挟んでいる間にふと思いついた疑問を口にしてみた。

「一葉はいつも早いよね。お昼どうしてんの?」

「今日はあんまりお腹が空かなくて……」

「食べてないの?」

「うん」

「ダーメだよ、しっかり食べなきゃ。育ち盛りなんだし」

「ふふ、奈っちゃんってばお母さんみたい」

 言われて確かにオバサン臭いことをつい言ってしまっていることに気付いて、二人して声を出して笑ってしまった。そして「あ」と何かに気づいた一葉が、わたしの顔を指差しつつ、再び声を潜めて言った。

「奈っちゃん、頬っぺにご飯粒ついてる」

「ウソ? どこどこ」

「いいよ。わたしが取ったげる」

 そう言って一葉は右手の人差し指でわたしの左頬をすっとなでた。

 なんだか心までくすぐったいような感覚だった。

 一葉の体温が指と頬を通してわたしに伝わってくるようで、多分顔が少し赤くなってしまったかも知れない。

「一葉ったらもう……、恥ずかしいよ」

「いいじゃん、誰も見てないんだし」

 カップルのようなやり取りがおかしくて、そしてまた二人して笑った。


 だけど――、


 わたしたちは元々こんな風に仲がよかったわけではない。始めて話をしたのは、一年生の時にあった研修旅行の班決めの時だった。わたしも一葉も進んで話をする方ではなかったから、会話も弾むものでなく、むしろ気まずい沈黙が続いた時間の方が長かった覚えがある。

 打ち解けたのは二学期になってからだ。

 席替えの結果、一葉が窓際の列の一番後ろの席、わたしがその隣になったのがきっかけだった。現国の教科書に載っていた中原中也の詩について話したのを始めに、お互い本が好きだということがわかってからは、隣同士というのも手伝って段々と仲良くなっていったのだった。

 お互い帰宅部というのもあって、委員会(一葉は図書委員、わたしは美化委員だった)が無い時は、夕暮れ時まで教室に残って色々な話をした。

 淋しげな夕陽の差し込む窓際の席は、本当なら大嫌いなはずなのに、何故だかその時だけは居心地のよい空間へと変わっていたような気がした。

 普段ならただのコンクリートの箱にしか思えない教室が、特別な場所のように感じられ、一葉がいるだけで世界の見え方が変わったようにさえ思えた。

 何気ない一つ一つの会話も、目に映る景色も、取りこぼさないようにわたしは必死だった。


 二学期も終わりが近づいたある日の放課後。いつものようにお喋りに興じるはずだったのに、その日の一葉は口を開こうとはしなかった。

 わたしがいくら話しかけても上の空で、「うん」とか「そうだね」とか生返事をするばかりで、やがてわたしも頬杖をついて、窓の外に見える夕陽が傾く校庭をぼんやりと眺めていた。

 何分そうしていたのかははっきりとはわからない。でも一葉の頬が赤いのは、単に西日のせいではないような気がしていた。

 やがて決心したように一葉が切り出した。

「奈っちゃん、わたし好きな男の子ができたんだ」


 その時わたしの世界が揺さぶられるのがわかった。

 一瞬、視界がぶれる。ピントが上手く合わない。確かに目の前にいるはずの一葉がぼやけて見えた。


 ああ、そうか。


 わたしはようやく理解した。

 一葉を好きだということ。

 それも単なる友達としてじゃなく、女の子として。


 驚愕と自覚と混乱を必死に抑え込んで、なんとか冷静を装いつつ、

「そっか」

 これだけ言うのが精一杯だった。少し恥ずかしそうに、それでいて嬉しそうに、その相手について話し始めた一葉と向き合いながらも、わたしの胸は壊れそうだった。出来ることならば、この場で全てを打ち明けてしまいたかった。

 でもわたしには、一葉のことが好き、大好き、そう叫んで抱きしめる勇気なんてなかった。

 ただ目の前にある冷たい壁の前に立ちすくむことしかできなかった。



 その後一葉に何があったかということについては知らない。聞きたくもなかったし、変に勘ぐるのも一葉に悪いような気がしたのだ。

 一葉が誰と付き合おうと、わたしが一葉を好きなことには変わらない、それでいいと思った。この気持ちも伝えまいと決めた。今までの関係を壊したくはなかったし、もし一葉が誰かと付き合っているなら、それを邪魔したくはなかった。


 片想いだっていい。


 いや、その方が多分お互いにとって幸せだとわかっていたから、その先を求めるのは止めにした。

 二年生になってクラスが別れてからは、わたしが塾に通い始めたこともあって、こうして昼休み位しか顔を合わせる機会もなくなってしまった。だからこそ、その僅かな時間を大切にしようと心に決めた。



 わたしたちはいつもの様にまた声を潜めてお喋りに興じた。話すのは取り留めもないことばかりだった。多分他の人が聞いたら下らないと思う会話なのだろう。

 でもわたしにとってはこの時間こそが至福の時だった。他愛のない話でも、ずっとずっと話し続けていられるような気がした。しかし気付くと時計はもう十二時五十五分を過ぎていた。


 時間が止まればいいのに。


 何度そう思ったのかはわからない。願わずにはいられなかった。窓の向こうの空はどこまでも突き抜けていくような青さで、午後の暖かい日差しの差し込む図書室の空気は、優しくわたしたちを包んでくれていた。

 もし叶うのなら、この瞬間を切り取っておきたいとさえ思う。

 わたしと一葉、二人だけの世界。

 そんなことはムリだってわかってるのに――、

 

 それでも、

 神様、どうかこの瞬間をわたしにください。




「――ちゃん、ねえ、奈っちゃんてば、どうしたの?」

「え、ああ、うん、なんでもないよ」

 いけない。完全に自分の世界に入り込んでしまっていたようだ。

わたしはよっぽど妙な顔をしていたに違いない。その所為か一葉もなかなか信用してはくれなかった。

「ウソだー、なんか遠くの世界に思いをはせてるような感じだったよ?」


 違うよ。


 わたしが想っていたのは一葉がいるこの場所のことだよ――、なんてことを言うわけにはいかない。適当に言い訳をしておかないと。

「いや、なんて言うか……、空が青いなぁって思ってさ」

「ホント? 確かに青いけどさ。まぁいっか。あ、もうあと二分で授業始まっちゃうよ。奈っちゃん、行こ」

 そう言って本を持って立ち上がった一葉に聞こえないようにわたしは呟いた。

「………………ばか」

 時計を見ると確かにもう十二時五十八分になっていた。わたしも席を立って一葉の後を追った。

 


 わたしたちはずっと一緒にはいられない。

 それは痛いほどわかっている。

 午後の魔法は実にあっけなく解けてしまうものだ。


(ここは選ばれた場所。そしてわたしの夢が果てる場所)


 そう心の中で一言残してからわたしは図書室を後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

選ばれた場所 黒井真事 @kuroko3090

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ