神に愛された男

sunflower

第1話

赤いチャイナドレスを着た黒髪の女性。

アンティークな家具の足を思わせる、艶やかなスタイル。

ドレスの光沢がそれを更に強調している。

ヒールも高く、地面との接触音がやけに響く。

それが常識では無い時代。

誰もが家に居ながら、何もかもを体験出来る時代において彼女の思考パターンは少数派である。その中でも歩行と言う移動手段は、特に価値が無いと思われていた。

街灯にはサイケデリックな模様。

見上げる夜空にネオンの光に似せた電飾。

サングラスに似たディスプレイが、あらゆる物質を装飾する。例えそれが空であっても。

古めかしい風景と、アーティステックなオブジェクト。

彼女自身の流行だった。

人は元来、古き良き時代と言うものが好きと言う定説がある。

あるはずだ。

だって、私がそうなのだから。

車は道路を流れず、歩行者もまばらだ。

そこが惜しかった。

レトロな車と贅沢は言わないが、渋滞くらいは欲しい。

人々は移動と言う概念すら捨てつつある世界において、人が乗る物に対しては特に価値を失いつつあった。

それならば、空に浮かぶネオンサインは誰のためにあるのだろうか。

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「この時代に、この広告?人の趣味嗜好を何処から手に入れているのかしら」

少しばかりの笑みを零し、視線を空から外すと、くだらない疑問をすぐさま意識の外へ排出した。

彼女は食事やファッションなど、かなり古臭い価値観を大切にしている。身に纏う服は視覚で得た感覚のみを重視し、最も重要な自己表現の手段として常に意識していた。

ただ、この時代において常に効率的で理にかなっているものを選択するのが一般的で、その価値観が彼女を加速的に頑なにさせていく。

「そんなものにエネルギーを裂くほど世界に余裕なんてあると思うの?」

大多数の人々が、食欲や筋肉の維持を薬剤によりコントロールし、乾電池一本ほどのエネルギーで生活をしているのだ。

したがって、その類の台詞は掃いて捨てる程浴びせられたのだが、

「それ以上に価値のある資源の活用方法を知らないので」

そう返すのが日常だった。

彼女が通り過ぎると、見えていたネオンサインは幻の様に消えて行く。

「くだらない街に、無価値な空ね」

そう呟きながら、流れる風で乱れた髪をかき上げ、裏路地に入る。

赤いネイルが頭皮と髪を擦り、心地良い音を奏でた。

彼女は、更に人通りの少ない路地を進む。

石畳で敷き詰められた路面だったが、石の持つ質感とヒールが放つ反響音の乖離が耳につく。音がやけに柔らかい。

鉱物では無い何かが使われているのは確かだが、それを偽物と呼ぶには忍びなく、代替品と考えるのは浅はかだ。

この世界は、最適解として使用されるか、変更前として残されているのかの二択しか存在しない。おそらく前者と考えて間違いないだろう。

行き止まりにはレンガ造りの建物があり、入口は重厚な金属の扉で閉ざされていた。

彼女はその扉にそっと手をかざすと、扉全体が淡く光り彼女を照らす。

そこに浮かび上がる文字には、彼女が彼女自身であることを証明したと示していた。

彼女の前にある重厚な扉は、力学を感じさせない程に軽やかに開く。

その異常な動きに驚くことなくそのまま中に足を踏み入れると、外光によって照らされた無機質で真っ白い通路が現れる。

廊下には彼女以外居らず、もちろん受付のような物すら無い。

彼女にとって、それはごく当たり前の光景だった。入口であった本人確認が、いわば受付であり、支払いであり、審査なのだ。大抵の建築物はこのような構成に変更済みである。

建物の奥へと進むと、足の裏に伝わる感触が大きく変わった。おそらく、途中から絨毯の様なものが敷き詰められているのだろう。しかし、視覚的には無機質な床が続いている。

通路の先には両開きの扉があるのだが、それには取っ手も継ぎ目も無くただのガラス板の様だった。極めて透明度の高いガラスで出来ており、ここに入った経験がない人間には、仕切られている事すら認識できないだろう。

ほぼ無音で開くガラスの扉を抜け、放射状に広がるブースに足を進める。

上方にはモニターが設置されてはいるものの電源が入っていないのか、どのモニターも黒一色だった。

後ろで入口の扉が閉まる感覚がする。すると、室内は赤黒い間接照明に切り替わり辺りを照らし出す。ガラスのドアでサングラスは機能を失い、現実がようやく現れたと言っていい。

「このセンス嫌い」

そう言いながらサングラスの様な物を外し、胸元に差し込んだ。

彼女は目指すブースに触れると、そのカプセルも淡い光を発し、無数の文字列を刻み出す。

「ここの処理が長くて嫌だな…」

文字列を見つめる彼女の表情は少し歪む。

サリル・スーチー

年齢21

登録コンテンツ…

住所…

彼女のプライベートな内容を次々映し出していたのだ。

「このデータ、流出しているんだ…」

小さく呟くと片手で文字列を払い除け、ガラスのハッチを引き上げた。

「流出させた奴ら…探し出さなきゃ」

彼女の口元は怪しい程に緩んでいるが、目は獣のように輝き瞳孔は開ききっていた。

個人情報が屋外の端末に表示されるという事は、自分のアカウントと個人情報が紐づけされている事を表す。

誰かが彼女の事を調べ、それをデータベースに書き込んだ事は明らかなのだ。それも明確な悪意を持って。

エアで駆動しているのか、ブースの開閉には時間がかかる。空気の圧力弁の音も彼女にとって耳障りでしかない。

45度ほどまで開いたハッチの中に、オレンジ色の座席が一つだけあり、ヘッドギアが頭部側に置かれていた。

彼女はそのヘッドギアを手に取り、小さなブースの座席に身体を埋める。

絶妙な圧力で押し返すシートは快適で、所々メッシュになっているのが更に良い。

そのおかげで、シートとの接触面で汗ばむことは無いのだ。

ヘッドギアを装着し、手元にあるレバーを引き上げるとエアの放出音と共にゆっくりとハッチが降りて来る。

ハッチのレバーから手を放し、凹みのある場所へ手滑り込ませ、磨き上げられたパッドに掌を添えた。僅かに電流が流れる感覚がした後に表皮が密着する。

ディスプレイに、『前回の終了ポイント 2020年7月30日』と表示が浮かび上がる。

指先で操作すると、ヘッドギアから音声と映像が流れ出す。


「今日は午後から未明にかけて大型の低気圧に覆われ、西からは湿った空気が流れ込みゲリラ豪雨が心配されます。災害の危険性が高いので今後も…」

テレビで流れるニュースは、いつも不安を煽る文言が多い。

神心凪はテレビを消し、支度に専念する。

髭剃り、歯磨き、トイレなど、全てがいつもと同じリズムで流れていく。

それは優雅なひと時ではなく、圧縮された時間の中に生きているようだった。

鏡も見ずドライヤーも使わない彼は、日常に追い立てられるように家を出る。

飛び込んだ通勤電車は、どうにかそこに存在できるギリギリの空間ではあるものの、揺れに身を任せる事により、その場で寝ることも出来た。もちろん、最初は鞄が何処かへ流れて行く事や、吊革から手が離れ、漂流した結果そのまま反対側のドアから外に押し出されたこともあったのだが。

ここ最近は熟睡出来ている。

慣れとは素晴らしい進歩だ。

凪はこの状況に順応している自分自身を心の中で褒めた。

「次は~山王町~」

無意識に反応したのか、目覚めたのは降りる駅の手前。

電車あるあるだな……。

自宅では、目覚ましが無ければ決して起きる事が出来いのだが。

もう少しで開かれる出口を尻目に、最近見かけるようになった目の前の老紳士が座席から立ち上がり様に呟く。

「今日で出勤収めだな…人生で最後の…この仕事に意味はあったのだろうか…」

老紳士が耳元で呟いたため、はっきりと独り言が聞こえてしまった。

停車後に不自然に開くドア。

そこに特別な力がはたらいているかのように、乗客は吸い寄せられていく。

凪もその渦に巻かれ、ホームの人混みに消えて行った。

職場に着くと、用も無いのだが早速パソコンを立ち上げる。パソコンさえ立ち上がっていれば、仕事をしているように見えると思っているからだ。

実の所、凪の業務はルーティンワークばかりで、パソコン使わなければならない作業などほとんど無かった。電卓と書類とボールペンがあればできる仕事をずっと続けている。

不意に視線を上げると、デスクの前を白木さんが横切った。

正確に言えば不意にではない。

この時間に、彼女が自席に向かう為に必ずここを通るのだ。毎日意識していると、足音だけで白木か有象無象かの判断が付くようになるものだ。

まるで家に帰りつく前に、犬や猫が主人の帰りに気が付くように。

凪は白木を無意識に目で追う。

細く整った顔立ちに大きな瞳。

背中まで伸びた黒髪は艶やかで、白いブラウスが良く似合っている。

首元から覗く白い肌は、透き通るような透明感がありいつまでも見ていたい。

目の前を通り過ぎた彼女は、席に着くことなくいつも通り周囲の女性陣と脈略の無い会話を始めた。

そう、こんなにも清楚でありながら社交性も高いのだ。

凪は彼女達の会話の中から、白木さんに関する関心事を拾い出す。

戦略は情報収集が一番の武器と言うからな。

そう心で呟くのだが、何よりも武器になるのは見た目なのだが…。凪は自身においては、それほど重要とは思っていない。自分は彼女を見た目で気に入っているというのに。

「パスタより日本そばの方が不意に食べたくなるよね」

早速重要な情報を得たと思い、社給の付箋にメモを書き、引き出しの底に張り付ける。

そして凪は、シミュレーションと言う名の妄想を始めた。

誘うならば、和食の店が良いのだろうか?

更に聞こえてきた会話の中から、白木さんの話だけを切り取る。非常に便利な耳だ。

「わかる!小麦って急に食べたくなるよね」

やはりパスタ?いや、ピザが好きなのだろうか…。麺類ならば何が食べたい?と、誘えば蕎麦もパスタも両方を網羅するので、満足したお店選びが行えるのではないだろうか。待てよ、ピザを食べたかった場合、どうなるのだろう。

凪の妄想は止まらない。だが、実際にその情報は何の役にも立つことは無かった。


「二年前、暴走したものね」

スーチーは、白木薫に恋心を寄せる凪を見ながら過去を思い出し頬が緩んでいた。

当時の凪は、就職出来た喜びや、仕事だとしても仲間が出来た事に興奮する日々が続いている状態。所謂、調子に乗っていたのだ。

勿論、プライベートのお誘いや、気の置けない会話などは皆無だったのだが、それでも彼にとっては貴重な体験であったことは間違いない。



2018年4月2日 神心凪


その日は新入社員の社内案内日だった。

凪の会社では新入社員に対して部署の紹介や、各部課長の挨拶と言う恒例行事がある。

その案内役には入社2年目以内の先輩が先導するのが恒例だった。

この仕組みに対してどんな意図があるか、今では誰にもわからない。よく聞く、気が付いたらそれが常識としてそこにある状態だ。

凪は二年前にこの恒例行事中に迷子になり、営業部で放置された経験があった。それ以来、営業部に出入りする事は一切ない。

今回、この先導役として凪が指名されたのは、その事を人事部が忘れていたか、その事実がちゃんと引継ぎされていないか、どちらかなのだろうが、根本的な問題は人事部ではなく凪本人が悪いのは確かだ。

「みなさん、私は営業事務の神心凪です。今日一日、社内案内を致します。よろしくお願いします」

6名の新入社員は真剣な眼差しで凪をじっと見つめている。

新入社員ならではの勘違いで、案内する凪の事を人事部の偉い人かもしれない。そして、これは一種の試験なのでは無いのか。そう思っての行動だったが、この時の凪にはそれを理解する事が出来なかった。

真剣に自分の話を聞いてくれるほど、今の自分は仕事が出来る社員に見えている。そう思い込んでしまったのだ。

その中に白木さんが居た。

彼女は潤いに溢れた瞳で、真剣に凪の説明を聞き、小さなメモ帳に隙間なく文字を埋めていく。

凪はこの時、これ程真剣に自分の話を聞いてくれる白木さんを見て恍惚感に浸った。

浮かれた気分で最後の部署である、営業部を訪れた。

凪にとって、二年ぶりに入る営業部の扉は重い。事前打ち合わせの場所が会議室だった事もあり、苦い経験をこの時まですっかり忘れていた。

一度はちゃんと部署を訪れるべきだったと後悔する。しかし、この時の凪はある種、無敵の精神を少なからず宿していた。

自分ならば、過去の失敗など無かったことの様に振舞える。

それが甘かった。

営業部に集められた社員は、根っからの体育会系である。相手の事よりも周りが盛り上がるかどうか、そして自分が盛り上げられているかどうかの精神に道徳観を預ける。

すなわち、盛り上がればそれでいいのだ。

凪が営業部のドアを開けると、目の前に掲示板があり、そこには大きな社内の地図と、『新入社員と一緒に迷わないでください』と書かれた張り紙が掲示されていた。

それを見た凪は、一瞬で心が萎む。

「神心さん、営業部へようこそ」

打合せした営業部主任が、満面の笑みで凪達を事務所正面に集めた。立ち位置を示す様に差し出された二の腕と、スラックス越しにでもわかる大腿四頭筋が『文句は一切受け付けない』と意思表示しているように感じさせる。

「さぁ、営業部ですが、過去に迷い込んで帰れなくなった若者が居るので、ちゃんと案内役の…おっと、一番危ない人でしたか!」

白々しい驚きが、何も知らない新入社員に刺さりひと笑いが起きたのだが、凪には重くのしかかる。

そこから続く、どの様な仕事をしているのか、どんな競合先があるのかなど、雄弁に語る主任の声は、どこか遠い国の言語に聞こえ、凪の頭には何も残らなかった。それどころか、この後に予定されていた営業部への質問を行えたかどうかの記憶すらない。

気が付くと、凪は後ろ手で営業部の扉を閉めていた。

「神心さん、次はどの部署へ行くのでしょうか?」

呆然としている凪に、白木さんが優しく囁きかけてきた。

新入社員に心配されるほどまでに凪は固まっていたのだ。

気を取り直し、タイムスケジュール通り一旦新入社員を食堂へ集めた。

「大丈夫ですか?」

周りの新入社員も心配して凪に声をかけてきた。

それは白木さんを見て、その行動を真似しているだけだと凪はここでようやく気が付く。その声からそれが容易に想像できたのだ。

「大丈夫ですよ」

そうは言ったものの、凪は次の予定を見て肩の荷が下り、ようやく本当の平静を取り戻す。

「食事の後は、役員からの挨拶があり、休憩した後に夜の会食です。私は会場まで案内した後仕事に戻りますが、皆さんは引き続き研修頑張ってください」

事務的にする会話は、凪を幾分か楽にさせた。

会場である会議室まで案内した時、不意に白木さんが振り向き、

「忙しい中、どうもありがとうございました」

と、深々と礼をして中へ入っていく。

凪は、その行動に衝撃を受けた。

今までの自分では想像も出来なかったからだ。

研修や、面談など、数々の行事は面倒くさい物事の一環であり、周りに気を遣う事などできない。それどころか、案内役の人間まで恨めしく思う事が多々あった。だが、この女性はそれらの行事は多くの協力者によって成り立っている事。そして、どんな行事であれ、それに係わる人は一生懸命に、その行事の進行を行っているという事を理解していた。

その聡明さと容姿に、凪は一瞬で心を奪われた。

まあ、容姿の方が割合はずっと高いのだが。

その日の夜、凪は白木さんとデートをする夢を見た。

余りにリアルで、目覚めた時には着信が残っているのではないかと、すぐさま確認するぐらいだ。

凪は出社すると、すぐに同じようなシチュエーションを探し出す。

夢での展開では、資料室で二人きりになった時、凪は家族が居ない話を彼女にする。

彼女は、私が家族になれませんか…と、胸に飛び込んでくる流れだ。

まともな人間が考えたら、まず上手く行くはずがない事がわかる。

何故なら、凪は今までどの城にも攻め込んだ事の無い軍隊だ。そして、白木はたった一日で既に社員の中でも有名なアイドル的女子社員になっていた。言わば、難攻不落の要塞と言って過言ではない。どんな奇跡が起きようとも、凪が仲良くなれる存在では無いのだ。

にもかかわらず、身の上話だけで彼女が同情して惚れるなど、どれほど美青年であっても中々難易度が高い。

せめて、仕事が出来て、その指導をしていて惚れるならまだわかるのだが、残念ながら凪にはそのような実力も無かった。

むしろ、身の上話くらいしか武器が無かったと言える。

そんな竹槍のようなエピソードで要塞に突っ込むなど、常識がある者では考えられない。と、判断できないのが神心凪だった。ただの夢で見ただけの、何の根拠もないお告げに全てを賭けたのだ。

その日の凪は、正に白木薫のストーカーだった。彼女が一人になるタイミングを目で追い、後をつけ、すれ違いざまに声をかける。

考え得る、彼女との二人きりになれそうなタイミングを根気よく探っていた。焦りからか、その瞬間を凪は見誤ったのだ。

白木さんは給湯室に一人で向かう。

それに続き、凪も給湯室に入った。

「あっ神心さんも何か飲まれるのですか?」

後ろから付いてきた凪を不審がらずに笑顔で問いかけた。むしろ、このような行動が慣れている証拠ともいえる。

凪は言葉に詰まった。元々後を付いて来ただけで、そもそも給湯室には用事は無かったのだ。しかも、廊下から足音が聞こえている。時間が無い事を意識した凪は、たった一つの武器である竹槍…つまり身の上話も投げ捨てた。そして、全力疾走で要塞に向かって走り出す。

何度も心の中で練習した台詞だ。

「家族にならない?」

凪の口から出た言葉は、既に変態のど真ん中を見事に貫いていた。ほぼ会話も無く、好き嫌いどころか顔と名前が一致するのが怪しいレベルで言うべきではない。

「かっ家族?」

その言葉を口にしたのは、給湯室を覗き込んでいたお局だった。

「貴方、何を言っているの?ここは会社よ?」

困惑するお局は、声の大きさを抑える事が出来ない。声質も金切り声なのか、裏声なのか、地声なのか、それすらわからない程に乱れている。

「いや、間違えました」

凪が走り去ろうと出口に向かうも、お局は目の前に立ちふさがる。

「何が?どう間違えたの?」

そう、何も間違えてはいない。間違えているとすれば、凪が生まれる世界を間違えたくらいだ。人類にはまだまだ刺激が強すぎた。

「全部です」

「はぁ?」

お局は小刻みに震えていた。勿論それは笑いではなく、怒りが制御できない所まで達し、逆にどう噴出させていいか分からなくなっている時の震えだ。

その後、凪は言葉にならない罵詈雑言を一身に受け、その日は誰とも話さずに無言で帰宅した。

耳に入る会話が、全て給湯室の事をあざ笑っている様に聞こえていたからだ。

しかし、それほど的外れの事ではない。

実際、8割ほどの社員は、凪の奇行を噂していた。

「人の噂も七五日だ…」

凪はそう呟きながらどうにか翌日出勤すると、白木さんの机が妙に整っている…いや、使用感が無くなっている事に気が付く。

こういう時程、他人の言葉は聞こえてくるものだ。

「社内掲示板みた?」

「うん、やっぱ昨日の出来事が原因だよね…」

凪は席に付く事無く掲示板へと走る。

『通達 白木薫は本日をもって営業事務から営業3課へ移動とする』

昨日のうちに、白木さんの移動願が受理されていたのだ。

優しくされた人を追い詰めてしまった自分という存在をこれほど恨んだことは無い。

立ち尽くす凪の肩を佐伯課長が叩く。

「9時から重役の面談を受けるように」

まさに、四面楚歌である。


その面談を前にスーチーは時間の流れを止め、何度か凪の睡眠時間をやり直す。

夢とは記憶の整理と言われるが、実の所記憶回路のショートのような物であり、その内容は一定ではない事をスーチーは知っていた。

それは彼女がこの世界を何度もやり直していた事を意味し、再現性を全く見いだせなかった経験からだ。

何度かやり直すうちに、手痛い振られ方をした夢を見つけ出す。

中には白木薫がビンタするものや、凪の頭からコーヒーをかけるものまで多種多様だった。

面白いので、そのままにしようと思ったが、さすがに可愛そうになり、ほどほどの物を数日選び続けると凪は奇行を思いとどまるようになった。いや、スーチーが強制的にそうさせたと言っていい。

「もう、貴方は私にどんなに感謝しても足りないんだからね」



2020年7月30日


凪は絶対に来ないであろう未来の妄想にふけるが、ずっとタイミングは無かった。

いや、ずっと勇気が出なかったのだ。

千回に一回でも告白が成功夢を見る事ができれば希望を持てたのだが、その様な夢を見る事が無かった。

その様なお告げが無くとも、自分がいつか成長し、完璧なタイミングで、理想的な受け答えをして、夢の様な雰囲気を演出すれば希望が叶う…現実に。そう思い込める程に、彼自身は幸せには生きていない。

所詮自分の運命などたかが知れている。だからこそ妄想くらいはしてもいいじゃないか。

凪は心の中で呟くと、机上のパソコンに向かい合った。

こんな現実、誰が面白いのだろう?

誰ともほとんど話さず、誰とも飲みにも行かない。トラブルが起きる訳でもなく、何の変化も無く過ぎて行く人生…。

そんな事を考えながら、昨日終わった仕事のメールをチェックする。

「あれ?」

見知らぬアドレスからファイルが送られてきていた。

もちろんすぐに削除…したはずだったのだが、何故かファイルがダウンロードされていく!

指が当たった。

意識しすぎると、その行動を取ってしまう。人間とは、何とも不自由に出来ているものだ。

どうして良いか分からず、モニターを両手で抱える。

「止まれ!止まれ!止まれ!」

強く念じたのが良かったのか、普段のデスクトップに戻っていた。悪意があるファイルでは無かったのか、何も変わらないいつものスクリーンだ。

落ち着きがてらに白木さんを見てみると、笑いを噛みこらえている。

見られていた…。

始まっても無いまま、終わりを告げられた気がする。

ここは、一か八か声をかけてみよう。災い転じて福となすだ!

「白木さん……見てました?」

「はいっ、ずっと……」

はにかむ様に笑う彼女は、誰よりも耀いていた。

「あの…今晩…」

ここはチャンスだ。

思い切って誘ってみるが、悪夢は終わっていなかった。

自分のモニターが暗転したかと思うと、一斉にメール画面が開き出す。

今度は、モニターを掌で叩く。

「止まれ!止まれ!止まれ!」

さっきもこれでどうにかなったのだ。

無駄かもしれない…そうは思っている。しかし、自分ではどうする事も出来ない。

同僚のパソコンも、違う部署のパソコンもエラー音がけたたましく鳴り響く。

凪から送られたメールが次々にウイルスをばら撒き、システムを崩壊させているのが机の上からでもわかる。

復旧が絶望的な事も…。


「またクビになっちゃうじゃん…バカ」

スーチーは手をパッドから離すとカプセルの内側横にあるボタンを押す。

記憶媒体を呼び出すボタンだ。

これを押すと、今まで流れていた時間が目の前にアルバムのように現れる。数十年後の未来も数十年前の過去も同じ時系列上に存在するのだ。

スーチーの目の前に現れた沢山の画像の束は、その幅に見合わず数十分。しかし、その数十分の分厚さがその処理量の多さを表している。このシステムの凄さを視覚的に理解するにはそれだけで十分だった。

ハッチ内側にある無数に刺さっているページに指を添える。それは、その時間を観察することを意味するのだ。

彼女が触った部分から、一枚の静止画のポップアップウインドウが表示される。そこに行くのかどうかの選択が迫られた。

目の前にポップアップされた画像は、上司に怒られている画像だ。

「散々やらかして、今の状態まで落ちたのに…反省…出来ないタイプなのね…」

事件発生から1時間後だった。

「この怒られ方だと…確定しちゃうじゃん」

一応、スーチーは2時間後も確認してみる。

「役員による聞き取り調査…だよね」

重役らしき面々の前に、糸の切れた操り人形の様な体勢。

泣きはらしたであろう目に、脂汗でじっとりとした前髪。

その、憔悴しきっている表情は今までで一番ひどかった。

「この表情…いつ見ても最高!」

スーチーはパッドを叩きながら声を出して笑う。

この、たった一枚の画像でも、彼らの世界の全てが詰まっていた。拡大をすれば原子レベルにまで至り、縮小も太陽系を優に凌駕するのだ。その移動距離に関しても、作成された宇宙空間の中ならば何処までも遠くを観測する事が出来る。

ただし、造られた全てには限界があった。

拡大の最小限度はクオークの大きさが確認できるレベルであり、それ以上の小さな存在は再現することが出来ない。

したがって、凪の住む世界には明確に大きさの限界点があるのだ。

ある意味スーチーの世界でも同じだった。

それ以上微細のものに対してのアプローチは出来ておらず、例えそれ以上小さなスケールを用意してもそこを表現することは出来ないのだ。

また、時間に関しても細分化の限界がある。

29972458分の1秒。

それが、この一枚だ。

ちなみに、この世界で光の速度になった物質は1mに一度しか生成されない。

その距離ならば演算で解決するのだが、それを超える場合には処理が出来なくなるためにその物の速度はそれ以上加速できないようになっている。開発段階では、その世界に存在する回数が減らし、速度補正をかけていたのだが、存在が曖昧になってしまう。言うなれば処理落ちしてしまうのだ。

現実で起きている高速度不変の法則と同じように、速度の上がった物質に関して空間を歪め、流れる時間で補正する。ご都合主義のような現象が現実世界で起きている事象によって無理なく再現された。

逆に言えば、その法則があるからこそ、時間の最小単位を現実世界より幅を取って作成することが出来たと言える。

彼らの世界は、この画像を積み重ねて作られている。この状態では、時間に対して方向性が無い。進も戻るも無く、全てが常に並列に存在しているのだ。

したがって、戻すも進むも同じ事だった。

観測しなければ…なのだが。

「もう少し先まで見たいけど…時間もかかるし、とりあえずいつものやっちゃいますか」

スーチーは凪の過去のファイルを開く。

過去に戻るという事は、自身のシナプスの位置を、流れた電子の軌跡を、放出された化学物質、その全てが戻る。したがって、白昼夢や記憶の片隅に今朝の事件が残る事は無い。

記憶とは、全てが位置であり電流の流れた軌跡なのだから。

したがって、凪が見た夢は未来を見た記憶の欠片ではなく、列記とした悪夢なのだ。

まあ、スーチーが告白を止めるため、悪夢を見る様に何度も周回したのだが。

勿論、神心凪が白木薫に告白を失敗したのは、片手では足りないぐらいだ。

白木薫は神心凪に、一ミリたりとも人としての興味も魅力も感じていない。ただただ、面白い生き物という感覚だと、スーチーは捉えていた。

告白された彼女の表情を例えるならば、孔雀の求愛ダンスを見たホモサピエンスだ。意味は理解しているが…どうやっても応える事が出来ない。そんな顔をしていた。

寝ぐせのついた髪に、ヨレヨレのシャツ。デザイン性の無い眼鏡に、整えない眉…。そして尊敬できない仕事ぶりに、つまらない会話。そもそも二人は、そんなに仲良くない…だ。どこに勝算があるものか!

幾度となく繰り返される告白…の失敗…。

どんなに戻そうと、彼にはその経験が身に付かない。常に原点に戻るのだ。

スーチーはそんな無謀な挑戦をほのぼのと見守れる程我慢強くない。

だから、彼女は凪に悪夢を見せ、告白の意欲を削ぎ、平穏無事に暮らす未来を選択させていた。

「やり直して、経験が積めればねぇ」

スーチーは、そう言いながら早朝のシーンを大まかに見直す。

マウスに触れている凪を見つけたが、静止画では心理状態がわからない。

「もう一度やって確かめてみようか…」

スーチーは、とりあえず凪の行動を解析する事にした。


見知らぬアドレスからファイルが送られてきていた。

もちろんすぐに削除…したはずだったのだが、何故かファイルがダウンロードされていく!

「貴方にとって、一番実力が生かさる職場へのご案内」

その文面を見て、思わずメールを開いてしまう。

興味があり過ぎて意識しすぎると、罠とわかっていてもその行動を取る。人間とは、何とも不自由に出来ているものだ。

どうして良いか分からず、モニターにしがみつく。

「止まれ!止まれ!止まれ!」


スーチーは呼吸が出来ない程に横隔膜が痙攣し、大口を開けたまま呼吸も忘れて笑い転げる。

ここがカプセルの中でなければ、身もだえして壁に頭を強打していたかもしれない。

「はいはい、言い訳が変わる程度には開きたいわけね」

顎が外れる程に笑ったスーチーは、頬をさすりながら再び静止画に指を載せる。

「駄目だわコイツ。自分の意志で行動してる。今の仕事が嫌なのね。そりゃあ単純作業だもの…自業自得だけどね」

そう呟き、分岐点を探る。

「自己顕示欲を満たすような事象か、それどころでは無い状況か…あるかなぁ」

この場合、自己顕示欲が著しく下がったのは間違いないと言える。

自分の実力など無い事は、本人が一番痛感しているからだ。

うっかりミスの連続や、指示された内容が理解出来ない事など、この状況になるまでの道のりは、ある意味平坦ではなかった。そんな人間が、実力が生かされる職場等と言う言葉に甘さを感じる訳が無い。おそらくは現実逃避だろう。

「貴方はそのままで大丈夫…白木薫が言えば一番楽なのだけれども…」

しかし、分岐点にはそんな状況が存在しない。

この、未来が揺らぐ場合はシュレーディンガー方式が採用されている。

すなわち、全てのパターンがある程度並んでいるのだ。

そこを、スーチーは分岐点と呼んでいる。

彼女に出来る事は、中央値が低い所への移行しか選択肢が無い。したがって、ある日突然凪が長者番付に載る事もなく、ヒーロー級の活躍をすることも無い。

それが演算の世界であり、そして凪の住む世界だ。

「それどころでは無い事象を創り出す…会社が突然燃えるとか、誰かが心臓麻痺になるとか…」

パターンをいくつか考えたのだが、中々いい案が思い浮かばない。

この短時間では不可能なのか…。

スーチーは一旦ヘッドギアを外し、両目を閉じる。

大学で学んだ歴史が脳裏に敷き詰められていく。

どの事象も原点は至って単純。

彼の見た物、感じた事、聞いた言葉…。

「言葉か…」

スーチーは記憶の隅にある老人を思い出した。

「えっ…でも、そこしかないかも…」


いつの間にか電車で寝落ちしていたみたいだ。

目覚めたのは降りる駅の手前。

電車あるあるだな……。

目の前の老紳士が呟く。

「今日で出勤収めだな…人生で最後の…この仕事に意味はあったのだろうか…」

見慣れた看板を見つけ、つり革に捕まり立ち上がる。不自然に開くドア。そこへ乗客は吸い込まれる様に近づいて行く。

凪もその渦に巻かれ、ホームの人混みに消えて行った。


スーチーは強くパッドを叩く!

「ここだ!凪は、そもそも仕事に対して価値など感じる事は無かったはず。むしろ、仕事は軽いほど良いって口癖だもの。そういう性格なのもわかってる。しかし、あの老人の一言で仕事の価値を考えてしまったんだわ。この仕事は幾らになるの?終わりはあるの?積み重ねはあるの?そこに至るまでのキーとして、『意味はあったのだろうか』これよこれ」

スーチーは、老紳士の言葉を文字に表し指で押さえる。

「そして、もう一つが『出勤収め』だわ。自分の人生でも、死を意識してから始まるって聞く。それは、ゴールを意識して仕事を進めるのに近いのかな…。凪は感じたんだ。自分の仕事の熟練度や、彼自身の社会への貢献度。そして、必ず訪れる人生の終着駅。しかし…凪には無かった…元より…なかった…のよね…」

そこまで呟くと、スーチーは目を細めた。

彼女が凪を追いかけ始めたのは、神心凪二十歳の誕生日。

ただの偶然だった。

一人、居酒屋に向かう三年前の凪。

普段ならば、もう少し何かありそうな人を選んで観察するのだが、入口で中を覗き込む凪の姿がマッチ売りの少女に見えたのだ。



2017年12月14日 神心凪


「いらっしゃいませ…お兄さん、おひとりなら席空いてるよ…」

帰る客が開けたドアの前に居た凪は、板前風の男性店員に声をかけられた。最初こそ威勢よく挨拶した店員だったが、その容姿が二十を超えているのかどうかあやふやになり、声を潜める。

「はいっ」

緊張した面持ちで赤い暖簾をくぐると、店内は外から見るよりもごった返しており、何処が空いているのか分からずその場に立ち尽くす。

「身分証明書みたいなのあります?」

見かねた茜色の作務衣を着た女性ホールスタッフが、緑色の前掛けで手を拭きながら凪の元に寄ってきた。

「これで…」

急ぎ、財布からドラッグストアの会員カードを取り出し渡す。

「他の…ありませんか?」

上目遣いだが、絶対怪しんでいる。失敗した…。

「すいませんでした」

その目線から逃げ出す様に店を後にしようと、返されたカードを急いで財布に押し込もうとする。しかし、どうやっても入らず、数枚抜いてみようと今度は引っ張り出してみる。

限界まで詰め込まれていたカード類は摩擦力により全て同時に引き抜かれ、その場にばら撒いてしまった。

「ふぅ…」

ホールスタッフは、溜息をつきながらしゃがみ込み、凪のカードを一緒に拾い集める。

その中の一枚を拾い上げ、声を上げた。

「あれ、今日が二十の誕生日じゃないですか」

それは免許書だった。

一応、母親に取るように勧められ免許書はあるものの、取得後から一度も運転する事は無かったので取った事実さえ覚えていなかったのだ。

免許書を凪の顔の前に差し出し、ホールスタッフが笑顔で、

「いらっしゃいませ」

と挨拶した。

「ありがとうございます」

そう言って凪も頭を下げ、残りのカードも貰いそのまま財布に押し込んだ。

二十歳の誕生日に、誰にも祝福されず一人で居酒屋。

普通ならば気分が落ちる所なのだが、元々友人に祝って貰った経験が無い事もあり、凪はそれ程気にならない。

それよりも、居酒屋と言う場所に入れたことの方が嬉しいのだ。

大学時代は、ほんの数か月しかなく、そもそも誘ってくれる友人を見つける事すらできなかった。

今回、初めて入った居酒屋は、店内が明るく座敷やテーブル席が多数あるお店だった。

案内されたカウンター席は、濃い色をした木目が見えるテーブル。いかにも居酒屋という雰囲気に凪の期待は一気に膨らんだ。

凪が席に座ると、ホールスタッフは、

「お誕生日の人はサービスでドリンクが一杯無料です」

そう言いながらドリンクメニューを差し出してきた。

メニューを広げてみるが、そこにある名前はどれも聞いた事はある程度でどんな味かわからない。少々その飲み物に興味があったのだが、言ってみたい台詞が凪にはあったのだ。

「と…とりあえず、生で」

この瞬間、ようやく自分が二十歳になれたことを実感することが出来た。

「はいっかしこまりました」

そのまま去ろうとするホールスタッフに凪が不安そうに、

「あの、料理は…」

「居酒屋では、お酒を頼んでいただいて、それが届いたタイミングでお料理を注文するんですよ。そして、お酒を飲みながらお料理を待つんです」

凪の事を疑った手前なのか、優しく丁寧に説明しながら、料理の載ったメニュー表を手渡し小走りでカウンターの奥へと入って行った。

元気に走り去るホールスタッフを見届けると、凪は店内を見渡す。

まず、目に行くのがカウンター越しに見える慌ただしく調理するスタッフだった。凪にとって、目の前で調理する所を見るのは新鮮そのものだった。

かつてテレビで見たのと同じように焼き鳥が焼かれており、それが現実だとこの日初めて知った。今の今まで、焼き鳥は機械の様なもので自動調理しているとばかり思っていたからだ。

その他にも、鉄鍋で焼きそばを焼いていたり、刺身を切っていたり、本当に多種多様な調理方法が目の前で繰り広げられている。

次にカウンターから視線を外し、店内を観察すると、見慣れない料理が他のテーブルにいくつもある。いつの間にか凪は、手元にあるメニューとそれらを見比べていた。

「なるほど、餅チーズ焼きって言うんだ。あれは、明太じゃがバター、ホッケ?こんな大きな魚の干物があるんだ!」

食欲がピークになった時、ホールスタッフがビールを運んでくる。

「どうなさいますか?」

ホールスタッフは、前掛けに差し込まれた端末を取り出しながら注文を聞いてきた。

「餅チーズ焼きに、明太じゃがバターに、焼き鳥と刺身の盛り合わせ…あっこの釜めし…」

「そちら注文してから1時間ほどかかりますがよろしいですか?」

一瞬躊躇したが、そこまで拘りの無い凪はすぐにメニューを変えた。

「そんなにかかるのなら…焼きおにぎりで」

「はいっかしこまり。ご注文繰り返します…」

繰り返される注文が間違えていたとして、皆わかるのだろうか…。

凪は自分の頼んだ物がなんなのか全く覚えていなかった。

ホールスタッフがメニューを復唱し終えた瞬間を待って、

「あっお冷…二つ貰えますか?」

恐る恐る声をかけると、笑顔で返事を返し、数秒後に何の疑いもなく凪の目の前に二つのグラスを置いた。

凪は店員が立ち去るのを確認し、小声でグラスに語り掛ける。

「父さん、母さん…二十歳になりました」

カウンターの奥に置かれたグラスに、ジョッキを軽く合わせ目に涙を浮かべた。

初めて飲んだビールの苦さに驚きつつも、そのまま半分ぐらい飲み干す。

「大学ダメになってごめん…けどね…」

学費の払い込みがわからず、除籍になった件や、どうにか就職出来た話。

はじめてのビールの味や、くだらない漫画の話。

会話をしているのはお冷なのだが、お酒の効果もあるのか今までで一番幸せに感じた。

久しぶりの温かいご飯。

上機嫌になった凪は、小さな幸せを感じながら岐路に着く。

冬空の下、吹き付ける風が心地いい。

「また、居酒屋行きたいな…」

不意に言葉が零れる。

凪は街灯が少ない路地に入ると、後方からヘッドライトで照らされたので歩きながら壁際である右側に寄っていく。

後方の車は凪に気が付くと慌てたのか左側の電柱に車をぶつけ、焦りからか今度はこちらへ向かってきた。

走り出そうとした瞬間、目の前に白い猫が丸まっているのを見つける。

咄嗟の判断だった。

凪は猫を抱えようとしゃがみ込む。

そして走り出そうとした瞬間、今までで感じた事の無い衝撃に襲われた。

轟音と共に壁は半壊し、体の位置がどうなっているのか、足は付いているのかどうかも分からない。

挟まれた瞬間、凪の手には潰れた白いビニール袋が握られており、

「猫…じゃなかったのか…良かった」

そう呟き、意識を失った。

運転者はそのまま走り去り、凪は挟まれたままの状態で体温は急激に低下していく。



1年前 サリル・スーチー


スーチーは思わずヘッドギアを投げ捨て、両手で顔を覆う。

脳が理解を拒否している。

言葉も無く…浅い呼吸を繰り返していた。

頭の靄がゆっくりと心の奥底に落ちていく。

スーチーは震える手で凪に関する過去のデータを選び、一つの画像を選んだ。

そこから流れる映像は、世間を知らないただの学生が、保険や貯金の扱いを知らずに焦る姿であり、突然の不幸があったとはいえ見ていられるものではなかった。

振り込みについての知識が無いのは分かる。しかし、単純に考えれば周りに一言相談すれば良かったと、スーチーには思えたのだ。そこを更に細かく確認する為に、凪の過去を深堀していく。

結論としては単純で、相談すべき大人が周りにはいなかったのだ。幼少期まで遡ってみても、友人と呼べる者は一人も居らず常に孤独。両親の親戚付き合いもなく、ただひっそりと生きてきた。そこには理由があったのかもしれないのだが、凪にしてみれば自分の世界の基準である家庭が、常に社会と隔絶した状況。そのような中で、人とのつながりの大切さを学ぶ術は無かったと言える。

この状況で、誰に相談できるだろうか…。

天を仰ぐと同時に、彼の生き方についても調べる。

異性に対して積極的に行動する訳でもなく、友人とは浅いつながりの中を歩んできた。

心を揺さぶられる事も無く、波風の立たない隅の方へ身を寄せ、自身の願望すらない無害な青年は、たった一人、冷たい真冬の道路で静かに息を引き取る。

スーチーの目は瞬きすら忘れ、脳内は激しく思考が飛び交う。

「大丈夫、なんとかしてみせる」

目の前には彼の人生を数十センチの幅に圧縮した画像が並ぶ。

端から観察してみると、妙な膨らみが数か所確認できる。

膨らみは、無数にある同時刻の未来。その分岐点を表しているのだ。

「分岐点が多いとはどういう事なの?」

スーチーは分岐が多くある、居酒屋で注文する場面を数回再生してみる。

その結果は、自身の思考実験とは違い違和感のあるものだった。

最初の選択は、

餅チーズ焼き、明太じゃがバター、焼き鳥、刺身の盛り合わせ、釜めし。

二回目は、

餅チーズ焼き、から揚げ、焼き鳥、刺身の盛り合わせ、釜めし。

三回目は、

焼き鳥盛り合わせ、ホッケ、枝豆、刺身の盛り合わせ、釜めし。

リスタートする度に、注文内容が若干異なるのだ。

「ホッケやから揚げは無意識の中から選んでいるからランダムになり、その他は記憶から引っ張り出しているから毎回注文するのかも?」

スーチーはメニュー読み上げ、音声メモを取り始める。

そして、それを画面上に映し出し解析し始めた。

「餅チーズ、明太じゃがバター、焼き鳥に関しては、入店後に見た料理ね。視覚的要素や、途中で興味が湧いたもの。刺身の盛り合わせと毎回頼むけれど、常に変更している釜めしは…好きな物なのかしら…そもそも、オーダーする順番…食べたいと思った順番?それとも新しい記憶の順番?いや、メニューの並びかも?」

次は、注文内容によって未来はどの様に変わるかを検証する。

しかし、どの選択肢も事故に巻き込まれる未来へ収束された。

なにを頼もうが、どんな会話を店員としようが、帰る時間や帰る道中はほぼ同じなのだ。

「家までの道のりは一定だとして、帰る時間には、これぐらいで帰ろうといった思考が働いている?だから、釜めしを変えているんだ!おおよその帰宅時間を考えて」

それなら理解できる。幾度とやり直しを行ったとしても同じ未来を歩むはずだ。

『20時15分』その前後1分以内に凪は店を出る。

普段のスーチーならば自分に関係しない世界の事などどうでも良くなり、そこで諦める側の人間なのだが、どうしても揺らいでいる状況が気にかかった。

繰り返し同じ時間を再生するにつれ、凪が亡くなる辛さは薄れ、その挙動や時間経過等の計測結果としてスーチーは捉えるようになり、心の柔らかな部分は本人が気づかない程度ではあるがゆっくりと削れていく。

ただ、そこまでしていても一向に改善しない。いや、希望すら見えなかった。

スーチーは闇雲に繰り返すのを止め、頭の中で思考実験を行う。

事故が起こる時間や、ビニール袋を見つけるのは追突者や凪の認識下であり、そこでのやり直しは本当の奇跡が必須になる。これは学習した事であり、時間の無駄だ。

「揺らぎの原因は何なのか」

再び音声メモを取る。

メニューの中で何を注文するのか。一見、自分の好きな物だけを頼んでいそうだが、メニューが多い場合、記憶の片隅にある食べ物や会話に出てきた物をオーダーする。

それは思いつきと言われるもので、移ろい易く御し難い。

しかし、帰る時間と通る道は一定。つまり脳内に刻まれた規則に則って行動しているように見える。

ここを踏まえ、このシステムについて思い出してみた。

確か…電子などの小さなものは位置を確定できない…確率の位置にある…それはシステムの限界と聞いている。スーチーの世界においても、未だに電子の動きを確定する事が出来ていない。

すなわち凪の世界においては、微細な物は確率で作動せざるを得ない。すなわち、ミクロの世界にはラプラスの悪魔は存在しえないといえる。完璧な計算をしても、確実に未来を見通す事は不可能なのだ。

この、微細な電子の動きと凪の行動に対する関連性を考えると、一つの仮説が浮かぶ。

「人の行動は脳内のニューロンによって決定している。そして、脳内のニューロンは微細な電気信号で動いている。もう一つ、電気の流れは電子の挙動に等しいと仮定し、その電子の挙動は確率で動きを決めているとなれば、人の行動は基本的に確率で行われていると言えるはずだ。しかし、必ず確率で動くわけではない。それが、揺らぐメニューとそうでないメニューあるように。強い記憶や拘りがあれば、揺らがず必ず一定の行動を取り続ける」

ようやく一つの疑問が明確になってきた。

「凪の選択肢が、ミクロな電子の流れに左右される場合と、そうでない場合が存在する切り分けは何処にあるのか…」

スーチーは更に思考実験を繰り返す。

店を出る時間は、翌日の会社を考えての行動。ビールを頼むのは、憧れによる決定。両親のお冷を用意するのは、報告したいと言う衝動。刺身の盛り合わせを頼むのは、自身の嗜好による選択。

決定された行動原理は、そもそも居酒屋に来た理由の一部である。変数を持ち込めるのは無意識の行動。それは電子の確率により引き起こされているはず。

ただ、それを選択するとしても強弱があり、全てのパターンで釜めしはキャンセルされた。

すなわち、翌日の会社よりも釜めしの方が価値は低いのだ。

流れやすくなった脳内の回路にも、優先順位があるのだろう。

この状況に至っては、凪が居酒屋を出る時間『20時15分』が優先されている。

その帰宅時間が遅くなれば、事故に合わなくなるのでは…。

スーチーはこの状態をひっくり返すような選択肢を想像してみると、一つのキャンセルされ続けた料理が思い浮かぶ。

「そう、釜めしだ」

思わず声が漏れる。

釜めしは時間がかかり、居酒屋を出るのが遅れる筈だ。

すると事故を起こす車は自損事故で収まり、凪は無事に家路につけるはず。

ただし、現状では翌日の仕事が気になり注文を止めてしまうのは明らかだ。

「記憶に強く残る事柄があれば…いや、そもそもそれほど記憶に残らなくても良いかも…」

スーチーは記憶を手繰り寄せる。

焼き鳥はそもそも脳内には無く、視覚にてオーダーしたメニューだとすると、再三注文をしている釜めしは、あと一息なのかもしれない。

揺らいでいるのは、凪の中で他の料理はさして重要ではからではないからでは?

そこまで仮定し終えると、スーチーは早速やり直しを試みる。が、一瞬違和感を持つ。

「やり直した場合、同じ場所に戻るのはどうして?」

スーチーは爪を軽く頭皮に当てながら髪をかき上げる。

戻る場合は一定なのに対して進む場合は常に同じ物にはならない。そこには微細な確率が関係しているのだが、戻る場合も同じように確立に支配されないのはどうしてなのか。

スーチーは再び思考実験を行う。

コーヒーに一滴のミルクを加えた場合、放射状に広がる模様が分子のブラウン運動によるもので、凪の世界では電子の動きに引っ張られているとする。すなわち確率に支配されているとする。しかし元に戻せば必ず同じミルクの器に戻るということでは。

「だったら安心なんだけども…後は居酒屋で分岐する下準備が必要ね」

一旦自分なりの考えを纏め、次の攻略ポイントを考え始めた。

「凪が釜めしをどの程度欲しているかよね…」

スーチーはメモした。

勿論、状態を居酒屋での注文時に合わせ、凪の心理解析を行う。彼の内面をAI解析にかけてみるという事だ。

スーチーの世界では、他人との人間関係を構築する際に行う人が多く、誰と付き合うにも解析を行うのが常識だった。

凪の世界にある、心理分析やパターン解析などと似ている。

大きく違うのは、本人が質問に答えるのでは無く、AIが数多の行動学や心理学的視点から蓄積されたデータベースを元に、判定する仕組みなのだ。

それは、自身の直感を超えて心の声が読み取れる便利な仕組みと言える。

出会って間もない凪の心がなんとなくわかるのも、このシステムから出力したガイドラインが表示されているからであり、スーチーは特にこの仕組みに依存している。だからこそ、スーチー自身、それが真の正解かどうかは分からないのだが…。

解析結果として、彼が釜めしを変更する心理は、調理にかかる時間よりも、お米に対する興味が薄い。そう結果として出た。

スーチーは一瞬、そんな事はわかっていると思いながらも、詳細を表示する。

そこで、AIは凪の視線がどの様に動いたかを表示した。ついで、メニュー表のどこに一番視線を向けていたか。

「確かに…釜めし以外のご飯系メニューは見ていない…視線もお肉ばかりね…」

半信半疑だったが、スーチーは彼の行動を洗い直す事にしてみる。

そこにヒントは無いかもしれないし、全くの無駄かもしれない。

でも、それでもよかった。

心の整理をつけるには時間が足りなかったからだ。

凪が朝起きてからの行動を追って行く。

満員電車では人の波に流され、会社では叱責され、同性の同僚からは低く見られ、息の詰まる日常が重くのしかかってくる。

スーチーは友人などの救いの手は端から期待していなかったものの、運命を変えれそうな要素は一つも見当たらない。

ふとした会話も、何気ない雑談も無かった。

この状況でご飯に対する興味を持たせるなど不可能に思えたその時、唯一見えた希望。

「電車…の広告。炊飯器じゃない」

スーチーは思わず手を叩いて喜ぶ。

急いで凪の視線に合わすが、どうにも見える状態ではなかった。

人が多すぎるのだ。

しかも、凪は座っているので角度が悪い。

二回目、三回目と繰り返すも、座席に座ってしまう彼の行動は変えられない。

座りたいという意識的行動だったのだ。

「無意識…無意識…無意識…」

スーチーは気が付いたら呟いていた。それに合わせ、指先も小刻みにリズムを取っている。

その指の動きは操作とみなされ、電車の乗客の思考が次々と映し出されていく。

「もうっ」

散らばった画像を一斉に削除しようとした時、ふと乗客の位置に違和感を覚えた。

「このギター担いでいる男性、隣の車両じゃなかった?」

スーチーは急いで前回の記録画像と重ね合わせる。

すると、この男性だけではない。

鞄を抱えている女性も、杖を付いている老人も、サイズがバグっているほどダブついた服を着ている青年も、微妙に違う。

凪と乗り合わせた多くの乗客は、この後の事しか考えて無く視界すら曖昧で、ほとんど無意識に動いていたのだ。そう、小さな揺らぎだが無数に存在している。

「あっ凪じゃなくてもいいのか!」

数分前に時間を動かし、再度車内の配置を見てみる。

隣にギターを担いだ男性が乗り込むと、鞄を抱えた女性はその男性につられ隣の車両へ乗り込む。その空いたスペースに、スマホを眺めているサラリーマン風の男が入ってくる。

まるでパズルの様だった。

ただ一つ法則があるとすれば、列の幅は平準化されると言う事だ。

一部の列だけが少数になる事は無い。

それは、早く乗車したいという思考の人間が一定以上、列の埋まり方からしておそらく半数以上いる事を示す。

ただ、それは重要ではない。凪の車両の乗客が少ない状況は数分でいいのだ。その状況を創り出す為に乗客を選別する。

そう、降りる駅が近い者を集めれば良いだけだ。

そうすればドア付近に人は偏り、広告が目に入るかもしれない。

「何処から手を付けようか?…って、まどろっこしい。片っ端いくよ」

電車のドアが開く度に録画し、乗客がどの車両に乗るか行動パターンを収集する。

すると、埋もれていた個性が少しずつ見えてきた。

他の乗客について行くものや、人混みを嫌う者。多くの人間は無意識の中で多くの選択を行っているのだ。

一定の駅で降りる顔ぶれを保存し、最大数になるまでひたすら乗車状況を繰り返す。

そして、ようやく揃えたメンバー。凪の降りる駅までに下車する人間を粘り強く待って集めただけの特大の連鎖。

一駅、また一駅と駅を過ぎる度に降りていく乗客。

車内にはもう立っている人はほとんどいない。

そして数駅後には、凪の座る座席周辺は奇妙な程に人が居なくなり、その奇妙さから人が更に寄り付かなくなった。

後は、広告にある『炊き立てごはん』その文字を読むかどうかだったが、そこは極めて簡単だった。無意識の中にある癖と呼ばれる強い行動があるのだ。

凪の、電車の中で辺りを見回す癖。

辺りから人影がまばらになった車両の中を眺める彼は、広告にある『炊き立てごはん』の文字を見つける。そして、小さくうなずいた。

「炊き立てごはん、食べたくなったでしょ?」

満足そうにスーチーは微笑む。その顔に、もう悲壮感は無い。

凪は居酒屋に行く前に食べたいものを考えていたのだ。幸せな未来を想像しながら生きている彼を見て、スーチーは少し心が軽くなった。

残るは凪が釜めしを注文し、帰宅が遅くなるかどうか…だ。


食欲がピークになった時、ホールスタッフがビールを運んでくる。

「どうなさいますか?」

前掛けに差し込まれた端末で注文を聞いてきた。

「餅チーズ焼きに、明太じゃがバターに、枝豆と刺身の盛り合わせ…あっこの釜めし…」

「そちら注文してから1時間ほどかかりますがよろしいですか?」

「それって、炊き立てごはんって事ですよね?」

ホールスタッフは少し苦笑して答えた。

「そりゃあもう、目の前で焚き上げますからね」

「じゃあそれ!釜めしお願いします」

「はいっかしこまり。ご注文繰り返します…」

繰り返される注文が間違えていたとして、皆わかるのだろうか…。

凪は自分の頼んだ物で、釜めし以外覚えていなかった。翌日の出社を控えていたのだが、この誘惑には勝てなかったのだ。

ビールを飲み、餅やジャガイモを食べた後にようやく炊き上がった釜めしは、多少無用な長物感があった。これを本当に自分は食べきれるのか…。

不安交じりのまま、釜での炊き立てごはんを久しぶりに体験すべく小さな窯の分厚い木蓋を持ち上げる。

蓋と米の間に閉じ込められた蒸気は、穀物特有の甘さと根菜や椎茸の分厚い香りを載せて凪の鼻腔へ押し寄せてきた。その後に来た、醤油のつんとした匂いが、凪の食欲を直接刺激する。

表面こそ具材に覆われ、見ようによっては出汁の少ない煮物に見えたのだが、備え付けられていた小さな杓子で天地を返すと、艶やかに光る米粒が細やかに現れる。

その折り重なった香りで、満腹感は彼方へと消え去り、食欲が息を吹き返す。

付いてきた小さな杓文字でご飯をすくう。

少量の粘り気と、艶やかな米粒がほどけゆっくりと崩れ落ちる。

「これだ」

心の声は自然と外へと解き放たれた。

軽く切るようにかき交ぜたが、具材は上手く混ざらない。だが、ほどける様に崩れる米粒に期待は自然と高まる。

最初は少量だけ茶碗によそう。

湯気が立つ米を箸で形を整える。かろうじて一口くらいのご飯が乗った。

一粒たりと零れないように慎重に口に運ぶ。

「うまい」

凪はそれ以外の言葉が続かなかった。

米粒をかみ砕いていくが、芯は無く餅のように弾力だけが残っている。

「最高…」

心の底から欲するものを口にした時、語彙は何の意味をも持たなくなるのだ。

茶碗に盛り付けた釜めしを貪るようにかき込むと、よそうのが面倒になり今度は釜から直接口に運ぶ。

杓文字は大きく、よそった米の量は口に入りきらなかったのだが、それでも無理やり詰め込む。

正に至極のひと時だった。

久しぶりの温かいご飯。

両親への報告。

少しばかり肩の荷が下りた様に感じた凪は、小さな幸せを感じながら岐路に着く。

20時45分

入口を空けた時に吹きつけてくるからっ風は心地よく、寒気への嫌悪感は消え失せていた。

「また、居酒屋行きたいな」

凪は不意に言葉が零れる。帰り道がこんなにも充実しているのはいつぶりだろうか。

「次はカクテルも頼んでみようか」

幸せなひと時の想像は尽きなかった。

自宅に向かう路地に入ると、黄色い光が規則的に点灯していた。その光を目で追うと、壁に半分ほど塀にめり込んだ車が見える。

一瞬、自身の両親が遭った事故を想像し、焦りながら運転席を覗き込む。

エアバッグでほとんど覆われた座席に人影はなく、血痕も無い事から凪は胸を撫でおろす。

立ち去ろうとした瞬間、ひび割れたフロントガラスに引っかかった白いビニール袋が激しく音を立てながら揺れた。


スーチーが1年前に試みた、執念のやり直しの成果だ。

凪の世界では3年が過ぎていた。それは彼の生活の中にある睡眠時間を削るだけで3分の1は無くなり、何もしない一日などは割と倍速で時間を進めていたので、ある意味妥当と言える。いや、どちらかと言えば何の盛り上がりの無い人生を観察するにあたり、この時差は特殊だ。特殊を超えて、狂人の域に等しい。

しかし、目が離せなくなるのもわかる。

何故なら、運命は微細なズレの複合で大きく変わるからだ。

小さな奇跡を集め積み重ねていく作業。

それが希望なのだ。

他にも止められない理由がある。

電子が流れやすい脳内回路が存在する事は確かで、それが人の行動の中央値を高めている。そして、観測を行わない場合は、例に漏れず中央値を取ってこの世界の運命は進んで行くのだ。

演算機が創り出す疑似確率が統べる世界と言っていい。

しかし、スーチーが観測を行う事で、決められた運命はただの確率の値としてしか存在しなくなる。

常に何が起こるか分からない世界へと変わるのだ。

ただ、確率だからと言って何が起きるか分からない事ではない。

彼女が拘り、彼の身に起こった事は、確率として確実に存在していた。したがって、凪の身の回りで起こった事象は、常に自明の理だったものがと言える。

スーチーが起こした、時間的に遠く離れた広告は思いもよらない効果をあげ、凪の運命を選び直した時、彼女自身に巡る血管全てに微弱電流が流れるような感覚を得た。

その快感は未だ忘れない。

今回のポイントは、事象の起こりが呟いた老紳士側にあるのか、それを聞いた凪の心情にあるのか…だ。

この場合、経験則で言えば、老紳士にフォーカスするのが正しい。彼があの発言をしなくなる。もしくは、電車にさえ乗らなければ良いのだ。…そうすれば、凪がその言葉に引っ張られずに済む。逆に、凪をどうにかしようとすると、感情の変化や、心の持ちようなど、ありとあらゆる角度からのアプローチが必要になる。言わば、守るより攻めろだ。

スーチーは、老紳士の情報を画面に表示させた。

伊落晴彦。

65歳

株式会社SGH取締役部長

社内での営業成績はトップクラスで、過去何度も表彰されていた。

ただ、家庭を顧みない性格だったのか、二度の離婚歴を持ち、現在独身。

「ふぅ~ん、典型的な囚われた人ね」

伊落が役職の魅力に囚われ、その維持に固執し、全てを捨てたとスーチーは経歴でそう判断した。

スーチーは役職者としてあるべき姿が、人として正しいとは思った事が無い。

役職は常に役割であり、下層ほど自身の思想をそのまま表現する自由が許されており、上層に行けば行くほど下層の人間に対して先導者としての役割が色濃くなる。そして、いつしか信念すらも会社を語る道具と化す。

その場所に立つ為だけに切り捨てた事や、捻じ曲げてきた信念。その原動力は、まぎれもなく目指すべきポジションに囚われ、迷いなく歩んできた筈だ。この虚構の世界において、そのステージにそこまでの価値があったのだろうか。

いや、現実世界も虚構の世界も価値の差はなどなく。そして等しく無意味だ。

それがスーチーの持論だった。

この虚構の世界は、有名な科学者が意識とは何か、宇宙とは何か、世界とは何か。その全てを演算で解析できないかと試みたのが始まりだったと記憶している。

ベースは気象予報ソフトで、精巧に作成されたそれは地球と砂粒ひとつとって同じだった。

正に悪魔の所業とされた世界は、この科学者によって地層や歴史的建物も、星の位置も、その全てをスーチーの世界から型を取り、焼き直された物である。

ただ一つ違うのは、始めた瞬間から世界の記憶、生物の歴史、人間の哲学が突如現れたのだ。

全ての事実が揃った世界。

その世界に住む彼らに解るはずもない。

スーチーの世界でもそれは同じだ。

全てが5分前に現れたとして、記憶や歴史を含む世界の全てが人類の想像よりも精巧に作成されていれば、それを理論的に証明できる人間などいない。

そう、精巧に造られた虚構と、人が感覚的に捉える現実は同じだ。

「そんな物の為に、彼は何を犠牲にしたの?」

スーチーは、伊落が家庭だけを犠牲にしていたと考えていたが、どうもそれだけでは無いような映像を見つけた。

伊落の一年ほど前。彼には後を託そうと考えている№2の部下が居た様だった。

現在、彼の部署にその部下は居ない。

「何があったの…」

おおよそのあたりを付け、その時間軸を再生する。

その部下の強みは、自他共に認める製品知識であった。

自社ブランドに飽き足らず、競合の強みや弱点。ひいては自社が選ばれない理由まで熟知している。

無論、社内では次期伊落と吹聴され、それを目立って肯定こそしないが、否定する姿も一切見られない。むしろ、その噂がさも真実であるかのように囁かれる事に酔いしれていた。

伊落自身、彼のおかげで落とせた案件は数知れないのだが、それ故の欠点が時限爆弾の様に膨らんでいくのが視覚でも感じていた…ように見える。

「最後まで執着したのね」

伊落が部長としてだけではなく、常にトップであることへの執着だ。例え噂であっても受け入れ難い事だった。

№2の部下に引き継ぐ顧客は、徹底的に情緒型。

扱いは難しいが、懐に入れば割と扱いやすいタイプ。

ただ、理論派には厳しい。

今までの経験も、技術も、全て無駄になるのだ。

「相性が悪い太客ばかり担当させ、社長への報告会では、得意分野などと甘い事を言わさずにあえて苦境を乗り切らせる。その先に更なる成長を期待している…とか…ほんっと悪趣味」

彼の欠点を巧みに利用し、最も自分の力を誇示する事を引継ぎよりも優先したのだ。

伊落の思惑をいち早く入手した部下は、神速で移動願を出し彼との真っ向勝負を避けた。

「そりゃそうよね。来年辞める上司とやりやって得る物は無いもの。それにしても、そこで部下が育たなかった反省として、ハイヤー出勤を止め、引退セレモニーを辞退…こわ…」

最後まで並び称される者には容赦しない態度は徹底している…スーチーにはそう見えた。

電車出勤での噂の広がりは、枯れ木に火を灯す程に早く広がる。引退セレモニーのキャンセルは、想像以上に社員に動揺を与えた。

全ては他の部下への心象操作の為に。

「これで人生の意味ですって?本気で言ってるの?」

例え架空の世界であれ、伊落の言動と心理は遥か彼方へと乖離していた。

彼女は、伊落の人生に一切共感する事が出来ず、出来るだけポイントを絞る事に時間を費やす。出来るだけ感情を押し殺して。

「分岐すら現れないのは何故?」

スーチーの指先で捲られる彼の人生は、不快なニュースが犇めく情報サイトとそれほど変わりは無かった。見出しだけで判断し、次へと進む。それを繰り返した結果、退社日の前日まで来ても未だ糸口はつかめない。

「とりあえず、一度状況を確認してみようか…」

半信半疑ながらも、観測しに世界へ入っていく。


「おはよう」

「おはようございます」

全員が立ち上がり挨拶する。

伊落からすればそれは至極当然だった。格が違う。

「おい、案件どうなった?」

それはただの一言ではない。案件の進捗報告が無いという意味と、自分をないがしろにしたという事実に対する叱責だ。

「佐藤商事の件は…」

青年が伊落のデスクまで駆け寄る。

「報告は俺が聞くまでしないと言う事になっていたのか…ん?」

伊落は目の前の青年の会話を制した。

青年は一瞬怯んだが、今まで聞いていた彼の噂を思い返していた。

背中を見せると頸動脈を切り裂かれるが、正面を向いていると傷つくのは両腕だけだ。結局傷が付くのに変わりが無いのだが、自分が把握できている部分なので対処のしようがある。

伊落の直轄地である営業1課は外れクジと言われていた。成績は信じられないほど上がるが、心を正しく維持するのが極めて困難なのだ。

「2000万程の売り上げと…」

搾り上げた言葉は伊落のカウンターが来ることはわかっている。それでも沈黙は悪手だ。

帰り際に嚙み殺される。

「そんな事は分かっとる。稟議書に目を通さないとでも思ってんのか?」

「さすが伊落部長。他の部課長と違って稟議書一つで末端の進捗まで把握するとか、まさしく私の目指すべき人物像です」

そう言いながら、青年は伊落の出方に身構える。

「どの様に案件をもぎ取ったのか、その方針を聞いとるのがわからんのか?」

確か…同行営業での案件だったか。青年は伊落に刺さる賛辞が思いつかなかったが、彼の心情だけは痛いほどわかった。

功績を部下の口から聞きたいのだ。

「そういった方針は…私には…」

伊落は、この理解力が無い青年に信念を伝えた。このような手法を行うのは、部下の為ではない。組織の為だ。

日々の報告の正確性と迅速化。

売り上げの目途と、意識された顧客との距離感。

そして、最も重要なのが上司への畏怖の念だ。

これらを呼吸するのと同じくらいに出来てこそ、本当の意志統一と言える。

伊落が行う一連の演出は、成果への飽くなき渇望を絶やさない為であり、この部の繁栄を誰よりも意識していた。

正に必要悪そのものだ。

「もういい」

そう言い残し、デスクを後にする。


「解らなくもないわね」

スーチーはヘッドギアを外しながら呟く。

彼がお膳立てした案件を貪る事しかできない部下。

「孤立を恐れない物言いは、全てが彼の本意ではないみたいね。彼の目指すべき場所にはそれが必要だった。それにしても不器用ね」

スーチーは、気が付くと凪と同じように伊落の画像に対して話しかけていた。

数字こそが全て。

だからこそ今がある。

圧倒的な実力を周囲に示す。そこに人は集まり、それを更に高める為にもっと大きな権力を集めるのだ。

それはわかるが…。

明後日に必ず訪れる数字が無くなる日…彼は何を思い、どう生きるのだろうか。

目前に迫った状況を知りながら頑なに貫く伊落と言う男。そんな男の行動をどうやって変えればいいのか…。

スーチーは悩みながら時間を少し進めた。


自動販売機で小銭を入れつつラインナップを確認する。

彼からすれば異常な風景だった。

普段ならば、誰かが気づき、コーヒーを持ってくる。そして、無くなれば代わりを聞かれた。

指定した銘柄の豆と、適度な温度。

それと同じものはどれだ?

このラインナップの中では何を選べば正解なのか、彼にとって今まで体験した事の無い難題だった。

「あれ?部長さん?」

不意に声をかけられ、その勢いでボタンを押してしまう。

液体が詰まった缶は重い音を数回響かせながら取り出し口へ現れた。

現れた淡い色の缶は本能的に意図したものと違うと判断し、声の出所に視線を向ける。

「すいません」

その眼を見た掃除婦はすぐに謝った。

普段ならば怒りがこみ上げる所なのだが、不思議と、ただの些細な事としか思えなかった自分に違和感を覚える。

それは、今まで珈琲の一口でさえも、先にある仕事に対する集中力の維持の為であり、自分のパフォーマンスを高める為に必要なものだった。それが今は必要ないのだ。

それを手に取ると、伊落は不意に掃除婦を見た。


「ここよ!揺らぎは」

眠そうな彼女の目はギラギラと輝きを取り戻し、確率のパラメータに目をやる。


「ふざけるな」


「ただじゃ済まさんぞ」


「話しかけるな」


出るわ出るわ罵詈雑言の嵐。

スーチーはこの男を、少しでもかわいそうと思った数分前の自分を殴りたい。本気でそう思った。

おそらく、伊落の承認欲求が噴出したのだろう。

今までも、論理的な思考とは呼べない行動が目立つのは、自身が軽く見られていると心が叫んでいるからであり、生理現象と呼べるものだ。ただ、本心は違う…はず。AIによると…だが。

「もう、気にしてないんじゃなかったの?」

そう思っていたが、甘かった…。

スーチーが諦めかけた頃、一つの画像が目を惹く。


「こんな甘い物は飲めん…代わりに飲んでくれんか?」

伊落は立ち尽くす掃除婦の手に、そっと缶珈琲を握らせた。

それは自分にはない、心の深淵から零れた言葉だ。

「…ありがとうございます…あの、その、明日が最終日ですよね?」

「ああ、そうだが」

この会社の規定では、定年は誕生日前日だ。だから人によって退職日はバラバラだった。

伊落は、この掃除婦も俺の引退を喜んでやがったか。そう思いながらも、心の声が表情に染み渡らないように心を配る。

「良かった…お返しが出来そうです」

「お返し?そんなつもりは…」

40越えたばあさんのお返しとか…気乗りはしないが…。

そう思いつつも、翌日の電車を1本前倒しにしようと心に留めた。

翌朝、伊落はがらんとした車内で電車に揺られながら、いつも危なっかしい若者の顔を思い出す。

「あの若者、今日もちゃんと出勤出来るのだろうか」

数回社内で見かける若者を、少しだけ心配している自身に老いを感じた。

「若者を心配するとは、これではおじいちゃんと変わらんな」

そう呟きながら座席を後にする。

数本後に乗っている凪は、いつも通り電車で寝落ちしていた。いつも目覚めるのは降りる駅のひとつ手前。ただ一つ違うのは、目の前のOL風の女性は、シートに座ったまま深く眠っていた事だった。

「電車あるあるだな……」

そう言いながらも、目覚めた自分に対して少し敬意を寄せた。

目の前の彼女は、おそらくもう少し先の駅なのだろう。

凪は彼女にストーリーを重ね、記憶の隅に追いやる。彼女の背後には見慣れた看板が一瞬流れた。それを見て、ようやくつり革を使って体を引き寄せる。

不自然に開くドア。そこへ乗客は吸い込まれる様に近づいて行く。

凪もその渦に巻かれ、ホームの人混みに消えて行った。

いつもの風景に、いつも通りの作業。

こんな現実、誰が面白いのだろう?

誰とも話さず、飲みにも行かない。トラブルが起きる訳でもなく、何の変化も無く過ぎて行く人生…。

そんな事を考えながら、昨日終わった仕事のメールをチェックする。

あれ?

見知らぬアドレスからファイルが送られてきていた。

もちろんすぐに削除した。

社用のパソコンにウイルスが侵入する状況などあってはならない。

このようなトラブルは辺りに転がっているが、それを平然と回避できるのが社員としての自覚を持った行動。そう、常にモラルを問われるのだ。

凪は自分の行動を少し誇りに思った。ほんの少しながらではあるが、社内の安全を守ったのだ。

ひと仕事を終えた凪の耳元で、最も脳が欲している声が聞こえた。

「ちょっと、神心君来れる?」

白木さんの甘い香りと共に凪の鼓膜を心地よく揺らす囁きは、彼の判断力を消失させ、思考力が戻らないまま彼女の後をついて行く。

その道のりが延々と続けばどれほど良かっただろうか。

凪は気が付くと、トン子と呼ばれる女性社員の席の目の前だった。

「そうだよな、そんな展開とか俺の人生には無いもんな」

唇だけを動かす程度の独り言が漏れる。

それと同時に、自身の浅はかさを恨んだ。

「どう思う?」

真剣な眼差しの白木さんが、トン子のパソコンを覗き込みながら凪に意見を求めた。

白木さんの真剣な横顔は、絵画に刻むべき価値がある。思考の全てをその意見に占拠されていた為に、彼女の声は認識できるものの脳内で日本語としての意味をなさなかった。

そして、視線も白木さんの横顔から外せない。

「ねぇ」

聞こえているかどうかの確認する声に、凪はようやく我に返った。

振り向かれたら危なかったと、安堵に胸を撫でおろす。

トン子の画面は、平静こそ保ってはいるものの、明らかにウイルスが入り込んでいる事がわかる。自分のと同じだ。

ここは汚名返上のチャンスだ。そういや、汚名挽回と、よく間違ったよな…。

そんなどうでも良い事を考えながら、自信ありげに『閉じる』のボタンを押す。

それが地獄へのトリガーだと知らずに。

大抵の場合、閉じれば問題ないのだ。いつもそれで乗り切ってきた。

その考えが甘かったのだ。

瞬く間にパソコンのスクリーン上に開かれるウインドウ。キーは利かなくなり、アラームが鳴る。


「ちょっと、この会社どうなってんの?今日は誰かがウイルスを拾うのが仕事なの?あのポンコツ凪のやっとくだらないイベントから抜け出せると思ったら、今度はトンソクの出番?やってらんないわ!どこかにこの女の死亡フラグ落ちてない?」

パッドを勢い良く叩き、カプセルの内面を蹴り上げた。

「大体、この白木と言うクソどうでもいい女も最初から嫌いだったわ~自分の都合だけで生きてるし、このトンソクって仇名このクソ女が付けたの知ってるんだから。何よ今更、いい女風に見せる為にアンポン凪を利用しやがって!あいつを玩具にしていいのは私だけ!わかる?あー全人類消し去りたい」

悪態をついても心は落ち着かない。何故ならば、中央値が全てを物語っていたのだ。凪が起こした行動で、ウイルスの感染が広まるという事実が現時点では確定しているのだ。

世界の果てともいえる残状況。

「ちょっと待って、このウイルス…凪の所に来ていたメールじゃん!じゃあ、このトンソクも夢見る変人って事?」

ここで一旦一呼吸を入れ、思考を整理する。

彼女にとって、凪の時間以外は苦痛でしかなかった。

スーチーの溜息が零れる。

「彼女の過去を遡る…しかないよね」

諦めた表情でトン子の過去を紐解く。

新卒で入った花沢かすみは家が裕福で、これと言って競争などしたことが無い。

周りに居る友人は「かすみちゃん、かわいいよね」など、心にもない言葉が尽きない環境で育ってきた。他者に口撃を行う者は存在せず、いじめと言う現象は超常現象か一種の都市伝説だと捉えていたのだ。

その未知の世界からの攻撃は、彼女の中ではテレビ画面の向こう側にある戦争か、大海原で出会う鮫や鯱のイメージに等しい。

実在するする凶悪な存在であるとは知ってはいるものの、自分にとってある種かかわりの無い事象だった。

そんな世界で暮らしてきた結果、他人に対して嫌悪感を正しく持つことが出来ない。いや、嫌悪感の扱い方がわからなかったと言える。

スーチーにとって、その思考に至るプロセスが信じれなかった。

「周りに無かったから、そんな事象が存在しないと思うとか…どれだけ視野が狭いの?」

常に戦い続けていたスーチーにとって、彼女の現在に至る道筋自体が苦痛でしかない。

ただ、その様な環境で生きてきたからこそ、給湯室から聞こえた、「花沢さん…確かにトン子ってイメージハマるよね」その陰口に膝から崩れ落ちたのだ。

それが余計にスーチーの心を激しく逆撫でした。

「そりゃまあそうでしょ。太っているし、大体食べ過ぎなのよ。ずっとお菓子食べてんだから…。食欲調整剤とか飲んで無いの?」

彼女の世界では、全ての抑制は薬剤でのコントロールが支流で、努力や意志など遺伝的な要素が深く係わる衝動のほとんどが問題になっていない。体型も目や肌の色も、身長すら全てコントロール可能な領域なのだ。ましてや怒りや恨みなど無価値な物にエネルギーを裂く事などありえない。如何に最小のエネルギーで人生を過ごし、如何に効率よく行動し、どの様に最後を迎えるかを淡々と設計する。それが現実世界での常識だった。

見た目も才能もコントロールできる世界において、体型は差別の対象ではない。

ただのアイデンティテイだ。

この時代においては、意識で体型をコントロールすると言う途轍もなくくだらない手法が支流だったので致し方ないともいえるのだが…。

スーチーにとって、意識など幻想なのだ。

「そもそも意識って、別々に起こった条件、すなわち切り取られた世界を繋ぐものでしょ?人間の意識、動物の意識、それらは前後で起こった事象に理由をつける為にあるの。左右に揺れる振り子が、現在左に振れているのか、右に振れているのか、それは数枚の世界を行き来してわかる事であって、その切り取られた世界では理解する事は出来ないの。ブレのない写真では振り子の方向性すら観測しようが無い。つまり認識は記憶の連鎖を繋ぐ物であり、意識はそれらを纏め解析し、理解する。統合する仕組みなのよ。実験として、右脳と左脳を繋ぐ脳幹を切除した人間にとって、右耳で得た情報は左脳だけに、左耳は右脳だけに情報を伝える。右耳に、前に進んでくださいと指示を受けた人間が、前に進んだ後、左側から何故前に進んだかと問うと、喉が渇いたからなどの、前に進んだ理由を述べたと聞いている。すなわち、切り取られたこのような情報を都合よく繋ぐのが意識なのに、食欲を制御させるなんてナンセンスだわ」

そこまで言い切ると、ようやく観念したのか小さく呟く。

「とりあえず、彼女の思考を解析…面倒くさいなぁ」

どれほど悪態をついたところで状況は好転しない事を悟り、スーチーは渋々彼女へフォーカスを合わせる。

まずは、トン子と呼ばれたその日の給湯室を覗いてみる事にした。


「花沢かすみっているじゃん?あの子ずっと何か食べてない?」

お局であろう女性社員が、給湯室でにやけながら薫に話しかける。

片側だけ吊り上がるお局の口角は、お世辞にも整ってはいない顔をいつになく歪に見えせた。

その表情から、自分のフラストレーションを彼女に向けたい意図が覗くが、薫はそれを見逃してしまう。いや、彼女のお菓子を食べる表情を想像して、一瞬視野が飛んだのだ。

「えっそう?」

そう言いつつ、彼女がお菓子を食べている所はよく見かける。正しく言えば、意図的に見ていると言っていい。

薫は、かすみの食べ方が偉く気に入っていた。自分が小さな頃見ていたアニメ『とんちゃん』に出て来るハムスターの『とんちゃん』にそっくりだったからだ。

そこで不意に口をついて出たのが、

「とんちゃんみたいで可愛くないですか?」

だった。

言った瞬間、薫はしまったと思った。

目の前に居るのは、まっすぐの事実も自分の意図で捻じ曲げるお局だ。今の流れでは、必ずいい風に取るわけがない。しかも、目の前のお局の目は獲物に襲い掛からんばかりの飢えた目つきをしている。

「いいわね~トン子。豚みたいだもんね!わかる!」

そうではない!そうでは無いのだ。

アニメのキャラですよ…と言いたかったが、昔のアニメと言えば、自分が年寄りだと言うのか?と、余計にヒートアップすることは間違いない。

その瞬間、足音が聞こえた。慌てて給湯室から顔を出すと、かすみが走り去る後姿が見えた。

違う!そうじゃない!私じゃない!

追いかけてそう言いたかったのだが、足を踏み出す勇気が出なかった。

翌日、社内では『かすみ』と呼ぶ社員はほとんど居らず、皆が『トン子』と呼んでいたのだ。

あの、明るかった笑顔も、美味しそうにビスケットを齧る姿も、もう二度と見ることは無い。


「この女、思考からして終わってる」

そうは言うものの、女性の集団は怖い。実際、自分もその中に居ると声は出なかったのは事実だ。

「数百年前から変わっていない。今も同じか…」

ほとんどの差別は無くなったのだが、未だに思想や行動には牙をむく人間が居る。

倫理やモラルは劇的に改善したのだが、人間の根底はずっと同じだ。

妬みや恨み、異質な人間には容赦しない。

だからこそ、如何に人よりも目立たず生きるか。ここにかかっている。

この感情でさえ押さえつける薬剤が出ているのだが、人間としての尊厳の問題になっていた。

「恋愛感情も、そのうち禁止されちゃうんじゃない?」

スーチーは、自分の言葉に違和感を覚えた。

感情や感覚をコントロールするのがあまりにも当たり前になり過ぎており、思考が統制する世界こそが正しいと過剰に認識されているのではないのか?

自分が凪に対して好感を持つのは、この感情や感覚を誰よりも大切にしているからなのかも?

可愛い女の子からの言葉に心を簡単に奪われ、夢を見ただけで告白し、亡くなった親に二十歳の報告を行う。その自由な心に囚われているのはスーチー自身なのだ。

「あれ?凪が居ない」

給湯室に向かう薫を凪は放ってはいない。ほとんどストーカーの様に同じタイミングで給湯室に向かう。しかし、この日だけは彼女一人なのだ。

スーチーは急いで凪にフォーカスを合わせ直す。


凪は、人が疎らな車内で独り言をつぶやいている。

謝罪の練習だ。

「目覚ましが壊れていて…」

これは事実なのだが弱い。他の方法で起きろと言われるだろう。

「熱っぽいので病院に行っていました…」

体温計、社内にあったよな?

しかも、診断書とか有料じゃんか…。

「子供が溺れていて…助けたついでに着替えてきました…」

ただただ違和感!

どうしよう、寝過ごしたとか絶対に言えない。

そうこう考えている内に、無情にも電車はホームへと吸い込まれていく。


「なれるかもよ?救世主さん」

スーチーは数日前の電気屋の事を思い出していた。

「個人的には小鳥のさえずりなんて目覚ましとして面白くなかったんだよね。電気ショックか、工事現場でしょ」

満面の笑みで、その日から数日遡る。


この日、凪は愛用の目覚ましの声がかすれている事に気が付く。

無論、電池を交換したのだが、かつての小鳥達はモンスターに変わり果てていた。

「お別れするしか無いのか…」

大学時代からお世話になっていた目覚ましで、母親に買ってもらった思い出もある。

しばらく壊れかけた目覚まし眺めていたが、踏ん切りが付かないまま一応電気屋に足を運ぶ。

勿論、買い替える気など毛頭ないのだが、出かける理由が欲しかったのと、そもそも家電を見るのは嫌いでは無いのだ。

量販店には今まで見た事の無い目覚ましがずらりと並んでいる。その光景に凪は思わず声が漏れる。

「目覚ましだけでコーナーがあるんだ」

その中で、凪が気になったのは、手首に巻いて低周波で起こすものと、工事現場の音で目を覚ますものだ。どちらかと言えば、凪は音が鳴るよりも低周波で静かに目を覚ます方がスマートだと思い、買うならばこちらだろうと思っていた。しかし、予想よりも値段が高くそれほど持ち合わせが無かった事もあり一度売り場から離れる。

数回目の前を通り過ぎた間に、若い夫婦が土管型の目覚ましを手に取って機能を確かめていた。

今まで低周波の目覚ましの方に興味を持っていたのだが、土管型の目覚ましにも興味が湧いてくる。

「へぇ、マグネットで上にマスコットの固定が出来るんだ」

おそらく夫人であろう女性が、旦那であろう男性に笑いながらマスコットを見せつけていた。

女の人はああいったのが好きなのか…。

そう思うと、今まで気にしていた低周波の目覚ましの株が急に暴落していく。

夫人が興味を持っていると思ったのか、旦那が説明書を開き説明を始める。

「それより、右に傾けると時間が表示され、左に傾けると温度と湿度か~左右の円形の部分をひねると目覚ましで…」

目覚ましのデモが流れたが、工事現場の破壊的音源が辺りに鳴り響く。これは強烈だ。

凪はこの旦那が読み上げた性能を聞き一気に欲しくなった。

「えっ?目覚まし時計なのに、10気圧防水に5mの落下試験合格だって?どんな状況だよ」

笑いながら夫婦は時計を棚に戻しコーナーを後にした。

ようやくお目当ての商品の前に来ると、その金額を見て凪は伸びる手を引っ込めた。

1万8千円…やはり…高い…。

次いで低周波目覚ましも再度確認するが、こちらはもっと高い。倍以上の金額だ。

ただ、スマホからの遠隔操作が出来る点は夢が広がる。もしかしたら、白木さんが時間をセットして起こしてくれるとか…。

凪の妄想は広がったのだが、如何せん金額が高すぎて手が出ないのは事実だ。

次に、凪は自室で目覚める白木さんを想像していた。

白木さんが「小鳥のさえずりとか、お洒落でいいじゃん」そう言われる妄想が頭を過る。

小鳥と森がデザインされた可愛らしい時計に手を伸ばす。


「カーット」

スーチーは時間を止め、再びやり直す。

「貴方は結局、小鳥ならこれでいいかと箱から出さずに遅刻したんでしょ」

数日前に観た記憶を呼び起こし、最良の選択を考える。

全ては、あの給湯室をぶち壊すために。

「お局には変態で対抗するのよ」

舌なめずりをしながら凪の行動を脳内で想像する。

「どこを狙えば良いのか…」

スーチーの希望は、もちろん電気ショックで震える凪を見る事だ。

少しだけ時間を戻し、先回りしてスーチーは電気屋を見渡す。

すると、店員の行動が不自然な事に気が付いた。

機械的に店内をうろついているようだが、ほとんど真っ直ぐに歩いていない。十字の通路では、三分の一で左右のどちらかに曲がっている。

「監視カメラに映りたくないようね…彼をぶつけてみようかしら」

誘導可能かどうか、数回のやり直しを経てパターンを粗方把握する。

スーチーは状況を変える為、店員を目覚まし時計コーナーへ来るまで繰り返した。

「セット完了」

その掛け声と共に、再び時間を進めた。


夫婦が土管型の目覚ましを手に取ると、呼び込んでおいた店員が夫婦を見つけるとゆっくりと近づいて来る。

土管タイプの目覚ましの機能を丁寧に説明し始めた。機能面や性能の良さをある程度語った所で、夫人が声を上げる。

「えっ高い!」

間髪を入れず、店員が値下げする。

「今なら一万三千円まで下げれますが…」

店員は電卓をたたき夫婦に提示した。

おそらく、この目覚ましをどうにかしたいのだろう。

ただ、女性はコストパフォーマンスに敏感なのだ。

「考えます」

限りなくお断りしますを含んだ言葉を残し、夫婦はコーナーを後にする。

そこに横から入った凪は、

「これ、そんなに安くなるのですか?」

恐る恐る店員に聞いてみる。

「一万八千円…が、一万五千円になりますよ…」

奇妙なタイミングで入ってきた凪に、少々気味悪がったが、どうしても処分したかったのか凪にも値下げの話をした。ただ、先ほどよりも高いのだが…。

「先ほど…一万三千円と聞こえたのですが…」

凪は思い切って聞こえていた金額を出してみた。

「そうですね…本日即決ならば…その値段かも知れません」

歯切れの悪い回答も、凪にとってはありがたい事だった。

そう、持ち合わせが足りるのだ。

「じゃあ、即決します」

凪は満面の笑みで目覚ましを握りしめ、レジへと向かう。


「電気ショックが良かったんだけど…」

少々がっかりしたが、スーチーは時間を元に戻す。

効果の確認だ。


「花沢かすみっているじゃん?あの子ずっと何か食べてない?」

お局であろう女性社員がにやけながら薫に話しかける。

「えっそう?」

そう言いつつも、彼女がお菓子を食べている所はよく見かけるのだ。正しく言えば、意図的に見ていると言っていい。

薫はかすみの食べ方が甚く気に入っていた。自分が小さな頃見ていたアニメ『とんちゃん』に出て来るハムスターの『とんちゃん』にそっくりだったからだ。

そこで不意に口をついて出たのが、

「とんちゃんみたいで可愛くないですか?」

だった。

「とんちゃん、可愛かったですよね」

凪が偶然を装って入ってくる。


「キタァー」

スーチーはブース内で今までで二番目に大きい声を上げた。

一番目は勿論、釜めしの注文時だ。


凪は当たり前の様に給湯室に入り、白木さんに近づいていく。

「はっ?なにそれ?」

お局は明らかに怪訝な顔をしているが、凪はその表情の変化に全く気が付いていない様子で話を続けた。

「知りませんか?20年位前のかなり古いアニメです。見た事無いですよね~かなり古いですが…その時そのハムスターが可愛くて、勢いでぬいぐるみ買ったんですよ」

そう言いながら種を食べる真似をした。

「気持ち悪っ」

お局は吐き捨てる様に言い放ち、給湯室を後にする。

それを確認した後、

「ありがとうございます」

白木は深々と凪に頭を下げる。

「へっ?」

凪はポカンと口を開けたまま突っ立っていた。

「私、どうしようかと思っていたんです」

白木は確実にお局の表情を見ていた。いや、それどころか嫌な予感までしていたのだ。

しかし、凪は全く気が付く事無く、それどころか完全に誤解したまま話を続けた。

「とんちゃんのぬいぐるみでしょ?今度、ウチに見に来ますか?」

まだ種を食べるポーズをしながら目を輝かせている。

白木さんは廊下に響くほど笑い、

「はいっ、機会があったら是非見に行かせてもらいます」

そう言って、白木は凪を残したまま珈琲片手に給湯室から軽やかな足取りで出て行った。

廊下に出ると、歩いて来たかすみとぶつかったのか、

「きゃっ」

と小さな声に続き、笑い声が聞こえてきた。

凪はその声が普段より遠くに感じた。


「思いの外、パンチ力あるじゃん。さすが凪。お局にかなり古いの連発から、見た事無いですよね?とか、年齢差をどれだけ意識させる気なの?」

スーチーは満足そうに時間を戻す。

そう、あの時間に。


いつもの風景に、いつも通りの作業。

こんな現実、誰が面白いのだろう?

誰とも話さず、飲みにも行かない。トラブルが起きる訳でもなく、何の変化も無く過ぎて行く人生…。

そんな事を考えながら、凪は昨日終わった仕事のメールをチェックする。

あれ?

見知らぬアドレスからファイルが送られてきていた。

もちろんすぐに削除した。

社用のパソコンにウイルスが侵入する状況などあってはならない。

社員としてのモラルを問われる事象なのだ。

「私の所にも来てる」

かすみが白木さんを呼んでいる。

俺も白木さんを呼べばよかった…。

何事も話すきっかけが欲しいのだ。

「神心くん。ちょっと来なさい」

佐伯課長が珍しく凪を呼ぶ。

「このメールなのだが…」

どぎつい色の警告文が課長のモニターを覆いつくしていた。

誰が見てもわかる状態で何が聞きたかったのか…。

凪は不安に思いつつも、

「佐伯課長…これ、もうウイルスばら撒いていますよ?」

そう告げてみる。一応…だ。

「それは君がやったのだろう?」

佐伯課長の一言で、一瞬目の前が暗転する。

どう考えても、課長のパソコンなど今日一度も触っていない。むしろ、課長は誰にも触らせもしないのだが。

「神心くん。どうするつもりだね?」

大声で他の社員に聞こえる様に叱責を始めた。

その声に過剰反応し、全身が震える。

凪の思考は完全に停止していた。


「課長!お前もか!コイツ!絶対に許さない!」

スーチーは熱くなり、パネルを激しく叩く。

だが、次の瞬間、振動でスーチーポップアップされた画像を見ると一瞬で落ち着き、にやけながら先に進めた。


「誰だ!俺のパソコンに変なメールを飛ばしたのは」

伊落晴彦が怒鳴り込んできたのだ。

彼はドアを開けるや否や、一番遠くの席である課長へ向かい大声で叱責する。いや、これはもう威嚇だ。

「佐伯!貴様覚悟は良いか?お前のせいで今日の帰り時間が遅くなったらどう責任取る気だ」

「ぶっ部長それは…神心が…」

「どう責任取るつもりか言え!」

「ですから…」

「早く言わんか!どう責任取るのか」

「ですから、神心が…」

一瞬、伊落が凪を見るや否や笑顔を作った。

「電車で器用に寝るねぇ」

「……」

凪はこの状況を全く理解できず、声すら出ない。そして、何を言っていいかもわからなかった。

振り向くと、阿吽像の様な表情が戻る。

「早く直せ!今すぐ!来い!お前が直せ!」

歩き出した部長は、指先一本で課長を呼びつけ、二人は事務所内を後にした。

「あれ、大変なことになったのかなぁ」

白木さんが凪の傍に来て独り言のように呟く。

「そりゃあ、会社として大変なことになりましたから」

「いい気味」

白木さんは顔を歪ませた後、それ以上表情を見せないよう自席に戻った。

その後ろをついて来ていたかすみさんは、

「何もなければいいですよね?」

不安そうに声をかけてきた。

そのつぶらな瞳で、あれだけ悪態をつく課長の事をこの子は心配しているのだ。そう思うと、凪も少し心配になる。

自分でも課長には嫌悪感が尽きないのだが、彼女はそれでも課長の事を心配していたのだ。

その後、課長は数時間どころか、ずっと帰って来なかった。


「帰りが遅くなるって、あの腐れ部長、掃除のおばちゃんと予定でも出来たのかしら」

そう言いながらヘッドギアを外し、モニターに表示された時間を確認した。

「こんな時間か…」

今までで最長の時間ログインしている事に気づく。

このまま帰ってもいいが、少しだけ先も気になる。

「まあ、明日…休みだし…」

このままの気分で続きを見たい。

悩んでいる間に、ディスプレイにログイン認証の再確認のメッセージが表示された。

顔認証と、指紋認証を終え再びヘッドギアをかぶり直そうとするが、焦点が合わない。

安心したのか、眠気が出てきた。それも、視点が揺らぐぐらいに。

「錠剤あったっけ?」

スーチーはポケットを探ると、最後の一錠が出てきた。

『不眠』と書かれたそれを、口に放り込むと、そのままヘッドギアをかぶり直す。

「勝利の美酒…あれ、全て私の手柄だから」

錠剤をかみ砕き、そのまま映像の続きを流した。


「今日は俺の家で飲まない?」

凪は白木さんに向かって…言えなかった。

どうも、かすみさんと二人で飲みに行くみたいだ。

自分も行きたいとは言えず、誘って欲しそうに見送る。

かすみさんも、可愛いかも…。凪は歩き去る二人のお尻を目で追いながらそれで満足した。

今日は飲むか!一人だけど、絶対美味しいお酒になる。

普段、息の詰まる事務所が、佐伯課長が戻らない事でようやくこの世界が酸素に満たされた空間であることを思い出した日なのだ。

ここは深海などではない。もしかしたら、明日からもずっと地上である可能性まである。

飲まずにいられるか?

アルコールに自信が無い凪であっても、この気分は止められない。

帰りは、一駅前のリカーショップに足を向ける。

手にしたのはラム酒。

ホワイトラムにするか、ゴールドラムにするか、真剣に悩む。

あの日よりお先にハマった凪は、少ない知識をフル稼働して正解を探す。

カクテルにするならホワイトラムなのだが、ソーダ割ならばゴールドラムだ。

モヒートにキューバンスクリュー。夏のカクテルだ。

基本的に、ダークラムとゴールドラムはカラメル風味。甘い感じだ。

ジンも良い。安いジンならば、ジンバックかジントニック。

高いジンならば、ロックかソーダ割。

…悩む。

アルコールには弱いので、この取捨選択が大事なのだ。

ラムにすれば…残りをフィナンシェにかけて食べても美味しいし、コーヒーに入れるのもありだ。飲むことを前提とすれば、ダークラムよりゴールドラム。

凪は悩んだ挙句、ゴールドラムとソーダ水、それにコーラを持ってレジに並ぶ。

待っている間に、レジ横にあるおつまみを物色する。もちろん燻製うずらの卵があれば、それがベストだ。

帰り路で購入した弁当はカルビ丼。

コンビニのこってりの最上級ご飯が、この弁当だ。

家に着いて早速、カルビ丼をかきこみながら、ラムのソーダ割で流し込む。

甘辛いタレと絶妙な塩加減、そしてラムのビターな風味が食欲を加速させる。

そうこうしている内に、カルビが先に無くなってしまう。そこに燻製卵を載せ、再度米を食らうのだ。

甘ダレのかかった米に燻製卵が合う。

ただ、酔いが回ってくるとそれなりの寂しさが一気に押し寄せて来た。

勇気さえあれば、白木さんとかすみちゃんを目の前にお酒を飲んでいたかもしれないのだ。

雨音が増す中でテレビの電源を入れる。もちろん、今朝見ていたチャンネルが流れてきた。

「この豪雨はしばらく続き、田茂郡、佐伯郡、館花町、積三ケ原…の方は避難してください…。繰り返します…」

その映像を見て、凪は少し笑ってしまう。何故なら、ここに住みだして5年になるが、散々避難勧告を出しながら浸水どころか道路が水につかる事すら無かったのだ。

大家曰く、ここの地形は特殊で、数百年間水害は起きていない。

普通に考えて、ここ『積三ケ原』は扇状地で蔦川と言う頼りない川が中央に走っている。その排水量は脆弱で、洪水が起きやすい様に一見見えるのだが、その隣に分岐している蕪川の排水量は日本屈指の流量になるのだ。

したがって、これぐらいの大雨であっても溢れる事は無い。全ては蕪川がカバーする。

地形に詳しい凪はそう高を括っていた。

酔いも回り、どうにかベッドに辿り着いた凪は、白木さんとかすみちゃんの二人がどんな所で飲んでいたのか、どんな会話をしたのか想像しながら眠りにつく。

どちらでもいいので仲良く…いや、彼女にしたい…そう思っていた。

週明け、話しかけてみようか…。

そんな妄想を膨らませている間に意識を失った。

解体工事や道路の再舗装の現場で聞こえてくる、あの低音とも高音とも言えないハンマードリルの音で目が覚める。

衝撃音と言って間違いないその轟音を止めるために、一時停止ボタンを思いっきり叩く。

耳の奥にはその破壊音の余韻が残っていた。

本当は、こういった機器を思い切り叩くのは良く無いとは知っている。

どちらかと言えば、そのまま壊れて欲しいのだ。

しかし、数日前に買ったばかりという事もあり、時間のズレすら起こさない。さすがは土管の形をしているだけはあって、思いの外頑丈だった。

「タフすぎるだろ…」

あきれた様に時計を掴むと、緑色の光で土管の中央に午前6時の表示が映し出された。

動かした時だけ発光する仕組みの為、普段はどこあるのか認識し難い。正に無駄機能のオンパレードと言える。

性能としては今までの時計とは比べ物にならない程に多機能なのだが、寝起きに心が大きく乱されるのが不満であり、毎朝捨てる理由を探し続けていた。

何かに誘われる様に購入した物だったが、いつまでも経ってもその騒音に慣れることは無い。ただ、それだけの理由で捨てるのは心苦しい。せめて、白木さんに見せるまでは捨てられないのだ。

おそらく、一度は笑ってくれる…。あの時の夫人の様に。

それに、これを買ってから一度も二度寝をしたことが無いのも捨て難い理由のひとつだ。

時間通りベッドから降りようと足を投げ出すと、水辺で遊んだ記憶を呼び起こすような音が聞こえた。

足全体に冷たくまとわりつく液体の感覚がする。瞬間的に足をベッドの上に戻す。

脳内の経験から導かれたシチュエーションと、起こり得る現象が一致しない。

一番近いのは…プールサイドだろう。

昨日の深夜に流れていたニュースが頭の隅に過る。

この地域だけは普段から降水量が著しく少ない。隣の地域で大雨だとしても、ここだけ晴れているなどざらだった。

夢の可能性は無いだろうか。

凪は確かめるために、もう一度足を水に入れる。

明らかに先ほどより増えていた。

夢かどうかなどどうでもいい。これは危険だ。

薄暗い部屋中、電気は全て落ちていている。感じるのは部屋を埋め尽くした水の気配。水分過多の空気が充満しているのだ。

ここ…二階だよな…。夢の途中であってくれ…例えその代償がおもらしであったとしても。

そう思い、一回強く瞼を閉じた。

そしてゆっくり目を開ける。それと同時に、ゆっくりとベッドは浮かび上がった。

妙な浮遊感が、リアルに流されている自覚をもたらす。

「だれか〜」

寝起きなのだが、これほど活舌良く声が出るとは思わなかった。

軋む壁と天井が、脱出までの時間の無さを告げる。

ベッドに敷いたエアマットを剥がし、水位が膝丈まで上がった室内を進む。

スマホは…見当たらない。いや、もう探してすらない。

おそらく、充電器に差し込んだまま床に投げていた筈だ。

すなわち、今はただの板になっていると思われる。

とにかく、ここから出るのが先だ。

エアマットをベランダから外へと放り出し、その上に身を投げ込む。

思いの外不安定だった為、サーフィンのパドリングと同じ態勢を取った。

一瞬、ここは二階なので…澄んだ水ならば空を飛んでいる気分なのかな…。など、想像する。

幸い、流れは緩やかと言うよりも、ほとんど停滞していると言って間違いない。

背後から、べニア板が軋みながら砕けるような音が聞こえてきた。振り返る事は出来ないものの、それが凪の家が放つ断末魔だと確信する。

家の崩壊で出来た波。

そのマットを押し上げる緩い波の中に、アルバムや食器などの思い出が詰まっていたと思うと、その波が消えるまで凪は目が離せなかった。

「とりあえずは生きなきゃ」

凪は独り言で自分を奮い立たせる。

『気力を出すなら、まずは声を出さなきゃ』父親がよく口にしていた台詞を思い出していた。

『身の危険を感じた時こそゆっくり周りを見渡すの』次いで、母親の口癖も脳裏に浮かぶ。

あの小さな波の中に、二人の位牌もあったことを思い出し、最後に語り掛けてくれたのだと感じた。

まずは、この状況をどうにかしたい。バランスを崩せばすぐに水中へと放り出される。二階まで水位が上がっている事から、水深は2m以上であることは間違いなかった。

まずは陸地を探すが、濁った水面と靄のせいでが遠くまでうまく見渡せなかった。目を凝らすものの、上陸できそうな足場は一向に見えてこない。それどころか、歩きなれていた土地にもかかわらず方向感覚が全く役に立たないのだ。

土地勘とは、地面を基準に捉えている事をこの時初めて凪は知った。

「霧が邪魔だ」

そう小さく呟きながら、かすんだ水面を見つめる。

水没した街と、その上を静かに覆う靄。

不適切だとは頭の隅で感じていたが、その神秘的な景観は、凪を少し現実世界から遠ざけてくれていた。

だが、いつまでもこの状況で居るのは得策ではない。

いっその事、飛び込んでしまおうかとも思ったのだが、岸側がハッキリ見えない限り、飛び込んで逃げ出したとしても向かう方向がわからないのだ。泳いだはいいが、足のつく場所が無い。そんなリスクだけは避けたかった。

ゆっくりと回転しながら確実に海へと進んでいるマット。低い水温で張りが無くなっているのを感じ、このまま進んでよいか不安は募るばかりだ。

選択肢として、他の家の屋根によじ登ろうとも思ったのだが、水流に押しつぶされ屋根すら見えなくなった実家のイメージが強く、浸水している建物からは出来るだけ遠くに行きたかった。

流されるくらいならば、適当に腕で水を掻く方を選ぶ。そんな単純な思考から生まれた行動だ。

どこか、どこか安全な場所へ早く向かわなければ。

そう思いながら、一心不乱に水を掻く。

不意に、上空からヘリの空気を叩く音が聞こえてきた。

近い。

凪は慌てて声を出す。

「どこか〜」

違う事を考えていたので、咄嗟に思わぬ言葉が口をつく。

その台詞が気に入らなかったのか、ヘリは旋回し距離が離れていくのが羽の音でわかる。

なんて不幸なのだろうか…。

会社にも行けないだろう……。

欠勤扱いになるのだろうか、それとも連絡が出来ないので無断欠勤で…懲戒解雇?

悲しい事に、凪には心配事がそれしか無かった。

人生の最後がこんな形で終わろうとは……。

そして、心配すべき事がこんなに少ないとは……。

凪は自分の心まで流されないように行動を起こす。

とりあえず漕ぎ出そう!

最悪枝の様な物。出来ればオールの様な板…。

そう思いながら近場を見渡すと、ほとんど水没しかけた木々の一本に子供が捕まっているのが見えた。一瞬、漂流物か何かだと思ったのだが、よじ登ろうとしているのか、腕が小刻みに揺れているのが見える。

助けなければ。

自分の状況を完全に忘れ、両腕で水を掻く。

気が動転していて今まで気にも留めなかったのだが、水温は思いの外低い。こんな水の中にずっと浸かっているのだと思うと、自然と水を掻く手にも力が入る。

「大丈夫だー」

大丈夫か、と大丈夫だから、が混ざり、我ながら意味不明な言葉を連発してしまう。

こちらを振り向いた瞬間、子供は安心したのか、そのまま水の中に沈み込んでしまった。

凪は気が付くと、マットから飛び降り水の中へ飛び込んでいた。

刺さるような冷たさが、凪の力を驚くべき速さで奪う。

子供が沈んだ場所まで来ると、目を瞑り手を差し込む。

指先に、微かに鞄の様なものが触れる。それを手繰り寄せ、一気に肩の上まで引き上げた。

幸い、意識を失うことなく子供は水面へ顔を出す。

弱々しくもがく子供を窘める様に囁く。

「もう大丈夫だから」

そう言うと、凪は片手で枝を掴み、もう片方の手で子供を力の限り枝の上まで押し上げる。

凪の問いかけに返事はなく、震える子供は小さく数回頷く。

このままじゃ危ない。

凪は話しかけようとするも、思考が鈍り『大丈夫』以外の選択肢が無くなっていた。

「まっかなー太陽が~沈む~砂漠~に~」

咄嗟に出たのは歌だった。中学の時に合唱コンクールで練習した怪獣のバラード。

凪が歌詞を覚えているのは、この歌しかなかったのだ。

子供の顔は相変わらず硬直しているが、少し頬が緩んだようにも見える。

数回歌い終えると、先ほどから聞こえているヘリのローターブレードが断続的に空気を叩く音が大きくなっている事に気が付く。

「叫べ!」

凪は力いっぱい子供に伝える。

「おーい」

子供の通る声が、救助ヘリの隊員の耳に止まる。

旋回していたヘリが傾きを大きく変える。そして、中央部から身を大きく乗り出し凪達を確認した。

「今助けるぞ」

まさに天からの声。

オレンジ色の救世主だ。

ロープに吊るされた隊員が蜘蛛のように降りてくると、凪の手から手際よく子供を抱きかかえこちらに視線を向けた。

「大丈夫ですか」

隊員の落ち着いた声が、凪へ勇気を与えた。

もう限界が近い。

しかし、口から出た言葉は違った。

「早く、少年を連れて行ってくれ」

凪は出来るだけ笑顔を作り、右手でサムズアップする。

頭に過ったのは、昔観た映画のワンシーンだった。

このポーズをしたアンドロイドは、そのまま溶鉱炉へ沈んで行ったっけ。

小刻みに震える左手は、既に自分の物とは思えない程に感覚が無い。

次の瞬間、凪の視点から頭上高くに水面が見えた。

全身の力は抜け、軽く道路に背中が触れる。

辺りはひどく濁っており、もう何も見えなかった。


「ダメ」

寝落ちから覚めたスーチーは、目に涙を溜めながらブースを激しく叩く。

「貴方が死んでどうするの!」

ほとんど絶叫に近い声を上げる。

「貴方はどこで救われた?」

「おはようって誰かに言われた?」

「誰かが優しく微笑みかけてくれた?」

「おやすみって言える人がいた?」

握りこんだ拳は震え、付け爪は音を立ててはじけ飛ぶ。

「今日、彼に何かいいことあった?死ななきゃならない程の事をした?いつも、いつも、いつも自分の事は後回しで、むかつく奴は放っておく癖に困った人には手を差し伸べる。本気でムカつく」

最後の方は、涙交じりで言語として認識できない。

スーチーは開閉キーを回し、ヘッドギアをブースの外に投げすてた。

「面白い物語ね」

転がったヘッドギアを拾いながら、友人のウェン・リンが話しかける。

「どこで見てたの?」

スーチーは、振り乱した髪を手で整えながら恐る恐る聞いてみる。

「上にモニターあるじゃん」

指さされた先には、水中に沈んだ凪の姿が映されていた。

このモニター外部と繋がっていたんだ。

スーチーは1年以上通って、ようやくモニターの存在意義に気が付いた。

そして、このオープンスペースの目的も…。

おそらく、他人の視聴シーンを流す事により宣伝効果を狙ったものなのだろう。

やられた…。

通りで待遇が良い訳だ。

リンは考え事をしているスーチーに言葉をかける。

「私の推しも、すぐに死んじゃうんだよね」

あどけなく笑う彼女だが、推しは戦国時代の足軽専門だ。それも、負け戦の中で見つけるので、生存している方が稀だった事を良く聞かされていた。

そう思うと、彼女の視聴シーンも気になってくる。

それが、このシステムの儲かる仕組みなのだろう。

人が何に夢中になっているのか、それを覗き見たくなる。

商魂逞しいと思いながらも、良く出来ているシステムだ。そう感心せざるを得ない。

「リンは選ぶ男が悪いのよ」

スーチーは表情を隠しながら答えると、

「お互い様じゃんか」

リンは両手をお腹に当て笑い、それに釣られスーチーも笑い出した。

「諦めるの早くない?」

不敵に笑うリンに、

「当り前よ、あんたの推しとはモノが違うのよ」

そう言って、手渡してきたヘッドギアを奪うようにつかみ取る。

「スーチー、ヘリが旋回した時、建物の屋根に上がれば生き残るんじゃない?」

人差し指を回しながら、モニターを顎で指した。

制止した画像の傍には、屋根だけになった建物がいくつか存在する。それを二本の指で拡大し、空中を撫でる様に指を這わす。それを合図に時間は逆行する。

リンは、外部からの手慣れた操作でモニターを動かす。彼女が見る方に精通している事が良くわかった。彼女は、スーチー以外の人生も多く見ていたのだろう。そして、部外者だからこその冷静な観察眼がある事も。

ただ、その世界にどっぷり浸かっているスーチーには受け入れ難い提案でもある。

「それじゃ、あの子供が死ぬじゃん」

「統計的に、子供が災害に遭った場合大人よりも高い確率で死ぬのよ?それとも世界中を救って回る気?」

スーチーの感覚では、子供の死が統計上にあるただの数値ではなく、実世界にあるただ一つの命だった。

「見えない凡夫は統計学の数値でいいの。けどね、この子供は確かにそこに存在したの」

ブースを再セットしながら、スーチーは吐き捨てる様に言う。

リンはスーチーの言葉に被せて反論する。

「推していた隊が壊滅する時、散っていく仲間の命を犠牲にしてでも推しが生きる道を取るのがそんなにいけない事?」

言い終わると、不思議そうにスーチーを覗き込んだ。

スーチーは一口空気を飲み込むと、彼女に誤解させないようゆっくりと答えた。

「貴方ならそうするでしょうね。だって私も、凪を見るまではそうだった」

そしてスーチーは、開閉ボタンに触れた。

ゆっくりと音を立てながらブースの扉が降りてくる。

「傍観者である方が気楽なのに」

リンは不貞腐れた表情を浮かべ、スーチーを見送った。

「さあ、本日最後のミッション。二人を救うよ」

スーチーは、衝撃の展開と、友人に会った事もあり眠気が吹き飛ぶ。そして、意図しなかった仮眠を取った事により頭は冴え、地球の裏側まで覗けそうな気分でヘッドギアのシールドを下した。

再び目の前に現れた画像の束を指でなぞる。

数枚の浮かび上がった画像の中から、自分が寝落ちしたであろう場面を選ぶ。


降り立ったのは、雨の降り出した時間、午前3時45分

まだ凪のアパート周辺では降雨は無い。

彼はまだ熟睡しており、起きる変化は皆無だ。

スーチーは、一度流れを確認する為に水没まで何が起きていたのかを確認する。

何故あの時間に子供が外に居るのか。

何故、あの川が氾濫したのか。

その疑問から潰していく。

「いってきます…凪」

寝ている凪の横顔をその一言で振り切り、室外に観察点を移す。

すると、今まで視覚的な歪みが無くなり、視野全体が急激にクリアになった。

いつも見えている画像は、彼を通して見えている世界だったのだ。

視界に飛び込む風景が、彼女の心をこの世界から着実に引き離している。そんな感覚に襲われた。それも、ほんの数秒で。

「もう少し、もう少しだから…」

カメラを指先で操作し、少年が引っかかっていた街路樹を目指す。

凪の住む町の周辺は街灯が少なく、道路はもとより足元すら見えない。普段ならば歩く事すらままならない状況にもかかわらず、彼女には全く問題が無かった。

今は歩いているのではなく、凪の家に続く平面座標情報を観察しているに過ぎない。

道路脇の壁に接触する寸前、自身の数センチ前でただの情報の断片となり、何の抵抗もなく透過する。いや、彼女が同じ座標軸に存在しているだけだ。そして、目の前のモニターが情報としてそれらを可視化していた。

異質な視界がスーチーの気分を更に下げる。

今までヒトとしての視点だった事で、この世界の住人と同じように感じていた空間。そこから得ていた風の音、日の光、雨の匂い、それ等全ての感覚に関する記憶すら、恐ろしい速度で失われている。まるで、風化する岩の様に細かく、みすぼらしく、際限なくスーチーから剥がれ落ちて行く。

心が拒絶する。

わたしの感覚が。

わたしの意志が。

わたしの魂が。

そこに存在しない事実を突き付けられている自分。

空気感も、暗所での行動の難しさも、全てが意識の外へと追いやられていく。

「泣くな。泣くな。全てを失ったわけじゃないのだから」

スーチーの涙は凪を失う悲しさからでは無い。この世界と自分という存在の距離が、途轍もない速度で離れていく消失感からだ。

純粋な観測者として動けば動くほど、スーチーの心は、この世界に凪と居た記憶を限りなく薄めていく。

それが幻だった事を、心が理解し始めていたのだ。

目的の街路樹周辺に到着すると、遠くに少年の背中が見えた。

急ぎ少年に焦点を合わせる。

彼は成長期を感じさせない程に痩せており、あどけなさを失うくらい頬がこけていた。無造作に切られた長髪から、生活の苦しさを読み取るのに時間はかからない。

服の繊維は毛羽立ち、履き古したズボンの膝は大きく膨らんでいる。

彼が濁流に巻き込まれたのは、彼自身の環境によるものであり、決して不注意などではない。スーチーは、そう確信が持てた。

少年は慣れた歩みで、まだ夜の空けない道を迷いなく進んで行く。

この暗がりにも関わらず…だ。

その歩みを見れば、おそらく通いなれた道なのだとわかる。

通りを一本入り住宅街へと進むと、唯一明かりのついている古びた小屋の様な建物が四つ角の隅に見えた。少年はその敷地内へと入って行く。

如何にも昭和を感じさせる、アルミの枠で出来た花柄なのか渦巻なのかわからない模様の入ったガラス戸は、小さな振動音を発しながら軽やかに動いた。

「おはようございます」

少年の発した機械的な挨拶は、室内の淀んだ空気に紛れ、誰にも受け止められることなく消えていった。

ドアを閉めると、

「毎日頑張るね」

えらく年老いた老人が少年の声を聴きつけ、奥の部屋から身体を揺らしながら出てきた。おそらく、加齢により歩行も困難なのだろう。

その老人は少年の肩に手をやり、自分の孫の様に優しく撫でた。

「はい…」

何処となく疲れた感じで返事をする少年は、老人に配慮をしたのか、それとも自らの境遇を恥じてなのか、うなだれた様子で奥へと進んだ。

スーチーは察することは出来ても、この境遇に関して一切の同情が湧かなかった。

それは、既に観測者としての立ち位置に多少なりと染まっていたからだろう。

「大雨が降る前に帰ってくるか、危なくなったら近くの避難所に向かうんだよ」

奥から出てきた少年の手には、持ちきれない程の新聞と呼ばれる情報ツールが載せられている。

このような情報ツールはスーチーの居る時代には既に無い。時代のズレが大きくなっているのか、それとも数百年でそれほどまでに文化が変わってしまうのか、紙媒体の情報ツールはほとんど消滅している。

ただ、スーチーの記憶を辿るも、凪の生活においてこういった情報ツールと使用していない事から、急激に失っていく過渡期であると推測した。

「大雨の予報で、人手が不足していてすまないね」

自転車の籠に山の様に新聞を積み込む少年を見ながら声をかけた。少年は無表情のまま小さく頷く。

そして、老人は謝りながらも少年に地図を手渡す。

「この区画も回れば、バイト代の他に5千円上乗せするから頑張って」

そう言って、少年を道路まで見送った。

心配しているのは口だけなの?スーチーは悪態をつきながら少年と共に道路を自転車で走る。貧相に光る前照灯は、路面すらまともに照らさず、ただ車に存在を知らせるだけの目印としてしか機能していない。

笑顔とも泣き顔とも取れる顔をしながら少年は、めいっぱいペダルを漕ぎだす。

雨が降る前に、出来るだけ多く回ろうとしているに違いない。

籠いっぱいの新聞に舵を取られながら、少年は必死に目的地を目指している。

あの時間、街路樹に捕まっていた理由はこれか…。

スーチーは自分の中で物語を構成し、今後必ず起きる事態の打開策を探る。

おそらく、数日では少年の判断を覆す事は出来ない。彼の過去を辿れば、少々流れを変える事は可能かもしれないのだが、そんな気分になれなかった。彼はただ必死に暮らしているだけなのだ。それを変える事は、少年が積み上げた今までの苦労が無かったかのようになってしまうのに抵抗を覚えたのだ。

ただ、周りに居る大人が悪かった…。


ヘッドギアを再び取ったスーチーは、目の前に並んだ画像を視界に入れながら状況を整理する。

このままでは少年は濁流に飲まれ、それを助けた凪は死んでしまう。しかし、凪だけが救助されれば、おそらく少年が沈んでしまうだろう。

「トロッコ問題だわ…」

スーチーはこめかみに指を押し当て最適解を脳内で模索する。

凪と少年、どちらかが生きてはいけない運命。

子供の命の方が重いの?

不幸な凪の方が可哀そう?

道徳的な判断より、この世界を誰よりも大切にしている私に選ぶ権利があるはず?

そう考えても指先は震え、この世界へのアクセスにすら恐怖を感じていた。

分厚いガラスを叩く音が彼女を我に返す。

「悲惨な少年見捨てれば?貴方の彼が居ない未来なんてすぐに飽きてしまうわ。とりあえず、洪水が起こった時点で粗方運命は決まっているもの」

リンの言葉によって、彼女の揺さぶられていた感情と思考が一気に乖離した。

「そうよね、洪水が起こった時点で終わりね」

スーチーは、午前3時半にアクセスし直す。

災害まであと15分。

座標は…極美山、山頂付近。


夜明け前の山頂から見える街の景色は、街灯すら認識できないほどに暗く、草原は数時間前から吹きつける暴風で、海のうねりの様に揺らいでいた。

頭上の雲は分厚い布団の様に重厚で、多量の水分を持て余しているのが一目でわかる。

この、極美山から街へ流れ込む川は三本。

南に見える街を見下ろして、右端から蕪川、蔦川、伊の草川。その内の蔦川に流れ込む雨を蕪川か伊の草川に振り分ければ浸水は発生しない。一番の有力候補は伊の草川で、山の中腹付近で大きく迂回しており、その先は県外へと続いている程だ。蕪川も流量の多さから候補ではあるのだが、中流では蔦川と分岐する流域があり、そこからの流れ込みで氾濫する恐れがある。

雨雲の移動速度を算出すると、現時点での移動速度は時速60㎞プラスマイナス3%。そこから降雨ポイントを移動させたい距離は約5㎞。そこから導き出せば、5分以上雨が降らなければ伊の草川に降り注ぐはず。

雨雲は常に雨を降らせている訳ではなく、ある程度水滴が成長し重くなって、上昇気流で支えられなくなり雨粒は落下する。その後、連鎖的に雨が降り続けるのだが後戻りしながら降るわけではなく、どちらかと言えば先に進みながら重くなった雨粒をばら撒いているイメージだ。

すなわち、そのポイント以前で雨が降る事はほとんどない。

たまに、雲が過ぎ去ってから雨が降る事もあるのだが、それは上空で雨が放出された後に雲の移動速度が速く、頭上からいなくなった時にようやく落下する現象に過ぎないのだ。

「どうやろうかしら」

真剣な眼差しで雨雲の動きを観察する。

雨雲の中へ視点を移すと、水蒸気がどんどん雨粒へと成熟していく過程が目視でも観測できた。

「5分か…」

スーチーはこの世界にある拡大機能を使い、水の粒子をある程度まで拡大し、カオスが色濃く表れる動く世界に沈む。

細分化された未来は、拡散された多数の未来に繋がり動き始めるのだ。地味な作業だがこれしかない。

水蒸気が集まり、微細な水滴になり、やがて雨粒になる。その過程にある、水蒸気の動きをやり直しによって安定した分子の運動で埋め尽くす。

3時46分20秒

1分程雨雲は東にズレた。

「このズレがどこまで変わるのか…」

スーチーは豪雨の中、川を眺め続けた。

渓谷を伝い流れ込む多量の水は、蔦川に向かい集まり続ける。そして結果的に蔦川の氾濫が始まった。

集まった水は勢いを増し悠々と堰を乗り越え、土手を崩し居住区へ流れ込む。想定以上の流量になると排水溝は機能を失い、辺りはゆっくりと水没していく。

余りにも無慈悲で、あまりにも自然の恐ろしさを痛感したスーチーは、その光景に神々しさまで感じている。

大自然の前に人間のたった一人の力など無力なのだ。

「まだまだポイントをズラさなきゃ」

絶望的な状況であったのだが、この方法しか彼女には無い。折れかけた心を無視し、再び水蒸気の形成を遅らせる。

45分20秒

44分45秒

46分12秒

44分48秒

45分5秒

44分59秒

45分30秒

44分20秒

何度やっても中央値を大きく外れない。

そして、洪水は何度も起こり凪を水中へと引きずり込む。

凪を初めて見かけた時とは違い、彼の死が彼女の心に深く刻み込まれていく。どうにもならない絶望感と共に…。

気が付くと彼女は雲を眺める事を止め、土砂降りの渓谷を繰り返し無感情に見つめていた。

時間通りに降り注ぐ雨が、何度目なのか分からなくなるほどに。

スーチーは、このシステムが制作されたきっかけを思い出していた。

気象予報シミュレーション…。

その絶望的な事実は、彼女の折れかかった心を粉砕するなど簡単なことだ。

何度でも再現可能な仕組みだからこそ価値がある。だからこそ、何度足掻いてもどうにもならないのだ。

いつからだろうか、彼女はただの傍観者になり淡々と同じ時間を繰り返し見続けた。

夜更けから未明にかけて、夜空を雲が覆い、やがて信じられない程の雨粒が降り注ぐ。

極美山の山頂から見える黄色ともオレンジ色とも言える夜景は、どことなくまばらでありそれゆえに星空の様だった。連なる光の下を、ゆっくりと動いている光はおそらく車のライトだろう。まばらに見えるネオンサイン、ゆっくりと点滅する航空障害灯。今降り注いでいる雨が、その全てを飲み込み流し去る。

彼女が眺め続ける未来は、救いようが無くそしてとても美しい。

既に降雨の記録すら見なくなったスーチーは、雨の降り初めから濁流が街を飲み込む時間までを延々と繰り返す。

3時35分

再びスーチーは戻ってきた。

その瞳に、かつての希望は無い。

そして、凪と少年のどちらかを選ぶといった気持ちも無い。

ただ、そこから眺めているだけだ。

次第に広がる視野は、色々な物を彼女に認識させてゆく。

森の切れ目から見える岩肌や、渓谷から見える滝。

その光景の中に、一羽の鳥が居る事を発見した。

木々の間から少しだけ見える小さな鳥は、雨が降るのをわかっているのか枝の最も太い部分にしっかりと爪を差し込み、これから訪れるであろう災害に備えている。

ただ、そのどっしりとした大きな木々ですら、降雨後には根を天に掲げ枝は黄土色の土砂に埋もれるのだ。

「もう少ししたら飛べない程の雨が降るからお逃げ」

聞こえない声で目の前の野鳥に語り掛けた。

その瞬間、雨雲の中から一本の雷光が山に突き刺さる。

地響きに似た轟音は木々を揺らし、地電流が辺り一面を駆け巡った。

木々に留まっていた数羽の鳥が、その振動に驚き飛び去る。それに触発された無数の鳥が次から次へと飛び去ってゆく。

その光景は、山を覆っていた木々の分厚い絨毯が、圧倒的な力で引き剥がされるように見えた。

「ダメ!そんなに多くはダメ!空気を…大気を揺らさないで」

スーチーは、泣きながら空に手を伸ばす。

鳥や稲妻により大気は乱流を起こし、一気に無数の雨粒が形成され降雨となる。

そして、降り注ぐ雨は空気の壁となり、そこを境に豪雨が降り注ぐ。

まるで、空にできた透明な滝の様だった。

極美山の山頂付近で降り注ぐ大量の雨は、谷を伝い蔦川と蕪川に流れ込む。もはや、山肌と渓流の区別がなくなっていた。

最初に蕪川の水嵩が増す。次いで、蔦川にも雨が流れ込み既に今まで以上の激流と化していた。

水量が異常なまでに膨れ上がった二本の川を眺めながら、スーチーはこのまま凪が運命通りに人生の幕を引く最後の瞬間まで見届け、この世界を去ろうと心に決めた。

頭上の雨雲は、崩壊しながらゆっくりと凪の居る家へ迫っている。

なんという壮大な光景だろう。

この、如何ともし難い大自然の振る舞いに、たった一人で立ち向かい未来を変える事など、そもそも無謀な事だったのだとスーチーは痛感させられた。

眼下に流れる川に視線を落とす。

凪の命を奪う恐ろしくも圧倒的な災害。

ただ、スーチーは妙な違和感を覚えた。本流である蕪川が増水し始めると、支流である蔦川に流れ込むべき水を引き込み水位が下がりだしているのだ。

「こんな事って……あるの?」

スーチーは雄大に流れる蕪川の中流を眺め、しばらくの間言葉を失う。

元々、かなりの流量を想定されている蕪川は堤防までも水位は上がらず、もちろん蔦川も普段の表情を残したままだった。

「バードイフェクト…」

スーチーは降りしきる雨の中、微笑みながら天を仰いだ。

この気分のまま、土砂降りを頭から浴びる事が出来ない自分を悔やむ。

今以上に、ずぶぬれになりたいと思った事は無い。

「これが数百年洪水が無かった理由なのね」

今までの様に、ピンポイントで大雨が降らない限り、凪の住む場所には洪水が起きないのだ。

スーチーは凪の家へゆっくりと視点を戻す。

道路は川のようになってはいたものの、先ほどまでの様に浸水する事が無いのを確認していたのだ。

6時00分

工事現場の音が目覚ましから鳴り響く。

凪は衝撃音と言って間違いないその轟音を止めるために、一時停止ボタンを思いっきり叩く。

耳の奥にはその破壊音の余韻が残っていた。

本当は、こういった機器を思い切り叩くのは良く無いとは知っている。

どちらかと言えば、そのまま壊れて欲しいのだ。しかし、数か月前に買ったばかりという事もあり、時間のズレすら起こさない。さすがは土管の形をしているだけはあって、思いの外頑丈だった。

「タフすぎるだろ…」

あきれた様に時計を掴むと、緑色の光で土管中央に午前6時の表示が映し出された。

動かした時だけ発光する仕組みの為、普段はどこあるのか認識すら難しい。正に無駄機能のオンパレードと言える。

性能としては今までの時計とは比べ物にならない程に多機能なのだが、寝起きに心が大きく乱されるのが不満であり、毎朝捨てる理由を探し続けていた。

いつも通りの出勤準備を洗面所で進めていると、リビングのテレビから気象に関するニュースが流れてくる。

テレビから流れてくるアナウンサーの声を聞くと、ようやく昨夜電源を落とした記憶が無い事を思い出す。

「昨日未明の非常に激しい雨で、河川の増水が予想されます。出来るだけ河川に近づかないでください」

「わかっているよ~」

凪は点けっぱなしのテレビに向かい返事をしながら、キッチンに置いてある目玉焼きを持ってリビングに向かう。

テーブルに置いてあった食パンに、持ってきた目玉焼きを載せる。

いつもは半熟でいい感じなのだが、今日の目玉焼きの黄身は固焼きになっていた。

「今日はホントついてない」

そう言いながら、マヨネーズをたっぷりとかける。

一口齧ってみたが微妙にパンと合わない。

「やはりトロトロの黄身が良い感じのソースの代わりになっていたんだ。いつもより味気ない」

独り言を言いながら、そう再認識するも出来たものはしょうがない。

一気に食べきった皿をシンクに入れ、急いで家を後にする。

「今日を乗り切ったら、明日は休みだ」

一声気合を入れ、アパートを後にした。

すれ違った痩せた小学生に、

「おはよう」

と、凪は声をかける。

「おはようございます」

少年は元気よく挨拶すると友人と共に駆けて行った。

その後ろ姿を見ながら、凪は今日の気力を蓄える。


ブースの扉がゆっくりと開く。

「ふぅ〜」

スーチーはヘッドギアを外し、黒髪を振りながら絡んだ髪を解く。

「すごい事したじゃんか」

リンがブースの扉が上がり切る前にガラスを叩きながら話しかけてきた。

「見てたの?ずっと?」

スーチーは気まずそうに言った。

自分の泣き顔も、絶望も彼女は何を思いながら見ていたのだろうか。

そんなスーチーの顔を一瞥もせずに、興奮したリンはなおも続ける

「目が離せるわけないよ。あの鳥の量!知っていたの?」

「知るわけないじゃない。それまで一度も飛び立たなかったし」

そう言いながら、来るときにかけていたサングラスをかける。

おそらく目は腫れているだろう。そう思い、目だけでも隠したかった。

「それはそうと、貴方の足軽どうなったの?」

「へへっ…また亡くなっちゃいました。それより、あんなにやり直して疲れない?」

軽く舌を出しながら小さく笑った。

いつもなら、ホントに愛情が無いとか言う所だったのだが、どんなに頑張ってもどうにもならない時や、諦める為におどけている時だってある。それに、リンが見ていたから運命が変わった可能性だって…少しはあり得る。この世の中、何が作用するかなど誰にもわからないのだから。

そんな事を考えていると、リンがスーチーの顔を覗き込んでいるのが見えた。

おそらく心配してくれているのだろう。散々泣いたところも見られていたっぽい。

だからこそ、出来るだけ声を大きくし、

「そりゃ疲れるわよ!心も折れるし、お金や時間が全て無駄になるかもしれない…そう思いながらやってるもの。けどね、あの運命が変わる瞬間が本当に鳥肌ものなの。それとね…」

そう言いながら、スーチーはブースから出て走り出す。

「それと、何よ~」

後ろからリーが走り寄ってくる。

「内緒~」

後ろ手で手を振りながら出口へと向かう。

出入り口が開いた途端、眩いばかりの朝日が差し込んできた。

手で日光を遮りながら空を眺めながら叫ぶ。

「凪…ほんと、愛してる」

「逃げても無駄。聞こえたよ」

そう言いながら、後ろからリーが抱き着いてきた。

「スーチー、お腹空いた!朝ごはんどこ行く?」

疲れから家に帰りたかったのだが、自分のお腹が空いている事にこの時ようやく気が付いた。

「そうね、モーニングビュッフェとかどう?」

リーは小刻みに飛び跳ねながらスーチーの前に出る。

その背中をほほえましく眺めながら後を着いて行った。

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