第30話 その解決方法は
翌朝の集会所は、まだ人の少ない時間帯で、障子越しの光が畳に静かに広がっていた。机の上には昨日と同じように淀川流域の地図が広げられ、四隅を文鎮代わりの石が押さえている。外からは、村が目覚めていく気配――鍬の音、遠くの川音、鳥の声が微かに入り込んでくる。
「では、改めて整理しましょう」
最初に口を開いたのは村田だった。背筋を伸ばし、淡々とした官僚らしい口調だ。
「国として最も確実なのは、堤防の強化です。老朽化した箇所を全面的に改修し、想定最大水位を引き上げる。それと並行して、河道の直線化を進める。蛇行部分を減らせば、流下能力は確実に向上します」
村田は地図の上を指でなぞり、曲がりくねった川筋をいくつか示した。
「洪水時の水位上昇を抑え、都市部への被害を最小化できます。実績のある方法です」
飯田が低く唸る。
「安全性という点では、もっと踏み込む手もある」
彼は地図の上流部を指した。
「大規模ダムだ。洪水調節専用でもいい。ここに一基造れば、下流への流量は大きく抑えられる。治水としては、これ以上ない“分かりやすい答え”だろう」
集会所の空気が、わずかに重くなる。
「確かに」
村田が頷く。
「財政と用地の問題はありますが、理屈の上では最も確実です」
その言葉を、菅野が遮った。
「でも、それって……」
彼女は一瞬、言葉を探すように視線を落とし、それから真っ直ぐ二人を見た。
「この村や、昨日見た暮らしを、根こそぎ変えてしまいませんか?」
「変える、とは?」
飯田が眉をひそめる。
「ダムができれば、上流の集落は水没するかもしれない。川の流れは変わる。魚の遡上も、漁の形も変わる。堤防を高くして、川を真っ直ぐにしたら、今のヨシ原や中州は消えるでしょう」
菅野の声は強くはなかったが、確かな重みがあった。
「安全にはなるかもしれない。でも、それは“別の場所の別の暮らし”を犠牲にして成り立つ安全です。昨日、木村さんが話してくれたこと、忘れていません」
飯田は黙り込む。村田も、反論しかけて口を閉じた。
佐切は、そのやり取りを聞きながら、地図から目を離せずにいた。青い線の向こうに、昨日見た光景が重なる。川面を覆うほどのアユ、子供たちの笑い声、土にまみれた農家の手。
(正しい答えは、どれ?)
頭の奥で、菅野の声がもう一度響く。
――アリアドネの糸。
迷宮の中で、正面突破だけが道じゃない。
高く積み上げること、力で抑え込むことだけが解決じゃない。
佐切は、そっと息を吸った。
(この議論自体が、迷宮なんだ)
官僚としての「確実さ」。
企業としての「最大効率」。
そのどちらも理解できるからこそ、簡単に否定できない。
でも、昨日の村の暮らしもまた、確かにそこにあった現実だ。
佐切の視線が、地図の低地や支流、田畑の広がる部分へと移っていく。まだ言葉にはならない、けれど何かが、心の奥で細く光っている。
(糸は……ここにあるはず)
彼女はまだ口を開かなかった。
だが、絡まった議論の中心で、一本の細い糸が、確かに手に触れ始めているのを感じていた。
そして、しばらく誰の声も聞こえなくなったように感じながら、淀川の地図を見渡していた。青い線の集合体が、ただの図面ではなく、これまで見てきた風景を次々と呼び起こす。
大阪城から見下ろした、活気に満ちた市街地。瓦屋根と洋風建築が混じり合い、人々が前を向いて歩いていた街。中之島の洗練された景観と、仕事に誇りを宿す人々の表情。
そして、ゆったりと流れる淀川。満ち満ちた水、ヨシ原を渡る風、川底を埋め尽くすほどのアユの群れと、それを狙う水鳥。高槻の村で見た田畑、土の匂い、川と共にある暮らし。
(全部、同じ川につながっている……)
有馬の穏やかな声が脳裏に蘇る。
「自然は抑え込むものではなく、付き合うものです」
秋山の堂々とした語り口も重なる。
「人の営みは、土地と切り離しては成り立たぬ」
佐切の視線が、地図のある一角で止まった。
その瞬間、胸の奥で、細い糸がはっきりと形を持った。
迷宮の中で、確かに手繰れる一本のアリアドネの糸が、そこにあった。
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