同じ言葉を話すのに私たちは違う国に生きている
@investment
始まり
第1話 日本国
2025年9月26日 金曜日
東京丸の内の空には薄くかすんだ雲が広がり、風はすでに夏の湿気を忘れかけていた。歩道の
灰色の高層ビルの合間には、伝統的な赤いレンガ造りの東京駅の駅舎が
正午になると同時に、昼休みを迎えたサラリーマン達が一斉に街へあふれ出す。ネクタイを緩めて仲間と連れ立つ者、スマートフォンを睨みながら足早に歩く者。観光に来た外国人も散見され、カメラを構えて東京駅の佇まいを撮影している。言葉の洪水、革靴の足音、香ばしいコーヒーの匂い。丸の内は、昼のわずかな時間でさえ騒がしく、どこかせわしい。
その
「また午後は会議づくしか......」
小さく吐き出したため息は、
立ち寄ったカフェで、ふと窓の外を見る。観光客らしき欧米人が、通りがかりの老人に道を尋ねている。老人は笑顔で答え、身振り手振りを交えて道案内しているようだった。その光景を見ながら、胸の奥にわずかな違和感を覚える。あれほど自然に見知らぬ人に声をかけ、助け合う姿を、自分はいつから見なくなったのだろう。
ビル群に囲まれた町は便利で、効率的で、整然としている。だが、その整然さが、逆に人と人との距離を広げているのかもしれない。隣を歩く人の顔も、名前も、声も知らないまま、ただ肩をぶつけ合って生きていく。
「自分このままで良いのだろうか......」
心の中でそうつぶやいた瞬間、通知音が再びスマートフォンを震わせた。現実は容赦なく彼女を引き戻す。画面に浮かんだのは、来週に新規プロジェクトの打ち合わせ。
佐切は小さく首を振り、コーヒーを飲みほした。彼女の知らぬところで、運命を大きく変える物語がはじまろうとしていた。
その日の夜、佐切は大学時代の友人と会う約束をしていた。
有楽町は、金曜の夜らしくどこも満席だった。赤提灯の灯りが並ぶ居酒屋からは、笑い声と煙が入り混じった匂いが溢れだしている。
「佐切、こっちこっち!」
声を掛けてきたのは大学時代の友人、亜紀だ。すでにジョッキを片手に上機嫌らしい。テーブルに急いで座り、乾杯の声が飛び交った。
「いやー、今日も上司に詰められてさ。あれ絶対パワハラだよね」
「わかるわかる。うちの部署なんか、残業は美徳ってまだ言うんだよ」
愚痴の応酬に笑いが混じり、机の上にはどんどん料理が溜まっていく。佐切もどこかで抑えていたストレスから解放されるように、久しぶりに声を上げて笑った。
やがて話題は仕事から恋愛へと移る。
「ねえ、最近どう?彼氏できた?」
「全然。アプリで何人か会ったけど、写真と違う人が来たり、全然会話しない人が来たり」
「わかるー!あと、即ホテルに誘おうとしてくるとか、平気でするでしょ?信じられない」
スマートフォンを見せ合いながら、マッチングアプリでのやり取りを
居酒屋の壁にかかったテレビからアナウンサーの声が響いていた。
「本日、
「凄いじゃん!日本の景気良くなってるんじゃない」
「確かに、自分の会社は今年も賃上げされたよ」
軽口が飛ぶ中、テレビの画面には不意にテロップが浮かび上がり、アナウンサーは慌てて原稿を読み上げる。
「緊急速報です。本日午後7時、西日本を勢力下におく大日本帝国が、静岡県周辺の国境地帯で大規模な軍事演習を開始しました。現地では砲撃音や戦車部隊の移動が確認されており、日本政府は強く抗議......」
店内のざわめきが一瞬とまった。佐切はグラスを持ち上げたまま画面を見つめる。砲弾の閃光が夜空を照らす映像が流れ、人々の間に緊張が走った。
「......やばくない?戦争とか、ないよね」
「いやー大丈夫でしょ。またいつものやつだよ」
亜紀が努めて軽い調子で言う。少し笑みすら浮かべているが、その声にはわずかに張りがあった。
「数年に一度やるじゃん、こういう派手なやつ」
「前も結局、何もなかったし」
周囲のテーブルからも同じような声がぽつぽつと漏れ、居酒屋の空気はゆっくりと緩み始めた。だが佐切は、画面に映る砲火の
やがてテレビは再び株価の話題へと戻り、明るいBGMが流れ出した。店内もすぐに元のざわめきを取り戻し、誰かが「でさ、さっきの話に戻るけど」と話題を引き戻す。再び笑い声が響き、ジョッキが打ち鳴らされ、唐揚げの皿は空になっていった。
けれど佐切だけは、笑い声に合わせて口角を上げながらも、胸の内側でざわめきが消えなかった。あの閃光と爆音が、彼女の心に焼き付いたまま離れなかった。
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注1 日本を代表する企業、225社の株価の平均。景気の指標として使用されることがある
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