同じ言葉を話すのに私たちは違う国に生きている

@investment

始まり

第1話 日本国

2025年9月26日 金曜日


 東京丸の内の空には薄くかすんだ雲が広がり、風はすでに夏の湿気を忘れかけていた。歩道の銀杏並木ぎんなんなみきは色づくにはまだ早いが、葉の端々にわずかな黄を帯び、ビルの谷間を吹き抜ける空気には秋の匂いが混じっている。


 灰色の高層ビルの合間には、伝統的な赤いレンガ造りの東京駅の駅舎がたたずんでいる。駅の正面には行幸通ぎょうこうどおりが皇居方面に向かって伸びており、現代的町並みと歴史的風景のコントラストが広がっている。


 正午になると同時に、昼休みを迎えたサラリーマン達が一斉に街へあふれ出す。ネクタイを緩めて仲間と連れ立つ者、スマートフォンを睨みながら足早に歩く者。観光に来た外国人も散見され、カメラを構えて東京駅の佇まいを撮影している。言葉の洪水、革靴の足音、香ばしいコーヒーの匂い。丸の内は、昼のわずかな時間でさえ騒がしく、どこかせわしい。


 その雑踏ざっとうの一角、石畳の通りを歩く一人の女性がいた。総合商社に勤める25歳の神谷佐切かみやさぎり。紺色のジャケットの袖口を直しながら、彼女は人波を避けるようにして歩く。手にしたスマートフォンにはひっきりなしにメールが届く。海外支店とのやり取り、上司からの確認依頼、次のプロジェクトの会議資料。


「また午後は会議づくしか......」


 小さく吐き出したため息は、喧噪けんそうに飲み込まれて誰にも届かない。社会人になり、数えきれない人間と関わっているのに、佐切はどこか孤立していた。学生時代の友人とは疎遠そえんになり、実家にも数か月は帰っていない。毎日のように誰かと英語で電話をし、契約書に目を通しているのに、心の奥底には妙な空洞が残っていた。


 立ち寄ったカフェで、ふと窓の外を見る。観光客らしき欧米人が、通りがかりの老人に道を尋ねている。老人は笑顔で答え、身振り手振りを交えて道案内しているようだった。その光景を見ながら、胸の奥にわずかな違和感を覚える。あれほど自然に見知らぬ人に声をかけ、助け合う姿を、自分はいつから見なくなったのだろう。


 ビル群に囲まれた町は便利で、効率的で、整然としている。だが、その整然さが、逆に人と人との距離を広げているのかもしれない。隣を歩く人の顔も、名前も、声も知らないまま、ただ肩をぶつけ合って生きていく。


「自分このままで良いのだろうか......」


 心の中でそうつぶやいた瞬間、通知音が再びスマートフォンを震わせた。現実は容赦なく彼女を引き戻す。画面に浮かんだのは、来週に新規プロジェクトの打ち合わせ。

佐切は小さく首を振り、コーヒーを飲みほした。彼女の知らぬところで、運命を大きく変える物語がはじまろうとしていた。



 その日の夜、佐切は大学時代の友人と会う約束をしていた。


 有楽町は、金曜の夜らしくどこも満席だった。赤提灯の灯りが並ぶ居酒屋からは、笑い声と煙が入り混じった匂いが溢れだしている。


「佐切、こっちこっち!」


 声を掛けてきたのは大学時代の友人、亜紀だ。すでにジョッキを片手に上機嫌らしい。テーブルに急いで座り、乾杯の声が飛び交った。


「いやー、今日も上司に詰められてさ。あれ絶対パワハラだよね」

「わかるわかる。うちの部署なんか、残業は美徳ってまだ言うんだよ」


 愚痴の応酬に笑いが混じり、机の上にはどんどん料理が溜まっていく。佐切もどこかで抑えていたストレスから解放されるように、久しぶりに声を上げて笑った。


やがて話題は仕事から恋愛へと移る。


「ねえ、最近どう?彼氏できた?」


「全然。アプリで何人か会ったけど、写真と違う人が来たり、全然会話しない人が来たり」


「わかるー!あと、即ホテルに誘おうとしてくるとか、平気でするでしょ?信じられない」


 スマートフォンを見せ合いながら、マッチングアプリでのやり取りを愚痴ぐちる話題で、テーブルはさらに盛り上がる。二人は腹の底から笑いあい、グラスは空になって、店内のざわめきと混じり合って、都会的な金曜の夜が過ぎていく。


 居酒屋の壁にかかったテレビからアナウンサーの声が響いていた。


「本日、日経注1平均株価が最高値を更新しました。4万5千円を大きく超え......」


「凄いじゃん!日本の景気良くなってるんじゃない」

「確かに、自分の会社は今年も賃上げされたよ」


 軽口が飛ぶ中、テレビの画面には不意にテロップが浮かび上がり、アナウンサーは慌てて原稿を読み上げる。


「緊急速報です。本日午後7時、西日本を勢力下におく大日本帝国が、静岡県周辺の国境地帯で大規模な軍事演習を開始しました。現地では砲撃音や戦車部隊の移動が確認されており、日本政府は強く抗議......」


 店内のざわめきが一瞬とまった。佐切はグラスを持ち上げたまま画面を見つめる。砲弾の閃光が夜空を照らす映像が流れ、人々の間に緊張が走った。


「......やばくない?戦争とか、ないよね」


「いやー大丈夫でしょ。またいつものやつだよ」


 亜紀が努めて軽い調子で言う。少し笑みすら浮かべているが、その声にはわずかに張りがあった。


「数年に一度やるじゃん、こういう派手なやつ」


「前も結局、何もなかったし」


 周囲のテーブルからも同じような声がぽつぽつと漏れ、居酒屋の空気はゆっくりと緩み始めた。だが佐切は、画面に映る砲火の残像ざんぞうを忘れられなかった。心の奥に、得体の知れない違和感がじんわりと沈んでいく。


 やがてテレビは再び株価の話題へと戻り、明るいBGMが流れ出した。店内もすぐに元のざわめきを取り戻し、誰かが「でさ、さっきの話に戻るけど」と話題を引き戻す。再び笑い声が響き、ジョッキが打ち鳴らされ、唐揚げの皿は空になっていった。


 けれど佐切だけは、笑い声に合わせて口角を上げながらも、胸の内側でざわめきが消えなかった。あの閃光と爆音が、彼女の心に焼き付いたまま離れなかった。



------------------------------------------------------------------------------------------------

注1 日本を代表する企業、225社の株価の平均。景気の指標として使用されることがある

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る