短編集
おとや
1 コーヒーに滲む
ある昼下がりの喫茶店で、私は小さなノートを引っ張り出して考え事をしていました。
頭の中に散らばるアイデアをまとめる事が出来たら、何か凄い事が起こるのではないか、そんな突拍子もない事を思い立ったのです。
びっくりするような奇跡が落ちてくるのを期待して、私はペンを片手にその瞬間が来るのを待っていました。私は今まで頭の中の考えをまとめるという事をした事がありません。日記ですら、本当の自分を見つめるのが恐ろしく、嘘で着飾ってしまうのです。それを他人に読ませるつもりもありませんが、私自身ですら恥ずかしくて直視する事が出来ませんでした。私は私自身の作品を認める事が出来ずにいたのです。そんな調子ですから、頭の中に浮かんだもしかすると素晴らしいアイデアだったかもしれない考えは羞恥心によって掻き消されていきました。何度も浮かんでは霧のように消えていったのです。白紙のままのノートを前に時間だけが過ぎていきました。目の前に置かれたアイスコーヒーは氷が溶け、背の高いグラスに付着した水滴が流れ落ちていきます。
あぁ、私はこんなにも凡庸だったのかと絶望しました。どうして、何かを成せるなどと思い上がってしまったのでしょう。私に奇跡など降り注ぐはずもなかったのです。そもそも奇跡とは努力したものにだけやって来る幸運の事なのです。何も積み重ねていない私の所にやって来るはずもありません。私が夢見た奇跡は一通りの努力を積み重ねた誰かの元に、すでに舞い降りてしまったのでしょう。明日にはその方が大賞を取って書籍化するに違いありません。私は何という勘違いをしていたのでしょう。その考えは私の羞恥心にさらなる拍車をかけました。誤魔化すように口に含んだアイスコーヒーがいつもより苦く感じました。奇跡を信じた私にもたらされたのは、私が凡庸で努力もせずに幸運を待っている恥ずかしい人間だと言う事実でした。私はのたうち回りました。どうして今まで平気な顔をして生きてこれたのかと思いました。そうして、私の考えは頭の中の同じ場所をぐるぐると回りました。何の学びも得られぬまま、時間だけが過ぎていきました。
どれくらい時間画経ったでしょうか。いつの間にやって来たのか、目の前には
篠本は爽やかな笑顔で話し始めました。
「この間、最終選考に残っていた作品が大賞を取ったんだ」
それは、大賞を取れば書籍化され、作家としてのデビューが確約されるものでした。私はこのぐらぐらと揺れ動く感情を言葉に出来ずにいました。悔しいのだろうかと自問自答しましたが、私の中にあったのは彼への心からの祝福、それだけでした。
私が夢見た幸運は友人の元に降り注ぎました。それは、奇跡でもなんでもなく妥当な結果だとなぜかそう思えたのです。
私と篠本が出会ったのは大学時代でした。同じ学部ではありましたが、部活などには入っておりませんでした。小説を書くのはお互いに趣味の域を出なかったのです。私たちはすぐに意気投合し、お互いの作品を見せ合いました。感情のままに書き殴ったような彼の拙い小説を、私は眩しいと感じていました。私には彼のようには出来なかったのです。そのように私自身を晒す事、言い方を変えれば私自身を物語に込める事に常に恐ろしさを感じていたのです。彼の真っ直ぐな言葉は私の心を抉りました。揺さぶって魅了してやまなかったのです。それを私は伝えようともしませんでした。ただ黙々と渡されるままに原稿を読みました。言葉拙くとも、彼が見た鮮やかな世界に魅了されている事実に悔しささえ感じていたのです。
私は私自身を隠そうとしました。しかし、そのようにすればするほど、私は言葉を失いました。小説が書けなくなっていったのです。私はいつの間にか読むばかりになりました。一向に小説を書かない私の所に、篠本は何を気にする事もなく次々と小説を持って来ては読んで欲しいと言いました。私の作家生命は彼が持って来る小説によってやっとの所で繋がっていたのです。
からりと溶けた氷がグラスの中で回って音を立て、私は現実に引き戻されました。
私の羞恥心はいつの間にかグラスの中の氷のように溶けていきました。私は恥ずかしい人間です。けれど、友人を心から祝福出来た私は、今まで何の功績も残せなかった作家人生に置いて唯一誇れる私だったかもしれないと思いました。
私はきっと明日も明後日も、拙くて見るに堪えない作品を書くでしょう。きっと、きっと書き続けるでしょう。人知れず破り捨てて泣くかもしれません。やっぱり繋ぎ合わせて、また破り捨てるかもしれません。でも、そんな私なら、少しくらい夢見てもいいのではないでしょうか。
友人の笑顔に応えるように、私は苦いアイスコーヒーを一気に飲み干しました。
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