第2話 虹が第三の水路を照らす

冷房のきいた市長室で、汗は首すじだけに滲んでいた。長坂市長——いや、公式には山城敬一——は、窓の外を見たまま、コーヒーカップを傾けている。カップの底に、淹れ直しを忘れたインスタントの塊が溜まっている。


「石黒さん、君はどう考える」


 市長の声は、いつになく掠れていた。


 私は、手持ちのファイルを開いた。表紙は「住民投票結果概要(仮称・多目的屋内施設)」——文字どおり、昨日の75・3%賛成を受けて、一夜で作った緊急資料だ。


「知事審査申立ての期限は、本日中。議会は再可決を突きつけてきた。法的には、我々の負けです。が——」


 私は、一枚の写真を差し出した。昨日の夕方、駅前で撮ったスマホの画像。浴衣の少女と、杖をついた老婆。二人の間に垂れ下がったのぼり旗——「未来を豊橋へ」。


「法的負けでも、世論は75・3%で勝っています。川の水が堤防を越えたら、もう逆流はできない」


 市長は、やっと振り返った。目尻に、孫と遊んだ時の皺が残っている。


「だったら、どうする? 知事に訴えて、議会の再可決を覆すか? それとも——」


「『第三の水路』を開きましょう」


 私は、ペンで資料の余白に、小さな川を描いた。三股に分かれ、また合流する。


 ① 知事審査——法的勝訴の可能性は三割。勝てば議会は黙るが、市の世論は二分。


 ② 条例改正再挑戦——議会で三分の二を取るのは、ほぼ不可能。


 ③ 民間基金——議会の議決を経ない「寄付」なら、地方自治法105条の2で認められる。


 市長は、眉を上げた。


「③は、議会が『府省の解釈』と言って潰すぞ」


「潰せません。寄付は『議会の議決なし』で受け入れできる。ただし、使途は『目的限定』。つまり、施設建設には直接使えない。でも——」


 私は、赤ペンで「地域活性化プログラム」と書いた。


「施設の外側、つまり『まちづくり』なら、民間のお金で動かせる。議会は『建物』にこだかる。だったら、建物を囲む『人の流れ』を先に作ればいい」


 市長は、カップを置いた。底のインスタントが、短く音を立てた。


「石黒さん、君は法務課長時代、『条文の裏を読む男』だったな」


「表を読んでも、裏を読んでも、最後は『人』が決めるんです」


 午後零時三十分。議会事務局の会議室は、冷房よりも重い空気に包まれていた。宮本剛事務局長は、私が持ち込んだ「民間資金受入れ要綱(案)」を、まるで毒でも見るように眺めている。


「石黒副市長、これは明らかに『迂回条例』です。施設建設のための基金を、寄付の形でつくろうという魂胆でしょう」


「違います。寄付金の使途は、①空き家改修②移住促進③子育て支援。施設本体の工事費には、一文も入れません」


「でも、最終的にその『まちづくり』が施設の利用促進に直結する。因果関係を否定できますか?」


 私は、窓の外を見た。突然、夕立が来た。ガラスに打ちつける雨粒が、まるで議会を叩く世論のように見えた。


「宮本さん、因果関係を追及するなら、議会の再可決だって『住民投票の結果を無視した因果』じゃありませんか」


 宮本は、口を閉ざした。一瞬、冷房の音だけが、部屋を満たした。


「石黒さん、あなたは法の解釈を曲げて、市民の感情に迎合している」


「違う。法の解釈を『広げている』んです。川をせき止めるのが法じゃない。川を安全に流すのが、法の役割だ」


 会議は、決裂した。だが、私の手の中には、雨に滲んだ「要綱案」が残った。シワの一枚一枚に、まちの声が染み込んでいる。


 午後三時。雨上がりの豊橋駅前は、アスファルトが湯気を立てていた。傘をさした自治会長・本田義郎が、私を見つけて手を振った。


「副市長、こんな時間に駅前とは、また珍しい」


「ちょっとした息抜きです。本田さんの方こそ、買い物?」


「いや、投票所の張り紙を剥がしてきたよ」


 本田は、ビニール袋の中に、折りたたまれたポスターを見せた。「未来を豊橋へ」——今朝まで、駅前に掲示されていたものだ。


「賛成75%……素晴らしい結果でした」


「素晴らしい?」本田は、苦笑いした。「私は反対派でした。でも、剥がしながら、考えちゃいましたよ。75%もいたら、もう『向こう側』なんじゃないかって」


「向こう側?」


「つまり、私たちの世代が『要らない』と思っても、次の世代が『必要』って思う。民主主義って、時々、年寄りを置いていくんでしょう」


 私は、足元の水溜りを見た。空が映っている。晴れ渡った空が、地面に落ちていた。


「本田さん、年寄りを置いていくんじゃない。年寄りが橋を渡ってやるんです。次の岸まで」


 本田は、傘を閉じた。湯気が、ゆっくりと上っていく。


「だったら、橋は必要だな。川の上に、でも、川を塞がないように」


 午後六時。市役所屋上庭園——ここは、職員の憩いの場だ。観葉植物と、ベンチ。そして、西側に広がる豊橋の街並み。夕焼けが、空き家の屋根を照らしている。


 高梨勇議会課長は、ネクタイを緩めて、缶コーヒーを差し出した。


「副市長、非公式ってことは、『法の外』ってことですよね」


「法の外で、本音を聞かせてもらおうかな」


 私たちは、ベンチに並んで座った。


「実は、議会の中にも『基金案』に賛成する議員が三割はいる。ただし、表に出せない」


「なぜ?」


「議会としての『面子』です。市長が住民投票で勝ったからって、議会が『負け』を認めるわけにはいかない。でも——」


 高梨は、缶を傾けた。


「議員も、町を見ている。空き家が増え、商店街がシャッターを閉める。若者が逃げる。数字では『反対』でも、胸の内は『どうにかしたい』だ」


「だったら、『第三の水路』を一緒に掘らないか」


 私は、屋上から指した。駅前、そして豊川。夕日が、川を赤く染める。


「議会は、施設本体の建設を止めた。でも、まちづくりを止めたわけじゃない。民間基金で、空き家を改修し、移住者を迎え、子育てを支援する。議会は『建物』にこだわる。だったら、建物を囲む『人』を先に育てればいい」


 高梨は、缶を潰した。乾いた音が、屋上に響く。


「副市長、それは典型的な『回りくどい政治家』だ」


「嫌か?」


「嫌いじゃない。ただ、時間がかかる」


「時間は、川がくれる」


 私たちは、握手を交わした。表では、決して味方しないふりをして、裏では、同じ川を掘る。


 夜、九時。自宅の縁側——蚊取り線香の煙が、橘色の明かりに浮かんでいる。冷やし茶は、氷が溶けて、薄くなった。だけど、喉を潤すには十分だ。


 孫の彩花が描いた絵日記が、テーブルに開かれている。


 ――今日は、おじいちゃんの市役所に行った。屋上で虹を見た。虹は、空と地面をつなぐ橋。おじいちゃんは、虹の下を歩いていた――


 私は、ペンで余白に、小さな文字を書いた。


 ――市政の真の力は、議論ではなく、共に歩くこと。


   虹は、雨の後に、空も地面も、同じ色に染める――


 スマートフォンが震えた。市長からだった。


「石黒さん、知事審査、見送ることにした」


「同感です」


「君の『第三の水路』、掘り始めてくれ」


「了解。ただし、スコップは市民に持ってもらいます」


 電話を切ると、風が吹いた。蚊取り線香の煙が、虹のように弧を描いた。


 私は、冷やし茶を一口。氷が、カランと音を立てた。


 それは、堤防を越えた川の、最初の一滴だった。

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