そこにいるはずのシロ
kei
第1話 シロ
楢山さつきは、進学を機にひとり暮らしをすることになった。物騒な世相なので、オートロックの物件を選んだ。まあ、背に腹は代えられない。安全を優先するしかなかった。
物件はペット不可で残念だったが、学生のうちはそもそも財力が無いので飼えない。日々のご飯やトイレなどの消耗品、何かあったときの医療費、泊まりがけでの活動のときのペットホテル、その他雑費。生き物との暮らしは費用負担と責任が切り離せない。
今の季節の服やハンガーなど、すぐに使うものの荷をほどいて、まだきれいな床に座って休憩する。床に座ると思い出すのはユキのことだ。
ユキは実家にいるチワワだ。受験勉強のときに、ずっと足元で眠ったり、気分転換に頭を撫でさせてくれたり。スマホで写真を眺める。思い出すと、急にさみしい。家から持ってきた、もふもふの白いブランケットに顔をうずめる。
それは、ただの思いつきだった。
大きなもふもふの生き物と、暮らしている想像をしながら暮らしてみるのはどうだろう。
想像なら、食費や医療費もかからず、トイレのしつけなどの心配もない。騒音などに苦情も来ない。考えれば考えるほど、これしかない気がしてくる。
絹のような光沢の、波打つ白い毛皮。大きな黒い目を縁取る、長いまつげ。精悍な顔立ち。少し垂れた長い耳。ふさふさとした尻尾。抱きつくと温かい感じ。イメージできてきた。
「名前はシロかなあ。」
ネーミングセンスは昔から皆無である。文鳥ならブンちゃんとつけるタイプだ。
ベッドに横になる。
「シロ、おいで。」
目を閉じて、シロがこちらに歩いてくる様子をイメージする。前脚をベッドに掛けて、ヒョイッと乗る。
ぎしり、と音がした気がした。
寄り添って眠ってくれる大きな生きものを想像すると、ひとりのさみしさが少しだけ遠くなった気がした。
翌日、買い出しに行く準備をしていると、左のほうに気配を感じた。実家のユキが、人が出かけようとするたびに、散歩を期待して寄ってきたときのような浮き立つ感じだった。目を向けても何も無い。
まだ築年数が浅い物件なので、怨霊ということもないだろう。
少し考えて、昨日想像したシロかもしれない、と思った。
「シロ、ごめんね。お利口に待ってて。」
見えない耳と尻尾がへなへなと垂れた気がした。
すぐ帰ってくるからね、と、たぶんこのあたりだろう、と思われる位置を撫でる。温かかった、気がした。
それからというもの、シロを意図的に想像しなくても、シロの気配が日増しに強くなっていくばかりだった。疲れていれば寄り添い、悲しめば頬を舐めてくれた。
癒やしってこのこと、とほくほくして過ごしていたら、2か月経つ頃には、家の中だけでなく外においてもシロがそこにいる気がするようになってしまった。
はじめはそれでも良かった。たまに指先にふかふかの毛皮を感じるだけで、そこまでの疲れが飛ぶような気がしたものだった。
腹の立つことがあれば、かわりに唸ってくれもした。絶対的な味方がいるということはいいものだ。
今朝だって。駅前で恰幅のよい、あまりいい顔立ちとはいえない汗臭いおじさんにわざとぶつかられたうえに悪態をつかれた。苦情を言おうとしたら逃げられた。シロは唸ってくれた。
すぐ唸ってくれたおかげで、怒りそびれたという後悔などはなかった。
昼、学食で格安のとろろ丼を食べていると、同期の迫本さくらが声をかけてきた。
さくらはサンドイッチだ。長い黒髪の、低めのポニーテールが似合う。
「さつき、聞いた?」
「何を?」
「駅で人身事故だって。」
「電車止まってる?」
「うん。なんかね、パーツが足りないんだって。」
「パーツ?」
「身体の、パーツ。」
「食事時はやめとこうか?」
さくらは、ごめんごめんと言いながらサンドイッチをたいらげた。
午後の講義が終わったあとも、電車はまだ止まっていた。
家に帰ってスマホのニュースを見ると、そのニュースが目に入った。
被害者は、さつきにわざとぶつかってきた男だった。
怖いね、シロ、と呟くと、温かさがすり寄ってきた。
それから暫くすると、今度は、この街に熊が現れたという噂が流れた。
また、情報源はさくらである。ネットニュースよりも速い。どう集めているのか気になるところだ。
「それがさ、熊を直接見たひとは居ないんだって。」
「それでどうして熊って話になるの?」
さくらは人差し指を立てる。
「熊しか説明つかない大きさの噛み跡がついた野菜や、深めの爪痕が残ってるんだって。」
「熊でも犬でも怖いね。」
さくらはため息をつく。
「休講には、ならないのよねえ。」
「私は、補講が増えるより良いかな。」
「それはそうなんだけどね。」
さくらは水の入ったコップを一気にあおった。
「じゃあ午後の実習いこうか。」
立ち上がったさくらに続こうとすると、シロが怯えているような気がした。
撫でるようなジェスチャーをすると、頭をこすりつけてきたように感じた。
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