真面目で損する不器用な彼と恋がしたい!
小池 月
第1話 Ⅰ 苦手意識①
――イライラする。いつもヘラヘラしやがって。
遠くから声が聞こえてくるだけで、
低く朗らかな声を意識して、瀬戸の眉間に皺が寄る。
(ヤなヤツ)
小さくため息をつき、ドロリとした気持ちに蓋をした。
瀬戸は高齢者向け介護施設『グッドライフ』で生活相談員として働いている。
瀬戸の仕事内容は、介護福祉士の国家資格を生かし、通所利用者の生活全般をサポートすることだ。
通所利用のディサービスでは、利用者の認知症予防をし、運動リハビリで筋力低下予防を行う。出来るだけ長く、その人らしく自宅生活ができるように支援している。
グッドライフでは、運動リハビリに力を入れている。運動指導員として柔道整復師を採用することで、施設の特化性を出している。
その柔道整復師は施設に二名いる。女性既婚者の
「おーい、ジーちゃん。そっちじゃないよ。こっち、こっち」
穏やかな低い声が瀬戸の耳に届く。瀬戸の心をザワつかせる堀田の声だ。
「おぉ、そうか。どこだったかなぁ。こっちか?」
「そうだよ。こっち。荷物持とうか?」
「ええよ。これくらい持てるわい」
堀田が利用者をサポートしながら廊下を通り過ぎる。まるで孫と祖父の様な微笑ましい光景だが、瀬戸は冷めた目でそれを見つめた。
(何がジーちゃんだ。利用者であるお客さまだろうが。ちゃんと敬語を使え! 認知症があっても高齢者は敬うべき存在だろうが)
こいつは何を学んできたんだよ、と心に怒りが渦巻く。
「あ、瀬戸さん。はよーございます。
はい、と堀田から手帳を渡される。ため息をついて瀬戸より十五センチ以上は背の高い堀田を見上げた。
(お前は、僕の一歳年下だ! 僕の方が入社だって一年早いんだよ。スタッフ間でも敬語は使ってくれよ)
心の中で毒を吐いた。不快感を飲み込むように深呼吸をし、堀田の顔から目線を外した。
「わかりました。ありがとうございます」
瀬戸は出来るだけ冷静に返答した。すると大げさなため息が聞こえてくる。
「今日もご機嫌ナナメ~~」
去り際の堀田の一言にカッと頬が熱を持つ。人を小馬鹿にする態度に怒りが増幅する。
顔を上げて睨みつけると、目の前を通る高齢女性と目が合った。堀田はすでに居なかった。女性が見る間に驚いた顔になる。
お客様である利用者を睨んでしまい、瀬戸は慌てて頭を下げた。
「あ、申し訳ありません! 驚かせてしまいました」
「ちょっと、何? どうしたのかしら」
女性が怪訝な様子でこちらを見た。瀬戸は自分の行動を反省し、意識を仕事モードに切り替えた。
「僕の事情で不快な思いをさせてしまい、すみません。フロアまで荷物をお持ちします」
にっこり笑いかけて謝罪をすると、女性は穏やかに微笑んだ。
「朝からイラつかないのよ。心穏やかに、よ」
「はい。心がけます」
そのまま一緒にディサービスルームまで歩いた。高齢女性が「今日は調子が悪いの?」と心配の声を出す。その優しさに癒される。
ディサービスの室内には堀田がいるから、荷物を返して直ぐに立ち去ろうとした、が。
「あれ、瀬戸さん。特別扱い? 良くないなぁ」
にやけた顔で堀田が近づいてきた。瀬戸は気持ちを落ち着かせるために深呼吸をした。
『お前のせいだ』と言ってやりたいが、言葉と感情を飲みこむ。堀田の行動に煽られてはいけない。堀田を見ないようにして、感情を込めずに瀬戸は答えた。
「違います。失礼な事をしてしまったので、お詫びです」
「へぇ。羨ましい。俺も瀬戸さんに優しくされたいなぁ」
その言葉に、本当にムカつく奴だと思った。
(お前が居なければ、もっと皆に優しくできるよ!)
そんな思いを胸に秘め、頬が引きつる様な笑いを返して事務室に戻った。
自分のデスクに座ってすぐに、不要な紙を握りつぶした。到底それだけでは収まらない怒りで、眉間の皺が深くなるのを感じた。堀田に会うと自分のペースが乱される。
瀬戸は苛つきながら仕事に取り掛かった。
ディサービス利用者には担当の地域ケアマネージャーがいる。ケアマネージャーが介護プランを作成し、介護サービスの一つとしてグッドライフを利用してもらっている。
グッドライフからは地域ケアマネージャーに利用実績報告を提出している。
施設紹介をしてくれるケアマネージャーに嫌われないように気を遣うのは大切な相談員の仕事だ。
報告書を「変わりなし」の一言で終わりにせず、利用者状況を添えると好感度が上がる。
また、次回の定例会議までにサービス拡充の企画案も提出しなくてはいけない。やるべきことが山積みだ。瀬戸は気合を入れて書類に没頭した。
「お~い、瀬戸さん。熱中しているとこ悪いけど、木川さんの血圧薬って変更入力した? 派遣の看護師さんが、入浴前血圧が低めだって気にしているよ」
堀田に声をかけられて、はっとする。すっかり忘れていた。冷汗が出る。
「すみません! すぐに看護師さんに伝えにいきます!」
「いいよ。多分、降圧剤が増量したからだって伝えた。入力さえしてくれれば薬の効果だって分かるから。低血圧になっているほどじゃないし。いつもと違うから気にしてくれたんだよ。虚血発作起こしたら怖いしね」
「……すぐに入力します」
「うん。じゃ、よろしくっス」
ヒラヒラ手を振って堀田が事務室を去っていく。堀田には仕事のミスを指摘されたくなかった。瀬戸は悔しくて唇を噛みしめた。
「さっすが堀田君よね。目が広くて対応も柔軟で、イケメンマッチョでしょ。おばちゃんでも惚れるわ」
同じ相談支援員である五十代既婚者の八木が呟いた。その羨望の眼差しに「そうですね」と心のこもっていない返答をして瀬戸はパソコンに向かった。
瀬戸は堀田が大嫌いだけれど、堀田の職場の評価は高い。敬語も使えないくせに上司には気に入られて、利用者にも信頼されている。そういうところにも、瀬戸は不満を抱いている。
堀田に苦手意識をもった瞬間を瀬戸は今でもはっきり覚えている。あれは今から四年前だ。
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