第18話 これでいいんだよね
雪が静かすぎて、時間だけが風のように流れていく。
スマホの光に照らされたノートが、まだ机の上に開きっぱなしになっている。
線だらけの地図、色褪せた文字。
できることは、もう全部やった。
それでも、眠れなかった。
夕方から何度も画面を更新して、送信の確認をした。
バス会社への匿名投稿――路線と時刻、交差点の天候。「危ない」とか「止めてほしい」とか、そういう言葉を足す勇気は、どうしても出なかった。
言葉を選びすぎて、結局「気象状況の確認をお願いします」とだけ書いて、匿名フォームに送信ボタンを押した。送信できたのは夜十時を過ぎてからだった。
「これでは間に合わないかもしれない」と思いながら、指先に力が入らなかった。
送信記録を閉じる直前、通知が一つ増えていた。
簡素なメッセージと一緒に、動画のサムネイルが送られてくる。
開くと、夜の坂の下交差点。はっきり分かるほどの吹雪ではないけれど、雪筋が斜めに流れていて、信号の光を一瞬ごとに覆い隠している。
投稿時刻は午前〇時二十八分。
わたしと別れたあとも、彼はあの場所にいた。
激しく胸がざわついた。
わたしの言葉を信じてくれたとはいえ、こんな時間に外を出歩いていたら、危ないのに。動揺を隠せない指先を動かして、投稿先のSNSを開く。
〈0:00 坂ノ下交差 吹雪で視界不良 #札幌市 #道路 #天候〉
載っているのは写真。
さらに投稿にはすぐ下にリプライが二つほどついていた。
「ここ、昼間も風強いよね」「明日はやばそう」。
非公式の運行情報アカウントが、ほんの数分でそれを拾って反応した。
「#坂ノ下交差 の映像ありがとうございます。明朝の運行に影響あるかもしれません」、自動メッセージとは少し違う定型文。
それだけのやりとり。でも、胸の奥で何かがわずかに動いた。
彼の投稿が誰かの目に留まった。
断片的なリプライが雪のように積もっていくのを、わたしはじっと見ていた。
送信画面を閉じると、部屋の静けさが戻る。風の音が壁の内側まで届いてくる。
時計を見上げても、針の動きはほとんど感じられない。
真夜とは、教室で別れたきりになってしまった。
伝えた言葉がどう受け取られたのかも分からないまま、わたしにはもう何もできない。
毛布を肩まで引き寄せても、眠気は降りてこない。
何をしても胸の熱が消えなかった。
「どうか、止まって」と祈るように呟く。
お母さんなら、どうしただろう。
真夜に信じてもらえなかった。
もう一度話せたとしても、あの目の怯えを見るのは耐えられない。
でも、放っておけば、きっとまた――。
答えのない問いばかりを抱えているうちに、外が少しずつ青白くなっていった。
窓の縁に気配を感じて顔を上げると、雪が淡く光っている。
電気を落としても、光の粒が消えなかった。
スマホが一度だけ震えた。
その音が、空気に吸い込まれて消える。画面を見ると、心臓だけが跳ね上がった。
タップする指が冷たい。画面には真夜の名前が光っていた。
『今日は学校休むから、ちゃんと説明してね』
文章はそれだけ。
昨日、廊下で伝えた言葉への返事。
時間を戻しはじめてから止まっていた会話の下に、急に現れた続きを見る。
目の奥が熱くなる。
張りつめていた何かがほどけて、涙が勝手に出てきそうだった。
震える指でスマホを握りしめていると、ほかの通知アイコンがもう一つ光った。
陽岳さんからの短いメッセージ。
メッセージには、「見て」とだけ書かれて、リンクが添付されている。
タップすると、バス会社の公式運行情報ページが開いた。
電子掲示の写真が一枚。
〈大雪のため 一部路線運行見合わせ〉
〈社内規程に基づく臨時運休〉の文字。
その一文を読んだ瞬間、胸の奥の力がすっと抜けた。
窓の外の風の音が急に大きくなる。
スマホを置くと、握っていた手のひらに汗が滲んでいた。
たった数行の文字が、こんなにも重く感じたことはなかった。
スマホの動画サイトを開く。地元のニュースが今日の出来事を伝えている。
『本日、雪の影響により――』
内容を聞くより先に、胸の奥で風が吹き抜けた気がした。
スマホの画面には〈運行見合わせ〉の文字がまだ光っている。
再読み込みしても消えない。
何度目かの確認のあと、ようやく手が落ちた。
バスは止まった。
それだけで、胸の奥で張りつめていた糸がぱちんと切れる。
手のひらを見つめる。震えているのかどうかもわからない。
たぶん、真夜のお母さんとお父さんも、止まってくれる。
何が決定的だったのかは分からない。匿名の投稿か、陽岳さんの映像か、誰かが見てくれた声か。
それとも、ただの偶然かもしれない。
――でも、止まった。
止まってくれた。それがすべてだった。
それでも心が落ち着かなかった。
止まったとしても、それで別な事故が起こって、巻き込まれる人がいるかもしれない。事故が起こらないという証拠を、目で確かめなければならない
スマホの時計を見ると、針が六時十五分を指している。
ストーブを落とし、マフラーを巻き直し、コートの襟を立てた。
靴音が廊下に響く。
珍しく早起きしたわたしを見た父が、寝ぼけまなこで「もう出るのか」と一言、驚いた声を漏らした。
「うん、ちょっとだけ」
それだけ答えて、玄関の雪明かりの中に出た。
風が目尻を冷やしていく。
歩道を踏むたび、雪の層が細かく鳴った。
止まるはずのバスが来ない停留所を通りすぎ、坂ノ下交差点を目指す。
道の端に積まれた雪は、夜のあいだに凍って、透けるような青になっていた。
七時ちょうど。交差点は薄靄に包まれていた。
街灯がまだ点いていて、信号の光がぼんやりと白の中で滲んでいる。
雪は思っていたよりも強い。顔を上げると無数の粒が視界を横切っていった。
車の数は少なく、トラックは一台も通らない。今日はまるで誰もいない別の場所のように静まり返っている。吹雪の荒い風音だけが、広い道路を吹き抜けていた。
「……これで、いいんだよね」
風の中。白いマフラーの中で、小さく声にしてみた。
真夜の家でも、きっともうニュースを見ている。
お母さんがリビングのテレビを見て、お父さんが「今日はやめておこうか」と言う。そのやりとりを想像するだけで、気持ちがわずかに落ち着いた。
少なくとも、もう真夜に辛い想いをさせることはないって……安心できたから。
七時半。まだ何も起きない。
雪の粒の流れ方が、ゆっくりから時々速くに変わって、また静まる。
ほんの一瞬、視界が真っ白になった。
けれど、何も現れない。
衝突音はなかった。ブレーキ音も、タイヤの唸りも、聞こえない。
曇ったゴーグルのような視界の向こうで、人の脚跡が二つ、緩やかに並んでいる。
自分のものと、通りすぎた誰かのもの。
一つの線になって、その先が雪に埋まって消えていく。
わたしは、ずっとそこに立っていた。
八時。
凍えるような吹雪の中で、庇うようにスマホを取り出す。張り付いた雪が溶けて、側面が凍った画面。手袋を外してスワイプして、ニュースアプリを開く。
最新の記事の見出しが並んでいるけれど、「交通事故」の文字はどこにもなかった。
“道路凍結”“通勤影響”――そういう文字ばかり。
瞬きを繰り返しても何も変わらない。
ページを更新しても、差し替えられた見出しは雪かきの写真。
事故は、起きなかった。
ようやくその意味を、現実として理解する。
風が頬を荒っぽく撫でた。一瞬、視界はひらけ、空の奥が薄く青く見えた。
雪の結晶が息に溶ける音がした。
その瞬間、胸のどこかで、はじけるように何かが砕けた。
力が抜けて、膝がわずかに沈む。
膝の裏から指先まで、すべてがゆるくほどけていく。
長いあいだ絡みついていた糸が、ゆっくりと体から離れていく。
「……あっ、あぁ……」
声のつもりだった。けれど出たのは、掠れた呼吸の音だった。
マフラーの内側が急に濡れていく。
相変わらず視界は白くて、どこまでが空で、どこまでが雪なのか分からない。
よかった――たぶん、それが最初の感情だった。
けれど次に浮かんだのは、嬉しいと思うような感情ではなかった。
何度も泣かせた真夜の顔、
何度戻っても救えなかった母の言葉、
そして、この手から零れ落ちた時計の冷たさ。
その全部が一度に押し寄せた。
嗚咽が声にならないまま、空気の中にただ溶けていく。
誰にも見られない建物の影で、声にならないまま泣いた。
真夜の両親も、トラックも、バスも、誰も死ななかった。
世界が変わったという事実が、震えるほど、まぶしかった。
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