第16話 半歩だけ前へ
放課後の図書室は、冬の光がすでに傾いて、窓際の机を白く照らしていた。
閉館前の時間。暖房の音だけが響いている。
扉を引くと、背の高い影が一つ、すでに奥の席にあった。陽岳さんだった。手元の本を閉じて、静かにこちらを見上げる。
他には誰もいない。司書も、常連の生徒もきょうは帰りが早い。
がらんとした空間が、余計に息苦しいほど静かだった。
「……遅くなって、ごめんなさい」
「いや。ちょうど来たところ」
その声が、机の向こう側で小さく響く。
席に座ると、木の表面の冷たさがじわりと掌へ染みた。
ここは、ほんとうは、真夜と並んでいた場所。
たったそれだけの記憶が、今は痛みに近い。
沈黙の中、背中に刺さるような視線の記憶がよみがえった。
廊下で、教室で。通りすがりに向けられる“なにか”。
理由を知らない顔たちの中で、わたしだけが責められているみたいで。
でも、それも仕方のないことだと思っていた。
わたしがしたことだから。巻き込んだのはわたしだから。
「友達と仲直り、できたのか?」
窓の外に視線を逃がした。粉雪がまだ落ちている。
「……まだ、何もできていません」
口の中で言葉を転がすように、ようやく出た声。
わたしは、すべきことを果たせていない。
「真夜とも、挨拶以外はできていません。もう、怖がられてるのが分かるから」
「怖がられてるって分かってるのに、行くつもりなんだな」
「はい。だって、それでもやらなきゃって……思うから」
陽岳さんは、消してしまった時間のことを覚えていた。
彼自身が、この時計に深く関わったから……なのだろうか。理由はわからない。
ひょっとすると、お父さんなら、分かるかもしれない。
しかし、そうだとしても、真夜は何も覚えていない。
消えたものは戻らない。
そして、きっと心のどこかに傷が残っている。
わたしがやったことで、今も苦しんでいる。
謝らなきゃ。
何度もそう思ったのに、勇気が出ない。何度も人生を弄んでしまって、いまさら、どんな顔をして謝ればいいのだろう。
痛いくらいに手を握りしめていた。
陽岳さんは少しだけ目を伏せ、机に置かれた自分の手を見た。
その仕草は、何か思い出しているようにも見えた。
「俺さ、家、あんまり静かじゃないんだ」
「えっ……?」
唐突に口を開いて、彼は笑うでもなく言った。
「小さい頃から、家がうるさかった。両親、ずっと喧嘩しててさ。朝も夜も声が大きい。だから、静かな場所が好きなんだ」
淡々とした声だったが、どこか遠くの過去を踏まえるような落ち着きがあった。
わたしは顔を上げ、何も言えないでいると、続けた。
「まあ、俺は後ろ向きな理由だけどさ。でも落ち着くから。多分、夜風さんもそういう性格は一緒だろ」
「は、はい……」
「ここは誰もいない。ここなら誰にも聞かれずに、落ち着いて話ができる。だから、」
“ここから何とかしよう”――彼が続けて言った。たったそれだけで胸が熱くなる。
その言い方はとても普通だったのに、机越しに届いたその響きだけが、まっすぐに響いてきた。
自分で切り取ってしまった世界の隅にいるのに、一人じゃない。
わたしはマフラーの端を握りしめ、しばらく黙ったまま息を整えた。
時計の金属がポケットの中で小さく触れ合う。
母の声が一瞬よぎったけれど、今は違った。
わたしが動かなくては、誰も救えない。
目を閉じ、ひとつ深く息を吸う。
胸の奥にある名前を呼ぶような感覚で、自分の言葉を選んだ。
「……陽岳さん」
「ん?」
「わたし……わたしは、真夜のお母さんとお父さんを、助けたいです」
言葉にした瞬間、心臓が痛いほど脈打った。
机の下で拳を握る。
彼は静かに頷く。何も挟まない。続きを待ってくれているのが分かる。
「嫌われてもいい。やり直さずに、やり遂げたい」
目をきつく閉じて吐き出すように言う。
閉じた瞼の裏に、真夜の絶望と、四度の朝が交互に浮かぶ。
あの白い光景、夜の続き。もう二度と繰り返したくない。
彼の指先が机に触れて、ほんのかすかな音がした。
それは頷きの代わりのようだった。
「一緒に考えて欲しいんです。どうすれば、助けられるかを」
わたしはまっすぐに顔を向けて、頼んだ。
声が震えて、終わりの言葉が風に吸い込まれる。
陽岳さんは少し目を伏せ、何かを噛みしめるように沈黙した。
やがて顔を上げ、視線がまっすぐ重なった。
「分かった。やろう」
その短い言葉が、妙に熱を持って胸に落ちた。
“ひとりじゃない”という事実で、全身が少しずつ冷たさを忘れていく。
わたしは深く息を吐いた。
外の雪が少し強まり、窓硝子に細く筋を描いていく。
それを眺めながら、机の端にノートを置いた。
視界が僅かに滲む。
「……ありがとう」
その一言を絞り出すまでに、呼吸を三度繰り返した。
彼は、眼差しを逸らさないまま、わずかに笑った。
その夜、雪が降りはじめた。
窓の外はまだ街灯のあかりが届くほどの静けさで、降りてくる粒のひとつひとつがゆっくりと、黒い空の向こうへ溶けていくように見えた。
カーテンから離れて、机の上にノートを広げる。スマホをスピーカーモードにする。
「……聞こえますか?」
『ああ、ちょっとノイズ入ってるけど大丈夫。窓、開けてたの?』
「はい。少し寒いですが、外の空気を感じたくて」
閉じたカーテンの端が揺れる。
自分の息が白く映るのを見て、ようやく夜が深くなったことを実感する。
『そっちも降ってる?』
「降り始めました。予報より早いみたいです」
『……この雪が、明日には吹雪になるのか』
その一言で、息が詰まった。
画面の向こう側で、彼も同じ景色を思い出している。
わたしが最後に見た、白い道。
しばらく何も言えなかった。
沈黙のまま、ノートに落ちる雪明かりだけが揺れる。
声を出したのは、彼のほうが先だった。
『ごめん、変なこと言った。なんか、思い出しちゃって』
「……大丈夫です」
わたしは小さく首を振りながら言った。
「もう後悔はたくさんしてきたので。いま悔やんでも、間に合いませんから」
その言葉を聞いたあと、彼が深く息を吸う音がした。
『じゃあ、整理しよう。あの事故は何が原因だったんだ?』
「あの日は風が強くて視界が悪かったから。たぶん、最初に車がスリップして……そこで、バスが事故に巻き込まれたんです」
わたしは今日の放課後までにまとめた、線と点だらけのページを見下ろす。
陽岳さんも向こうで、何か紙をめくるような音を立てた。
『あの日は、確かにすごかった。真っ白で、車からじゃお互い何も見えなかったかも』
「えっ?」
『その、前回はバスの近くにいたから。雪がすごくて遠くが見えなかった』
彼の言葉は淡々としているのに、胸の奥が痛くなる。
そうだった。彼は見ていた。わたしがバスの前に出て行って、消えていった瞬間を。
すぐに声を出そうとしたけど、喉がふるえて言葉がうまく出なかった。
『ごめん。余計なことを言ったよな」
「いえ。むしろ、忘れてはいけないと思ってます。あの場所で、わたしは止まらなくちゃいけなかったのに」
机の端に置いた時計の影が、わずかに震えた。
その重みを指先で確かめるように撫でる。手放せない。四度目の夜、あれを使えずに終わった記憶が、まだ体に残っている。
彼の声が少し遠くなり、窓を開ける音がスピーカーから聞こえてきた。
『たぶん普通の投稿だけじゃ伝わらない。言葉って軽く見られるから。これ、人の目で見て分かるものに変えたほうがいい。誰が見てもそうと分かる形に』
「……たとえば、写真とか、ですか?」
『うん。といっても、俺もどうすればいいか分からないけど。未来から、写真や動画を持ってくるわけにはいかないもんな』
「ええと……すみません。この時計でも、そこまでのことは、できなくて」
映像。写真。
――なるほどと思うと同時に、ため息が出た。
確固たる証拠があれば動いてくれるに違いない。でも未来の事故の写真なんて、やっぱり信じてはもらえないだろう。そもそもスマホのデータは、時間を戻しても持ち越せない。
『別にそのものじゃなくてもいい。
風が巻く瞬間を撮って、ホワイトアウトで視界がなくなるのを分かるようにする、とか。できるだけあの時の瞬間を、それっぽく見せる感じで』
「でも、どこに、どうやって見せれば信じてもらえるでしょうか」
『直接バス会社に送っても、多分スルーされるかぁ。匿名で“危ない”って言われても、怪文書扱いだろうし。名前付きで送っても、なんでわかったんだって話になるだろうし』
「……そういうものですよね」
『あ……うん。だけどまだ、時間はある。この後も本気で考えてみるよ。この一回でなんとかしないとな』
わたしは笑うような、泣くような息を漏らして「はい」とかえした。
窓の向こうで音を立てて、雪が吹きつけてきた。
『あのさ、夜風さん』
「はい」
『もしうまくいかなくても、全部自分のせいとか思うなよ。あの時だって、どうしようもなかった』
「……ええ」
彼のその言葉に、胸の奥が小さく鳴る。
それは優しさであり、同時に刃でもあった。
もう二度と同じ過ちを繰り返すつもりはない。だけど、あの時バスの前に飛び出したのは、わたしの意思だ。
あれを“仕方なかった”で片付けてしまえば、たぶん、また繰り返してしまう。
「いえ……あれはわたしのせいです。事故は偶然でも、ああなったのはわたしが決めたことなんです」
『……夜風さん』
「でも、もう同じことはしません。あんな責任の取り方は、絶対に、もう二度と」
お互いに無言。
少しして、また静かな呼吸が聞こえはじめる。
「陽岳さん」
『……うん』
「わたし、真夜に謝らなきゃいけないんです。どんな結果になっても。
事故を止めるだけじゃなくて……それをちゃんと言わなきゃ、意味がない」
言葉を並べながら、自分の世界がまた少し現実に戻る気がした。
体の中で、冷たさと熱が交互に巡る。
彼は返事をしなかったけれど、マイクの向こうで小さく頷いた気配がした。
雪は一段と強くなっていた。
窓硝子を流れる粒は、さっきよりも大きく、速い。
その音が、会話の合間に入り込んでくる。
「……明日は、もう一度現場を見てきます。どうすればいいのかを、ちゃんと確かめたいですから」
『うん。それがいいと思う』
ノートに視線を戻す。
今日だけで書き込んだ線は十ページを超えていた。
決め手はまだ見えない。けれど、どう動けばいいのか、少しずつ見え始めている。
だけど、それだけでは終われない。
もし、この事故をやり過ごしたとしても、真夜との間に残った亀裂は消えない。
信頼関係を、裏切ったのはわたしだ。
だから、明日。逃げない。
わたしはペン先を止め、深く息を吸った。
スマホ越しに、彼が言葉を探している音がかすかに聞こえる。
ありがとう、が喉まで出かかったけれど、まだ違う気がした。
静かな数秒が流れる。
やがて彼が小さく「おやすみ」と言い、わたしも「おやすみなさい」と返す。
通話が切れたあと、夜は一気に冷たくなった。
ノートを閉じてから、改めて窓の外を見る。
白い粒が網戸の向こうで踊っている。明日の朝も、降り続ける。
胸の奥で、眠れないほどのざわめきが続いていた。
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