第7話 赤いマフラーの背中
玄関を出ると、まだ朝の冷気が残っていた。
東の空は淡い灰で、細い雲がゆっくり流れていく。
頬を撫でる風の感触まで、確かに見覚えがある。昨日も、同じ道をこうして歩いた。
それでも、父の言葉が残響のように張り付いている。
——逃げてもいい。
その響きに背を押されている気もしたが、逃げる先がどこにも思い浮かばなかった。
坂を上り始めると、吐く息が白く流れる。その先に、いつもの赤いマフラーが見えた。
真夜だ。
心臓が一拍だけ早く打つ。二度目、同じ場所で彼女を見つけた。この光景を取り戻すために、何度も戻ってきたのだ。
けれどその瞬間、違和感が生まれた。
彼女の背中を見ただけで、胸の奥がきゅっと縮んだ。
何も起きていないはずなのに、もともとあったはずの安堵が見つからない。
「……真夜」
小さく呼ぶと、彼女が振り返った。
「おはよ、小雪」
声も言葉も同じ。なのに、そこに乗る息づかいが、前とは少し違っていた。
目が合った瞬間、彼女はほんのわずかに肩を固くした。
それが風のせいなのか、自分の錯覚なのか区別がつかない。
「おはよう」
返しながら、胸の奥に小さなひっかかりが生まれる。
会話の間が、わずかに長い。目線の焦点が一瞬だけ外れる。
彼女はまっすぐ前を向いて歩き出した。
雪を踏む音だけが響く。今日の風は昨日より穏やかなのに、体の芯が冷えていく。
横に並ぼうと一歩踏み出すと、真夜は少しだけ歩幅を広げた。
偶然かもしれない。けれど、その偶然が続くたびに心が沈んでいく。
教室までの坂道は短いのに、今日は妙に長く感じた。
戻したはずの時間は、目の前で形を変えていた。
道も家も同じなのに、人の空気だけが違う。世界は、前より少し冷たくなっていた。
それは真夜だけじゃない。下駄箱の前で誰かに「おはよう」と声をかけても、一足分の隙間が生まれて、後ろの子が別の列に移る。返事は返ってこない。まるで、聞こえなかったふりをされているみたいに。
昇降口の列で、ひとりの子が肩越しにこちらを見た。
「あ……おはよう、夜風さん」
昨日と同じ顔。同じ間隔。同じ笑い。違うのは、たった一語。
自分の名前の響きが冷えて聞こえた瞬間、背筋が強張った。
頬を上がろうとした笑みが、途中で途切れる。息苦しさが喉に刺さる。
「……うん、おはよう」
反射で返した声は、別人みたいに細かった。
その子は軽く会釈して、すれ違いざまに友達へ何かを囁いた。
その姿を見送って、手のひらの奥で時計の輪郭を探る。
今朝の父の言葉が頭の奥をかすめる。
目に見えない
みんな、どこかでわたしのことを覚えているんじゃないか。
この時計を押すたびに、知らない何かを壊しているんじゃないか。
昨日、真夜の肩に触れたときの温度も、声も、全部わたしの都合で変えてしまった。それなのに、前の世界でのざらつきだけが、消え残ってしまったみたいだ。
神様がいるのなら、「自分だけ勝手にやり直すな」って、そう言って怒っているのかもしれない。
その罰が、今日の冷たさなのかもしれない。
胸の奥にじわりと汗がにじむ。
もしそうなら、次に戻したらどうなるのだろう。
もっと冷たくなるのだろうか。誰も、自分の名前を呼ばなくなる?
何より。もしかしたら真夜も、わたしのお母さんと同じように──
頭を振っても、考えが止まらない。
逃げるように廊下へ出ると、制服の裾をすり抜けた風が、指先まで凍らせた。
立ち止まれば、いっそ全部を手放してしまいたくなる。
でも、手放したらどうなるかを知っている。
怖い。けれど、止まれない。
手のひらの時計を通して、冷たい脈のようなものが伝わってくる。
これは母のもの。託されたとき、わたしは“誰も巻き込むな”と言われた。
けれど今、巻き込まなければ助けられない人がいる。
息を吸い込み、胸の内で小さく叫んだ。
——まだ終われない。次こそ、きちんと伝える。
前の世界で言えなかった言葉を、今度こそ伝えなきゃ。
真夜の笑顔だけは、守りたい。
放課後の昇降口は、外よりも寒かった。
窓から射す光が細く、下駄箱の影が床に縞を作っている。行き交う足音と笑い声が、自分とは少し遠い世界の音に聞こえた。
真夜を呼び止めようと決めたのは、昼の終わりだった。
今やらなければ、きっとまた何も変えられない——そんな感覚だけが身体を押した。
彼女はちょうど帰り支度を終え、赤いマフラーを巻き直していた。
「真夜」
声をかけると、彼女は振り向き、少し驚いたように目を細めた。
「なに? また宿題の相談?」
笑った口元の柔らかさが、胸のあたりで揺れた。いい、これが最後の“普通”になるかもしれない。わたしは手の中に時計を握りしめて、口を開いた。
「……違う。少しだけ、真夜の家のこと」
「家?」
「お母さんとお父さん。いつも、同じバスで出勤してたよね」
問いが落ちた瞬間、真夜の笑みが少しだけ薄くなる。
「うん、そうだけど……どうしたの?」
わたしは息を整え、言葉を押し出した。
「変な話に聞こえるのはわかってる。でも——明後日の朝、坂ノ下で事故が起きる」
真夜のまつげが小さく揺れた。
「明後日って……」
「七時二十分。バスと車が——」
そのとき、近くの下駄箱の蓋がひとつ閉じた音がして、周囲の空気が止まる。
廊下を歩いていた二人組がこちらを見て、すぐに視線を逸らす。
喉が熱くなる。自分の声が、教室の外まで届いた気がした。
「ほんとに、気をつけてほしいの」
「……どうして、そんなこと分かるの?」
彼女は一歩近づきながら言った。声色に恐れがまじっている。
「それは……言えない」
言えない。時間を戻して、ここにいるなんて、信じてもらえるはずがない。
「でも、確かなの。お願い——」
「誰かから聞いたとか? ニュース? なんで小雪ちゃんがそんな時間まで細かく——」
言葉が次々と繋がり、真夜の呼吸が速くなる。
わたしは答えたかった。けれど、胸の奥で母の声がよみがえる。誰にも見せちゃだめ。巻き込んじゃだめ。
「……言えない。けど本当なの」
「そんなの、信じろって言うの? 予言みたいだよ。やだ。怖いよ、小雪ちゃん」
マフラーの端で顎を隠した真夜の目がにじんでみえる。咄嗟に肩に手を伸ばした。
「怖がらせたいわけじゃないの、止めたいだけ——」
「もうやめて!」
反射的に払われた指先。手に小さな衝撃。
無意識の癖で押さえていた手が開き、銀が滑り落ちる。真夜の指が金属の縁を掠めて、懐中時計を、廊下の端に弾いた。
その刹那、上履きの足音が一拍止まる。
昇降口の扉の隙間を通る風が、どこまでも澄んで聞こえた。
ほんの瞬きほどの静寂。理由のない既視感みたいな寒さが、二人の間を抜けていく。
真夜は手を引き、顔を伏せた。
「……ごめん、小雪ちゃん」
そう言いながら立ち上がり、背を向ける。
「ま、待って、真夜。ねぇ——」
声が追いつく前に、赤いマフラーが扉の外でひるがえった。
ドアの金具がぶつかる音がして、風がまた入り込む。
残された下駄箱の列は、さっきより光が淡い。
拾い上げた時計は、握りしめていたはずなのに、驚くほど冷たくなっていた。ポケットに戻す。それでも震えは止まらない。
——どうして、伝えられないんだろう。
息だけが白く残った。呼吸の度に、その白が薄れていく。
翌日。
真夜とは、もう言葉を交わさなかった。
通学路では背中の間に風が入り、並んで歩くはずの距離がそのまま氷になっていた。私は声をかけられなかった。昨日のあの瞬間、何かを決定的に壊してしまった感覚が、まだ手のひらに残っていたから。
放課後までに話せる機会はなかった。視線を合わせることもなく、言葉より静けさのほうが重かった。
ただ、信じてもらえることを、信じることしかできなかった。
そして次の朝。教室に入った途端、空気の質が違っているとわかった。
机のあいだに漂う電子音のようなざわめき。あちこちのスマホの画面が白く光っていた。
「……ニュース見た?」
「坂ノ下の交差点で」
囁きの断片だけが連鎖していく。
読む勇気が出なかった。それでも無意識に耳が拾っていた。「バス」「事故」「二人」という単語。
胸の奥が掴まれたように痛む。
——まさか。
真夜は席に着いたまま、顔をこわばらせていた。手の中のスマホを見ようとしても画面がにじみ、指先が震えている。その横顔に光が当たって、まつ毛の影が小刻みに震えた。
誰かが廊下に出て教師を呼び、数人が一斉に立ち上がる。教室の音が一瞬だけ止んだ。
「佐野さん、職員室に来てくれる?」
担任の声が落ちた瞬間、私は息を飲んだ。
真夜が立ち上がる。足が机の脚をかすって金属音が鳴った。扉に手を添える動作が妙に遅い。顔を伏せ、ただ先生の後ろを歩いた。
その背中を見て、私は立ち上がりそうになる。だが足が机の下に縫い付けられたように動かなかった。音がすべて遠ざかっていく。
——また、同じ。
凍るような現実感が押し寄せた。何度戻っても止められなかった、自分だけがそれを覚えている。
何度戻っても止められない。その度に、わたしの指先だけが濃く汚れていく。
誰かが机の間を抜けながら囁いた。
「夜風さん、昨日、なんか言ってなかった?」
「うん、坂ノ下とか……時間まで」
かすれた笑い声が後ろの席で弾む。横目でこちらを見ては、すぐ逸らされる。言葉以外のすべてが軽蔑をまとっていた。
胸が焼けつく。止めたかったのに、また何もできなかった。
どれだけ戻っても、救える誰かの分だけ別の誰かを傷つけてるのかもしれない。
そう思ったら、息が詰まった。
廊下から戻る気配。先生の後ろに真夜が立っている。
教室の空気が再び凍る。
「皆さんに伝えておきます。佐野さんのご両親が、今朝の事故で……」
途中で言葉が途切れた。
軽い椅子の軋み。誰かが泣きそうな声をこらえる。
真夜はうつむいたまま、口を結んでいる。
「……あまり他のクラスに口外しないように、気をつけてください」
先生が話している間も。視線が、あちこちで私を探すように動く。答えを求めるような、疑うような。
——やめて。見ないで。
その視線の重さが皮膚を刺す。
斜め前の席の女子が、わずかに身をずらした。
ぶつかる前に避けるような、静かな拒絶。
「……あの子、知ってたんだよね」
机の陰で、もう一人が囁く。
ざらついた空気の中で、手が動かない。無数の疑いの眼差しが刺さる。鉛筆の先がノートの上で震え、水滴のような跡を残した。
そのとき、小さな声が割って入った。
「やめて……!」
真夜だった。
その一言に、空気が止まった。
誰もが口を閉じる。けれど、真夜は私のほうを見なかった。
指先まで硬く握った拳が震えている。
先生がそっとうなずき、荷物を持った真夜を出口へ促す。
扉が開き、赤いマフラーの端が風に揺れた。
背中が消えるまでの数秒で、教室の内側の静けさが歪んだ。
残された生徒たちが顔を見合わせる。
つかの間の沈黙のあと、再び囁きが芽吹く。
「でもさ、やっぱり、あの子……」
乾いた笑いが浮かび、誰かのペンが机に当たってカチリと音を立てた。
私は動けなかった。
ノートの上で文字が滲んでいく。白いページの中に、自分の呼吸音だけが残る。
私は何をしてきたんだろう。
守りたかったものが、すべて壊れてしまうのを見ているだけ。
その自覚が一番、痛かった。
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