第3話 欠けた世界のやり直し

 日を追うごとに、空席が重くなっていった。

 授業の合間、皆の声は同じ場所に集まる。誰も隠そうとしない。


 ──雪の日のあの交差点。

 ──バスとトラック、巻き込まれた乗客も。

 ──佐野さんの家、ご両親が……。


 言葉は遠慮なく廊下や教室を渡り歩く。耳を塞がなくても届いてしまう。

 真夜の席の背もたれが、クラス全体の視線を引き受けていた。そこに誰も座らない日が二つ、三つと続くと、もうそれは「日常」で。あったはずの姿は少しずつ忘れられる。


 わたしはただ、机に身を沈めていた。

 ノートを広げても、目は一文字も追えなかった。過去形で囁かれる噂ばかりが胸に刺さる。


 放課後、帰ってからも同じだった。スマホの画面を睨み続けても、真夜のアイコンは沈黙したまま。

 怖かった。返事がないことより、そのまま消えてしまうのではないかと思うことが。

 彼女は、わたしを励ましてくれた。母を失ったとき、泣き続けて立ち直れなかったわたしを、席を離れず隣にいてくれた。あの支えがなかったら、わたしは今ここにいない。


 だから、どうしても返したい。手を伸ばしたい。

 指先がキーボードを叩く。


「真夜」

「お願い、返事して」

「どこにいるの」


 勢いのままに打ち込み、送信を押す。

 灰色の吹き出しが連なっていく。必死さだけが積み重なり、しかし既読は灯らない。

 一通送るごとに期待し、絶望するのを繰り返す。


 深夜まで同じことをして、何も変わらなかった。

 机に突っ伏して目を閉じるたびに、あのメッセージが蘇る。


 《お父さんとお母さん、交通事故で死んじゃった》


 文字列は脳裏で光っては砕け、何度もリピートされる。

 忘れられない。まぶたを閉じても鮮明すぎる。


 胸が痛かった。喉が詰まって、息がうまく吸えない。

 液晶画面からでも伝わる絶望の色。助けられる言葉は、一つも出てこなかった。


 わたしは……ただ立ち尽くしていた。

 無力さを噛み締めながら。

 その視界に、机の端の銀色が滲む。

 触れず、放置してきたもの。母が残した時計。


「大切なときだけ」


 音にならない声で、母の言葉をなぞった。

 怖い。何度も怖いと思った。軽い気持ちで押してしまった罪悪感を、あの日から感じていた。軽い気持ちで、うかつに踏み込んではならないとわかっていた。


 けれど今。

 真夜が世界ごと奪われていく、この瞬間。

 これ以上に大切なときはない、と叫ぶ声が胸を震わせている。


 マフラーに口を埋め、息を吸う。

 指がゆっくりと時計へ伸びる。金属は冷たかった。爪の先が白くなるほど強く押さえても、まだ決心できなかった。


 真夜の声が蘇る。

 一緒に聴いた、窓際のあの静けさ。

 白く吸い込む空気の音。

 「小雪」と笑った声。


 その全部が、胸の奥で囁く。

 ──戻さなきゃ。


 怖さは残っていた。

 だが別の強さが手を動かした。

 わたしは目を閉じ、親指を沈めた。


 かち、と感覚だけの音が鳴る。

 空気が冷たく変わった。部屋の蛍光灯の唸りが、一瞬だけ消える。








 次に目を開いたとき、外の雪は再び朝の色に染まっていた。

 空気が軽く、カーテンの縁が朝の色を吸い込んでいる。夜の残像がもうどこにもない。


 腕の下には昨日と同じノート。鉛筆がページの上で止まり、消しゴムのかけ残しまでそのままだった。

 机の端で銀の時計が、小さく音を刻んでいる。昨夜に押したときの冷たさが、指先の奥にまだ沈んでいた。


 ――戻った。


 呟いた声に反応するように、窓の外の光が変わった。

 どこかの屋根から落ちる雪の音が続く。

 スマホを開く。画面を見つめたまま、心臓の鼓動だけが耳の奥に響いた。



 メッセージ欄から消えていた。

 本当に消えていた。もうなかった。

 あの一文は世界から、きれいに削り取られていた。

 息を吸う。部屋は冷えているはずなのに、少しなまぬるく感じる。現実の密度が変わってしまったような、そんな歪な手触り。


 制服を着て鞄を持つ。指先の震えを抑えようとしてもうまくいかない。

 これでいいはずなのに――そう思っているのに、胸の奥では別の音が鳴っていた。

 “こんなことをしていいのか”という、細い針のような疑いの音。

 母は「誰も巻き込むな」と言っていた。

 それでもわたしは、真夜を苦しみから救いたいと思って押した。

 押さずにはいられなかった。


 もしこれを咎められるなら、それでも構わない。そう信じた。


 息を整え、玄関を出る。

 外の空気は、思っていたよりも明るかった。

 風はまだ冷たく、雪は細かく舞っている。だが昨日のような吹雪ではない。

 いつもの坂道。靴の底が硬い雪を踏む音がはっきり響く。

 頬に当たる風の感触まで、懐かしい。


 袋小路の角を過ぎたところで、前方に人の影を見つけた。

 薄い灰の世界の中で、その人だけがはっきり形を保っている。

 マフラーの赤。見慣れた髪の輪郭。

 真夜だった。


 胸に溜まっていた息が一気に抜けた。思わず立ち止まり、数歩あとずさる。

 この光景を、わたしは確かに知っている。

 手を伸ばしたいのに、手の甲が硬くなって動かない。

 呼びかけたら、この瞬間が壊れてしまいそうだった。


 真夜がこちらに気づく。


「おはよ、小雪ちゃん」


 口角が少し上がり、いつもの声。柔らかい、普通の朝の挨拶。

 わたしは答えようとして、喉の途中で声が止まった。

 うまく笑えなかったけれど、それでも彼女はあっさりと隣に並んで歩き出した。


 背の高さが、風の流れに合っている。

 わたしもそのまま足を動かす。手袋の中で指が湿っていた。

 心の底に小さなざわめきが生まれる。

 今の笑顔は、わたしにしか見えない『過去』から奪い返してきたものだ――という意識が拭えなかった。

 でも、同時に、それができたことへの誇りのような感情も確かにあった。

 罪悪感と安堵が、火花みたいに胸の中で揺れる。


 学校までの坂を上がると、景色は以前と同じだった。

 雪の量は減っていたが、路肩の除雪跡はまだたくさん残っている。バスの通り道も、変わりなく車が走っていた。

 耳に入る騒がしさが懐かしくて、思わず足が止まる。

 取り戻したのだ、ともう一度思い知らされる。


 それなのにどうしてか、空の色だけが昨日より鈍く見えた。

 空気の中に、うっすらとひび割れのようなものがある。風の音がほんの少しだけズレて聞こえる。

 ポケットの懐中時計を確かめる。

 針は正しく動いている。だから、これは確かに“今”のはずだ。

 わたしは深く息を吸った。

 真夜の未来を変えられるのなら、それでいい。そう言い聞かせる。

 それでも、心の奥には言葉にならないざわめきが残った。









 昇降口のガラスの向こう、雪がうすく光を返していた。

 床には溶けかけの跡が散っている。靴箱の隙間に入り込んだ白さまで、見覚えのある模様を描いていた。肩越しの声も、靴を履き替える仕草も、一度見たままの角度で並んでいる気がする。


 胸の奥が少し温かくなった。

 ――ちゃんと戻れた。

 そう確かめるたびに、体のどこかがふわりと浮いた。悪いことをしたような気持ちはあったけど、でもそれを上回る安堵があった。


 ガラス戸を押すと、廊下の向こうに光が延びる。

 壁の掲示板に一枚だけ斜めのプリント。指先が動きかけた瞬間、誰かが直し、すぐまた傾く。

 足もとに視線を落として歩く。

 角を曲がったところで、人影とぶつかりそうになる。


「……あ、ごめんね、小雪ちゃん」


 あの子が軽く身を引いた拍子に、鞄の紐が肩からずれた。


「ううん、大丈夫」


 口の奥が乾く。自分でも知らない声の高さだった。

 彼女は小首を傾げ、そのまま行ってしまう。その姿を見送るあいだも、胸のあたりがざわざわしている。

 見慣れた朝の風景なのに、世界の縁に薄くつなぎ目があるみたいに感じた。


 教室に入ると、暖房の匂いがやわらかく漂っていた。

 真夜が窓際でペンを回しながら、机に頬をつけている。ふと顔を上げた瞬間、目が合った。


 穏やかな笑み。けれどその瞳の奥に、ほんのかすかな疲れの影があった。

 寝不足、と言われればそう見える程度の曖昧さ。その薄いくもりが、記憶にない痛みの余韻かもしれないと、理由もなく胸がざわつく。

 彼女はすぐにノートへ視線を戻す。わたしは笑い返した。

 ――今度は力になれる。

 その思いを噛みしめながら、席に鞄を置いた。


 午前の授業が終わるころには、時計ばかり見ていた。

 雪は止みかけている。明日を越えれば、あの朝がまた来る——その前に、伝えなければ。


 放課後、真夜が廊下に出ていくのを見て、駆け寄る。


「真夜、少し話せる?」


 呼び止めた声が思ったより大きく響いた。

 彼女は振り返る。


「どうしたの、小雪ちゃん」


 優しい目の奥で、一瞬だけ硬さが点る。

 わたしは息を整えた。早く伝えないと、もう二度と取り返せない気がして。


「変な言い方になるけど……気をつけてほしいの。明後日の朝、坂の上の交差点で事故が起きるの。バスと車がぶつかる。だから、絶対にお父さんとお母さんには——」


 途中で声が震えた。

 言った途端、廊下の奥で笑い声が途切れ、靴底が一度だけ床を鳴らした。

 視線が針みたいに一瞬だけ寄って、すぐ散った。


 そして、真夜の目が一瞬だけ広がる。


「事故って……誰に聞いたの?」

「ううん、でも知ってるの。信じられないかもしれないけど。お願い」


 言葉にして初めて、心臓が痛いほど速く打っているのが分かった。

 真夜はすぐに視線を下げて、小さく息を吐く。


「ふぅ、びっくりした……。急にどうしたの、そんな顔してさ」


 心配のほうが勝っている声だった。

 わたしは答えられず、マフラーを握る。


「……うまく説明できないけど、でも危ないの。きっと、その日は雪が強くなるから。外に出ないように言ってほしい」


 短い沈黙のあと、真夜が頷いた。


「分かった。気をつけるね。ありがと、小雪ちゃん」


 微笑む彼女の目元には、まだ何か小さな影が残っていたけれど、そのまま鞄を持って去っていった。

 手すりに触れた指先が、鉄の匂いを連れてきた。


 廊下を抜け、窓際に立って外を見る。

 夕方の雪はもう粒が大きくなっている。

 あの言葉で十分だろうか。何か足りなかった気がする。

 けれど今日伝えられたことだけで、胸の奥が少し軽くなった。

 「今度は、大丈夫」と言った声だけ、喉の奥で震えていた。


 帰宅後、机にノートを開いた。

 日付の隣に、短く一文を書き添える。

 〈真夜に伝えた〉

 その文字を見て、やっと指の震えがおさまった。

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