第4話

ジンが振り上げた鋼鉄の拳が、俺の顔面に迫る。

風圧で、前髪が激しく揺れた。

観客席から、アリスさんの悲鳴が聞こえた気がする。

もはや、避けられない。

誰もがそう思っただろう。

だが、俺は落ち着いていた。

ジンの拳が俺に届く、ほんの数センチ手前。

俺は、静かに一歩、横にずれた。

ただ、それだけ。

それだけの動きで、ジンの渾身の一撃は、空を切った。

「なっ!?」

ジンが驚きの声を上げる。

勢い余った彼の体は、そのまま俺の横を通り過ぎ、数メートル先で体勢を崩した。

フィールドが、一瞬、静まり返る。

何が起こったのか、理解できないという空気が場を支配していた。

「……嘘だろ?」

「今、避けたのか?」

観客席から、ぽつりぽつりと、信じられないといった声が漏れ始める。

「偶然だ!まぐれに決まってる!」

ジンの取り巻きが叫ぶが、その声には焦りの色が滲んでいた。

「……てめえ、よくも避けたな」

体勢を立て直したジンが、忌々しげに俺を睨みつける。

その瞳には、先ほどまでの余裕の色は消え、驚きと、わずかな怒りが浮かんでいた。

「君の動きが、あまりにも単調だったからね。避けるのは簡単だったよ」

俺は肩をすくめて答えた。

もちろん、ただの挑発だ。

並の人間なら、今の攻撃に反応することすらできなかっただろう。

これも全て、剣聖アークライトの力のおかげだ。

「ほざきやがって……!」

俺の言葉に、ジンは完全に頭に血が上ったらしい。

彼は再び、獣のような雄叫びを上げて突進してきた。

今度は、先ほどよりも速く、そして重い。

連続で繰り出される、鋼鉄の拳と蹴り。

その一撃一撃が、地面を砕き、空気を震わせる。

だが、その全てが、俺の体を捉えることはなかった。

俺は、最小限の動きで、ひらりひらりとジンの猛攻をかわし続ける。

まるで、猛牛をあしらう闘牛士のようだ。

あるいは、蝶のように舞い、蜂のように刺す、という言葉がしっくりくるかもしれない。

もちろん、俺はまだ一度も攻撃していないが。

「くそっ!ちょこまかと動きやがって!」

ジンは、息を切らしながら悪態をついた。

彼の額には、汗が浮かんでいる。

ギフト【鋼鉄化】は、確かに強力な防御力を誇る。

だが、その分、体力と魔力の消費が激しいのが欠点だ。

そのことも、俺は原作知識で知っていた。

「どうしたんだい?Aクラスのエリート様は、その程度なのか?」

俺はさらに、ジンを挑発する。

冷静さを失わせれば、彼の動きはさらに単調になる。

そうなれば、俺の勝ちは、より確実なものになるだろう。

「だまれぇぇぇっ!」

ジンは、俺の挑発にまんまと乗ってきた。

彼は両腕を大きく振りかぶると、渾身の力で俺に殴りかかってくる。

大振りで、隙だらけの攻撃だ。

俺はそれを身をかがめて避け、初めて反撃に転じた。

手にした木剣を、流れるような動きで振るう。

狙うは、ジンの右膝の関節。

【心眼(偽)】が、そこが彼の防御の最も薄い部分だと教えてくれていた。

キィン!

甲高い金属音が響き渡る。

俺の木剣は、ジンの鋼鉄の足に弾かれた。

かに見えた。

しかし、攻撃を受けたジンは、一瞬、顔を苦痛に歪ませ、片膝をついた。

「ぐっ……!?」

「何だ、今の攻撃は?」

「木剣が、ジンの鋼鉄化を破ったのか!?」

観客席が、再びどよめく。

ボルガン教官も、驚いたように目を見開いていた。

もちろん、木剣で【鋼鉄化】を破ったわけではない。

俺は、剣聖の技術を使い、衝撃の威力だけを、彼の内部に浸透させたのだ。

骨に直接響くような、鋭い痛み。

外傷はなくても、ダメージは確実に入っているはずだ。

「……貴様、一体、何をした……?」

ジンは、膝を押さえながら、信じられないといった目で俺を見上げる。

「さあ?ただ、普通に斬っただけだよ」

俺はしれっと答えた。

自分の力が、どこまで通用するのか。

俺は、この戦いを楽しみ始めていた。

「ふざけるな……!俺の【鋼鉄化】が、お前のような雑魚の攻撃で……!」

ジンは、プライドを傷つけられたことに、激しい怒りを覚えているようだった。

彼は無理やり立ち上がると、再び俺に向かってきた。

だが、その動きは、先ほどまでとは明らかに違う。

膝の痛みが、彼の動きを鈍らせているのだ。

俺は、もう避ける必要はないと判断した。

ここからは、俺の番だ。

俺は【縮地】を使い、一瞬でジンの懐に潜り込む。

そして、彼の体の関節部分だけを狙い、木剣で的確に打ち込んでいった。

肘、肩、足首。

防御の薄い部分を、立て続けに攻撃する。

金属音と、ジンの苦悶の声が、フィールドに響き渡った。

彼はなすすべもなく、俺の攻撃を受け続けるしかない。

Aクラスのエリートが、Fクラスの落ちこぼれに、一方的に弄ばれている。

その信じられない光景に、観客席の生徒たちは、言葉を失っていた。

アリスさんが、口元に手を当てて、驚いたように目を見開いているのが見えた。

「終わりだ、ジン」

俺は、体勢を崩したジンの首筋に、木剣の切っ先をぴたりと突きつけた。

ジンは、ぜえぜえと荒い息を吐きながら、悔しそうに俺を睨みつける。

その瞳には、もはや戦意は残っていなかった。

あるのは、敗北を認められない、子供のような意地だけだ。

「……そこまで!」

ボルガン教官の、張りのある声が響いた。

「勝者、カイ・アッシュトン!」

その宣言を合図に、フィールドの周りを囲んでいた生徒たちから、わあっと大歓声が上がった。

いや、それは歓声というよりは、驚きと興奮が入り混じった、叫びに近いものだった。

「嘘だろ……カイが、ジンに勝ったぞ!」

「一体、どんな手を使ったんだ!?」

「あいつ、本当にFクラスなのか!?」

誰もが、この結果を信じられないでいた。

俺は、ジンの首筋から木剣を離すと、静かに一礼した。

「ありがとうございました」

ジンは、何も言わずに、ただ唇を噛み締めていた。

その顔は、悔しさと屈辱で、真っ赤に染まっている。

俺は彼に背を向けると、フィールドを後にしようとした。

その時だった。

「待てや、こらぁぁぁっ!」

背後から、怒りに満ちた声が聞こえた。

振り返ると、ジンが、両目に憎悪の炎を宿して、俺に向かって駆け出してくるところだった。

彼の右手には、いつの間にか、本物の鉄の剣が握られている。

訓練用の武器ではなく、模擬戦では使用が禁止されている、真剣だ。

「ジンさん、やめて!」

アリスさんの制止の声も、彼の耳には届いていない。

逆上した彼は、ルールを破ってでも、俺を斬り殺すつもりのようだ。

ボルガン教官が止めようと動くが、間に合わない。

「死ねや、ゴミがぁぁぁっ!」

ジンの振り下ろした真剣が、きらりと夕日を反射した。

観客席から、悲鳴が上がる。

俺は、その光景を、冷静に見ていた。

そして、左手に持っていた剣聖の鞘を、静かに構える。

ジンの剣が、俺の頭上に振り下ろされる。

その瞬間、俺は鞘を使い、彼の剣を受け流した。

ガキンッ!

鋭い金属音が響き、ジンの剣は、あらぬ方向へと弾かれる。

彼は、自分の攻撃が簡単にいなされたことに、驚愕の表情を浮かべた。

その一瞬の隙を、俺は見逃さない。

俺は、受け流した勢いをそのまま利用して、回転する。

そして、手にしていた木剣で、ジンの鳩尾みぞおちに、強烈な一撃を叩き込んだ。

「ぐぼっ……!」

ジンは、カエルの潰れたような声を出すと、白目を剥いて、その場に崩れ落ちた。

完全に、意識を失っている。

フィールドは、水を打ったように静まり返った。

誰もが、今起こった出来事を、呆然と見つめている。

俺は、気絶したジンを一瞥すると、ふぅ、と一つ息を吐いた。

そして、何事もなかったかのように、今度こそフィールドを後にする。

その後ろ姿に、数多の畏怖と、賞賛と、そして嫉妬の視線が突き刺さっているのを、俺は感じていた。

俺、カイ・アッシュトンの名は、この日を境に、グランツ英雄学園の全ての生徒に、良くも悪くも知れ渡ることになる。

落ちこぼれのガラクタ拾いが、Aクラスのエリートを、完膚なきまでに叩きのめした。

その衝撃的なニュースは、あっという間に学園中を駆け巡ったのだ。

俺が寮の自室に戻ると、すぐに部屋のドアがノックされた。

開けると、そこに立っていたのは、アリスさんだった。

彼女は、少し息を切らしている。

急いで、俺を追いかけてきてくれたのだろう。

「カイ君!腕の怪我、大丈夫なの!?」

彼女はそう言うと、俺の腕を取って、部屋の中に入ってきた。

模擬戦が終わった後、俺はすぐに医務室に行くように言われた。

ジンの真剣を鞘で受けた時に、腕に軽い切り傷を負ってしまったからだ。

もう手当は済んでいるのだが、彼女は心配で仕方ないらしい。

「大丈夫だよ、アリスさん。もう、先生に見てもらったから」

「でも……!見せて!」

彼女の白い手が、俺の腕の包帯にそっと触れる。

その瞬間、彼女の手から、温かい光が溢れ出した。

Sランクギフト【聖女の祈り】。

その光が、俺の傷を優しく包み込んでいく。

包帯の下の傷が、じんわりと温かくなり、痛みが和らいでいくのが分かった。

「ありがとう。でも、本当に大したことないから」

「……今日のカイ君、本当にすごかった。私、びっくりしちゃった」

治療をしながら、彼女はぽつりと言った。

その声は、少し震えている。

「今まで、あんなに強いなんて知らなかったよ。どうして、隠してたの?」

「隠してたわけじゃないよ。俺も、今日、初めて気づいたんだ。自分に、こんな力があったなんてね」

嘘ではない。

俺が、この力を手に入れたのは、つい昨日のことだ。

俺の言葉に、アリスさんは不思議そうな顔で首を傾げた。

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