第27話

呪われた魔法使いのゼノンは、希望に満ちた顔で店を後にした。

その力強い背中を見送り、俺は深く息をついた。

また一人、この店に救われた人ができたのだろう。

そう思うと、俺の心も少し温かくなった。


「マスター、また一人常連さんが増えそうですね」。

カウンターの陰から、ルナリアが顔を出した。

彼女の表情は、もうすっかり明るい。

「ああ、そうだな」。

腕利きの魔法使いみたいだから、何かと頼りになるかもしれないと俺は言った。


「グギィ」。

俺の足元で、ゴブきちが同意するように小さく鳴いた。

店の外は、もう昼過ぎの日差しが降り注いでいる。

穏やかで、平和な時間が店の中をゆっくりと流れた。

俺は、カウンターの中を片付けながらルナリアに声をかける。


「そういえばルナリアさん、昨日話していた新しいハーブティーはもうできそうかい」。

俺が尋ねると、彼女は待ってましたとばかりに顔を輝かせた。

「はい、ケンジさん。ちょうど、今朝最高のブレンドが完成したところなんです」。

彼女は、嬉しそうにそう言うと小さな木の箱をカウンターの上に取り出した。

箱を開けると、ふわりと爽やかで甘い香りが俺の鼻をくすぐる。

中には、乾燥させた色とりどりのハーブが美しく混ぜ合わさっていた。


「へえ、これは良い香りだな」。

ミントの爽やかさと、カモミールの優しい甘さが絶妙に合わさる。

レモングラスの、すっきりとした香りも良いアクセントになっていた。

「私が、心を込めて育てた子たちなんです」。

きっと、最高の味と香りを楽しんでもらえると思いますと彼女は言った。

その瞳は、自分の子供の成長を喜ぶ母親のように優しさに満ちている。


「よし、じゃあ早速試させてもらおうか」。

俺は、そう言うとすぐにお湯を沸かし始めた。

ルナリアが、丁寧にティーポットにハーブを入れてくれる。

お湯を注ぐと、琥珀色の美しいお茶がゆっくりと抽出されていった。

店の中に、先ほどよりもさらに強いハーブの香りが満ちていく。

その香りを吸い込んでいるだけで、なんだか心が落ち着くようだった。

俺は、完成したハーブティーを小さなカップに注いだ。

そして、まずその香りをじっくりと楽しむ。


「うん、これは期待できそうだ」。

俺は、ゆっくりと一口その温かい液体を口に含んだ。

その瞬間、俺の全身を今まで感じたことのないような深いリラックス感が包み込んだ。

まるで、温かい陽だまりの中でうたた寝をしているかのような心地よさだ。

日々の、細かな疲れやストレスがすーっと消えていくのが分かる。


「すごいな、ルナリアさん」。

これは、ただのリラックス効果だけじゃないぞと俺は言った。

俺の言葉に、彼女は不思議そうに小首を傾げる。

「精神を安定させて、集中力を極限まで高める効果もある」。

まるで、瞑想した後のようなクリアな感覚だと俺は続けた。

俺の作る飲み物とは、また違った種類の素晴らしい効果だ。

これは、間違いなく店の新しい名物メニューになるだろう。


「本当ですか、良かった」。

ルナリアは、心の底から嬉しそうに微笑んだ。

その時、カランコロンとドアベルの音が軽やかに鳴り響いた。

「ごきげんよう、ケンジ様」。

そこに立っていたのは、見慣れた銀色の鎧に身を包んだ美しい女剣士だった。

常連客の、エリナさんだ。


「いらっしゃいませ、エリナさん」。

今日も、騎士団の訓練帰りですかと俺は尋ねた。

彼女は、こくりと頷くといつもの窓際の席に静かに腰を下ろす。

「ええ、最近新しい団長が就任なされて」。

訓練が、以前よりずっと厳しくなったのですわと彼女は少し疲れた顔で言った。

その美しい顔には、わずかに疲労の色が浮かんでいる。


「それは、大変ですね」。

何か、お飲み物でもいかがですかと俺は尋ねた。

「ええ、いつものコーヒーをお願いしますわ」。

彼女が、そう言いかけた時だった。

俺は、彼女の言葉を遮るように一つの提案をする。

「でしたらエリナさん、ちょうどできたての新作メニューがあるのですが試してみませんか」。

きっと、今のあなたにぴったりの飲み物ですよと俺は言った。

俺の言葉に、彼女は少しだけ興味を引かれたように目を細める。


「まあ、ケンジ様がそこまでおっしゃるのなら」。

ぜひ、いただいてみますわと彼女は微笑んだ。

俺は、ルナリアと顔を見合わせてにっこりと笑う。

そして、淹れたてのハーブティーを彼女の元へと運んでいった。

「どうぞ、ルナリアさん特製のハーブティーです」。

俺がそう言うと、エリナさんは少しだけ驚いたようにルナリアの顔を見た。

ルナリアは、少しだけ恥ずかしそうに頬を赤らめてぺこりとお辞儀をする。


エリナさんは、目の前のカップから立ち上る優しい香りにほうっと息をついた。

「まあ、なんて心を落ち着かせてくれる香りなのでしょう」。

彼女は、そう言うとゆっくりとカップに口をつける。

一口、また一口と味わうように飲んでいった。

やがて、カップが空になる頃には彼女の表情はすっかりと和らいでいる。

店に来た時の、あの疲れたような雰囲気はもうどこにもなかった。

「素晴らしいですわ、ケンジ様」。

体の疲れが、完全に吹き飛んでしまいましたと彼女は驚きの声を上げた。

「それに、頭の中がとてもすっきりとしています」。

剣の修行で行き詰っていた部分の、答えが見えたような気がしますわと彼女は続けた。

その瞳は、以前にも増して強く澄んだ輝きを放っていた。


「お口に合ったようで、何よりです」。

俺が言うと、ルナリアも嬉しそうに微笑んだ。

「ええ、これは素晴らしい飲み物ですわ」。

ぜひ、騎士団の仲間たちにも飲ませてあげたいくらいですとエリナさんは言った。

彼女は、すっかりこのハーブティーが気に入ったようだった。

俺たちが、そんな和やかな会話を楽しんでいたその時だった。

店の外から、何やら騒がしい物音が聞こえてきた。

ざわざわとした、たくさんの生き物の気配がする。


「なんだ、どうしたんだろうな」。

俺は、不思議に思って店の窓から外の様子をそっと覗き込んだ。

そこには、信じられないような光景が広がっていた。

店の前の、小さな広場。

そこに、この森に住んでいるであろうたくさんの動物たちが集まってきていたのだ。

リスやウサギ、小鳥に鹿までいる。

まるでおとぎ話の一場面のように、様々な種類の動物たちが不安そうに鳴き声を上げていた。

その数は、ざっと数えても百匹は超えているだろう。

彼らは、何かにひどく怯えているようだった。


「まあ、どうしたのでしょうあの子たち」。

エリナさんも、窓の外の様子を見て驚きの声を上げた。

動物たちは、まるで助けを求めるように店の周りを取り囲んでいる。

その中の一匹の、小さなウサギが店のドアを前足でかりかりと引っ掻いていた。

俺は、何かただならぬことが起きているのを感じる。

俺は、店のドアをゆっくりと開けた。

すると、動物たちは一斉に俺の方を向く。

そのつぶらな瞳には、確かな恐怖の色が浮かんでいた。


「ケンジさん、私が話を聞いてみます」。

ルナリアが、一歩前に進み出た。

彼女は、店の前にしゃがみ込むと集まってきた動物たちに優しく話しかけ始める。

彼女の口から紡がれるのは、人間には理解できない不思議な言葉だった。

おそらく、古代からエルフに伝わる動物たちとの対話の方法なのだろう。

動物たちも、彼女の言葉に答えるように様々な鳴き声を上げた。

しばらくの間、そんな不思議な会話が続いていく。

やがて、ルナリアは真剣な顔で立ち上がった。


そして、俺たちの方を振り返る。

その顔には、今まで見たことのないような険しい表情が浮かんでいた。

「ケンジさん、大変です」。

この森の奥深くに、とても邪悪な気配を放つ魔物の群れが現れたそうですと彼女は言った。

「邪悪な魔物の、群れ」。

エリナさんが、厳しい声でそう繰り返した。

「はい、その魔物たちは森の木を枯らし、川の水を汚していると」。

森の生態系そのものを、破壊しようとしているみたいですとルナリアは続けた。

動物たちは、その魔物たちから発せられる邪悪な瘴気に耐えきれなくなった。

そして、自分たちの住処を追われてこの店まで逃げてきたのだという。


「なるほど、それでこんなに怯えていたのか」。

俺は、納得して頷いた。

この店には、俺の癒やしの力が満ちている。

動物たちは、それを本能で感じ取って助けを求めてきたのだろう。

「その魔物の正体は、分かるのかしら」。

エリナさんが、冷静に尋ねた。

ルナリアは、少しだけ悲しそうな顔で首を横に振る。

「いえ、動物たちも遠くからその気配を感じただけで」。

その姿を、はっきりと見たわけではないそうです。


ただ、とても大きくて数も多いということだけは分かると彼女は言った。

「そう、分かったわ」。

エリナさんは、静かにそう言うとすっと立ち上がった。

その手は、いつの間にか腰に差した愛剣の柄を強く握りしめている。

「ケンジ様、私はこれからその魔物の調査に向かいます」。

冒険者として、この森の平和を乱す者を見過ごすわけにはいきませんわと彼女は宣言した。

その瞳には、Aランク冒険者としての強い誇りと使命感が宿っている。


「危険ですよ、エリナさん」。

相手の正体も、数も分からないのですよと俺は言った。

だが彼女は、静かに首を横に振る。

「だとしても、行かねばなりません」。

これが、私の仕事ですからと彼女は微笑んだ。

その笑顔には、一切の迷いもなかった。

俺は、そんな彼女の強い意志を見て覚悟を決める。

この問題は、もはや彼女だけの問題ではない。

この店は、この森と共にあるのだ。

森の平和が乱れれば、この店の穏やかな日常もいずれ脅かされることになるだろう。


それに、怯えているこの小さな動物たちを見捨てるなんて俺には到底できない。

「分かりました、エリナさん」。

俺も、一緒に行きますと俺は言った。

俺の言葉に、彼女は少しだけ驚いたように目を見開く。

「ケンジ様、ですがあなたは」。


「俺は、この店のマスターです」。

店の平和と、お客様の安全を守るのも大事な仕事の一つですよと俺は言った。

俺がそう言うと、彼女は嬉しそうに微笑んでくれた。

「ありがとうございます、ケンジ様」。

あなたがいれば、百人力ですわと彼女は言った。

こうして俺とエリナさんは、森の奥に潜む謎の魔物退治へと向かうことになった。

俺は、店の留守をルナリアとゴブきちに任せる。

そして、エリナさんと一緒に森の奥深くへと足を踏み出す準備を始めたのだった。

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