第23話
「では気を取り直して、次はお客様にお水を運ぶ練習をしましょうか」
俺は、そう提案した。
テーブルを拭くだけでこれだから、水を運ぶのはさらに危険な気がする。
だがこれも、きっと良い経験になるだろう。
俺は厨房へ向かい、ガラスのコップに綺麗な水を注ぎ始めた。
そしてそれを、一枚の木製トレイの上に乗せる。
「さあセレスティーナ様、これをあちらのテーブルまで運んでみてください」
俺が、にこやかにそう言った。
セレスティーナ様は、初めて見るトレイという道具を不思議そうに見つめる。
「この板の上に、コップを乗せて運ぶのね」
簡単そうだわ、と彼女は自信たっぷりに言った。
彼女は、トレイを片手でひょいと持ち上げる。
その瞬間、トレイがぐらりと大きく傾いた。
コップの中の水が、ちゃぷんと音を立てて大きく揺れる。
「きゃっ」
彼女は慌てて、反対の手を添えて何とかバランスを取った。
見ているこっちが、ひやひやしてしまう。
「お嬢様、トレイは両手でしっかりと持つんでさあ」
ガルドが、心配そうな様子で助言を送った。
「分かっているわよ、これくらい」
彼女は、少しだけむっとした顔でそう言い返した。
そしてそろりそろりと、慎重な足取りでテーブルへと向かう。
その姿は、まるで綱渡りをしているかのようである。
数歩進んだところで、またしても彼女の足が何もないところでもつれた。
体が、大きくぐらりと傾く。
トレイの上のコップが、滑り落ちそうになった。
まさに、その危ない瞬間だった。
今まで部屋の隅で石像のように控えていた、護衛のオーギュストが動いた。
彼の、あの大きな体が信じられないほどの速さで動く。
まるで風のように、セレスティーティーナ様の背後へと回り込んでいた。
そして滑り落ちる寸前のコップを、その大きな手で優しくつかみ取る。
さらに倒れそうになる彼女の体を、もう片方の腕でそっと支えていた。
その一連の動きは、あまりにも滑らかで完璧だった。
まさに、達人の技としか言いようがない。
店の中にいた俺たちは、その見事な助けにただただ感心するしかなかった。
「お嬢様、お怪我はございませんか」
オーギュストが、いつもの無表情な顔で静かに尋ねる。
セレスティーナ様は、自分が失敗したことに気づくと顔を真っ赤にした。
「な、なによオーギュスト! 余計な、手出しはしないでちょうだい!」
彼女は、助けてもらったにもかかわらずなぜか怒っているようだった。
自尊心が、ひどく傷つけられたのかもしれない。
「私一人で、ちゃんとできるのだから!」
彼女はオーギュストの手から、コップをひったくるように取り返した。
そして再び、テーブルへと向かって歩き始める。
その足取りは、さっきよりもさらにぎこちないものになっていた。
結局テーブルに着くまでに、三回も水をこぼしかけた。
そのたびに、ぷるんが素早く床を掃除して回る。
ようやくテーブルにコップを置けた時、彼女の額には汗がびっしょりと浮かんでいた。
「はあ、はあ。どう、かしら」
彼女はやり遂げたという達成感に、満ちた顔で俺の方を振り返る。
俺は、苦笑いをしながら拍手をして見せた。
「ええ、初めてにしては上出来ですよ」
俺がそう言うと、彼女は「ふふん」と得意げに胸を張った。
本当に、分かりやすいお嬢様だ。
「では、次は注文を取る練習をしましょうか」
俺が提案すると、彼女はこくりと頷いた。
「お客様役は、ガルドさんとエリナさんにお願いしましょう」
俺がそう言うと、二人は分かったとばかりに席に着いた。
ガルドは、わざと足を組んでふんぞり返っている。
いかにも、態度の悪い客といった感じだ。
「さあ、どうぞ」
俺が促すとセレスティーナ様は、少しだけ緊張した顔で二人のテーブルへと向かった。
そして、メモ帳とペンを手に取る。
その姿だけは、すっかり一人前のウェイトレスだった。
「ご、ご注文は」
彼女が、か細い声で尋ねる。
ガルドはそんな彼女を試すように、わざと横柄な態度で言った。
「お、そこの姉ちゃん。水のおかわりだ、さっさと持ってきやがれ」
その言葉を聞いた瞬間、セレスティーナ様の顔つきが変わった。
彼女の、美しい眉がぴくりとつり上がる。
さっきまでの、緊張した表情はどこかへ消えていた。
そこには、いつもの偉そうでわがままなお嬢様の顔がある。
「あなたねえ、お客様だからといってその態度は何なのかしら」
ウェイトレスに対して、あまりにも失礼ではなくて?と彼女は言った。
彼女は、完全にいつもの調子を取り戻していた。
ガルドは、彼女のそのすごい迫力に「ひっ」と情けない声を上げる。
エリナさんは、そんな二人のやり取りを見てくすくすと楽しそうに笑っていた。
俺は、やれやれと頭を抱える。
「セレスティーナ様、お客様にはあくまで丁寧な言葉遣いでお願いします」
俺が、カウンターの中からそっと注意した。
彼女は、はっと我に返ると少しだけ気まずそうに顔を赤らめる。
「わ、分かっているわよ、これくらい」
彼女は、咳払いを一つすると無理やり笑顔を作った。
そして、ぎこちない敬語でガルドに話しかける。
「お、お客様。お冷で、よろしかったでしょうかしら」
その言葉遣いは、あまりにもぎこちなくて聞いているこっちが恥ずかしくなるほどだった。
ガルドは笑いをこらえるのに必死で、肩をぷるぷると震わせている。
「ああ、そうだ。それと、この店で一番美味いものを何か持ってきてくれ」
ガルドが、さらに注文を続けた。
セレスティーナ様は、メモ帳に何かを書こうとする。
だが彼女は生まれてこの方、文字というものを自分で書いたことがないのだろう。
ペンの持ち方すら、おかしかった。
ミミズが這ったような、謎の記号がメモ帳に描かれていく。
それを見た俺は、もう何も言う気がしなくなってしまった。
このお嬢様に、ウェイトレスの仕事は早すぎたのかもしれない。
そんな俺の心配をよそに、セレスティーナ様は次の行動に出た。
「もう、まどろっこしいわね」
私はケンジみたいに、あの奇跡のコーヒーを淹れてみたいの!と彼女は言い出した。
彼女は、注文を取る仕事をあっさりと放棄した。
そして俺がいる、厨房の方へとずんずんと歩いてくる。
「ケンジ、私にコーヒーの淹れ方を教えなさいな」
彼女は、目をキラキラと輝かせながらそう言った。
その瞳は、新しい遊びを見つけた子供のように純粋な好奇心で満ちている。
俺は、心の底から大きなため息をつきたくなった。
「それは、まだ早いですよ」
コーヒーを淹れるのは、とても繊細な作業なんですと俺は言った。
俺がやんわりと断ると、彼女は不満そうに頬を膨らませた。
「嫌よ、絶対にやるんだから」
あなたがお手本を見せれば、私にだってできるはずだわと彼女は言う。
彼女は、全く言うことを聞いてくれない。
こうなったら、もう好きにさせるしかないのだろうか。
俺は、ガルドとエリナさんに助けを求めるような視線を送った。
だが二人は、面白そうににやにやと笑っているだけだった。
完全に、他人事だと思っているらしい。
俺は、諦めた。
「……分かりました、ですが俺の言うことをちゃんと聞いてくださいね」
俺がそう言うと、彼女は「ええ、もちろんよ」と嬉しそうに頷いた。
俺は、彼女を厨房の中へと招き入れる。
そしてコーヒーを淹れるための道具を、一通り説明していく。
「これが、豆を挽くためのミルです」
「これが、お湯を注ぐためのポットですね」
彼女は、初めて見る道具の数々に興味津々といった様子だった。
「ではまず、豆を挽くところからやってみましょうか」
俺は、焙煎したばかりのコーヒー豆をミルの中に入れた。
そして、彼女にハンドルの持ち方を教える。
「ゆっくりと、同じ速さで回すのがコツですよ」
俺がそう言うと、彼女はこくりと頷いた。
そして小さな手で、一生懸命にハンドルを回し始める。
だがやはり、力の加減が分からないらしい。
ものすごい勢いで、ハンドルを回し始めた。
ガリガリガリ、と嫌な音が響き渡る。
「ちょ、ちょっと待ってくださいセレスティーナ様!」
そんなに力を入れたら、ミルが壊れてしまいますと俺は慌てて彼女を止めた。
ミルの中からは、挽いたというより砕けたような豆の破片が出てくる。
これでは、美味しいコーヒーは淹れられない。
「もう、うるさいわね」
こうすればいいんでしょう、と彼女は少しむっとしていた。
俺は、仕方なく彼女の後ろに立った。
そして彼女の手に、自分の手をそっと重ねる。
「こうやって、優しく回すんです」
俺が、耳元でそう囁いた。
その瞬間、彼女の肩がぴくりと小さく震えたのが分かった。
俺たちの距離は、思った以上に近い。
俺の吐息が、彼女のうなじにかかっているかもしれない。
彼女の銀色の髪から、とても甘くて良い香りがした。
俺は急に、心臓がどきどきと音を立て始めるのを感じる。
セレスティーナ様も、俺の存在を意識しているのだろう。
その雪のように白い頬が、ほんのりと赤く染まっているように見えた。
「……こ、こうかしら」
彼女の声は、少しだけ上ずっていた。
「え、ええ。その調子です」
俺も、なぜか緊張してしまってどもってしまう。
二人の間に、なんだか気まずくて甘い空気が流れた。
ゴリゴリという、豆を挽く音だけがやけに大きく厨房に響いている。
ガルドとエリナさんが、カウンターの向こうから面白そうに俺たちの様子を眺めていた。
「若いのう」と、ガルドが茶化すように言うのが聞こえる。
うるさい、と俺は心の中で思った。
ようやく豆を挽き終わると、俺は次の工程へと移る。
「次は、この粉にお湯を注いでいきます」
これは、一番大事な作業ですよと俺は言った。
俺はまず、お手本として一度やって見せた。
お湯を、中心から円を描くようにゆっくりと注いでいく。
ぷっくりと、粉が膨らむ様子はいつ見ても美しいものだ。
「さあ、どうぞ」
俺がポットを渡すと、セレスティーナ様はごくりと唾を飲み込んだ。
そして俺の真似をしながら、慎重にお湯を注ぎ始める。
だがその手は、緊張でかすかに震えていた。
案の定、お湯が勢いよく出すぎてしまう。
注がれたお湯は、フィルターの端から溢れそうになっていた。
「あ、あああっ」
彼女が、慌てた声を上げる。
これでは、コーヒーの美味しい成分が全部流れ出てしまう。
俺はまたしても、彼女の後ろからそっと手を添えてやった。
ポットを、一緒に支えてお湯の量を調整してあげる。
「力を、抜いてください」
もっと、リラックスしないとと俺は言った。
俺の言葉に、彼女はこくりと頷いた。
俺の体に、彼女の華奢な背中がぴたりと寄り添う形になる。
その柔らかな感触に、俺の心臓はもう限界だった。
顔が、火が出そうなくらい熱い。
これは、ただのコーヒー教室のはずではなかったか。
どうして、こんな恋愛ドラマみたいな雰囲気になってしまっているのだろう。
俺たちの、初めての共同作業。
その結果、なんとか一杯のコーヒーらしきものが完成した。
だがその見た目は、俺がいつも淹れているものとは似ても似つかない。
色が、ずいぶんと薄い。
香りも、あまり立っていなかった。
まあ、初めてなのだから仕方ないだろう。
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