第2話

ユウキが目を覚ましたその朝、空は薄いピンク色に染まり、森の葉は朝露に輝いていた。

身体の感覚はまだ慣れず、伸びをすると筋肉がぎこちなく震えた。


「はぁ……」


柔らかな毛皮の感触に包まれながら、ユウキは周囲の様子を確かめた。四足歩行はまだ下手で、ゆっくりとした動作でしか歩けなかった。


小さな丘の上に立ち、深呼吸をする。空気は冷たく、胸の奥まで染み渡るようだった。


「この身体は俺のものじゃない……けど、俺はここにいる」


不思議な感覚だった。人間だった頃には感じたことのない感覚が、全身の毛穴から伝わってくる。

耳は周囲の微かな音を逃さず拾い、鼻は鋭く周囲の匂いをかぎ分ける。


朝の森は、生き物の声で満ちていた。鳥のさえずり、遠くの川のせせらぎ、そして草むらをかき分ける小さな動物たちの足音。


そんな豊かな感覚に戸惑いながらも、ユウキはまず水を飲もうと、森の小川に向かった。


澄んだ水面に映る自分の姿を見て、また胸がざわつく。


「本当に俺はこれなのか?」


それでも喉が渇いていた。ゆっくりと頭を水に近づけて舌を伸ばし、水をすくいあげた。

ひんやりとした感触が、体中に清涼感を与える。


だが、森の静けさは長くは続かなかった。


草むらのざわめきと共に、何者かの影が現れた。


「お前、何者だ?」


鋭い声が響く。振り返ると、そこには筋骨隆々のオオカミ獣人が立っていた。

鋭い眼差しと唸るような低い声に、ユウキは思わず体を硬直させた。


「俺は……」


言葉が詰まる。まだこの身体に慣れていないうえ、相手の威圧感に押されてしまう。


「この村の近くで見慣れぬ奴を見つけた。説明しろ」


オオカミ獣人は歩み寄り、鼻をユウキの匂いに近づけた。

その冷たい視線の中で、ユウキは必死に自分を落ち着かせた。


「俺は……わからない。記憶はあるけど、ここにいる意味がわからない」


声はかすかだったが、誠実さだけは伝えようとした。


「嘘をつくな。お前が敵なら、村は許さない」


オオカミ獣人の言葉に、ユウキの心はますます追い詰められた。

そんな中、さきほどの狐獣人が駆け寄ってきて、間に入った。


「落ち着け、ケン」


狐獣人の名前はケン。彼は村の見張りの一人だった。


「こいつは話を聞くべきだ。人間の言葉を話せるし、見たところ攻撃的じゃない」


ケンの言葉に、ケンの仲間たちも警戒を解き始めた。


ユウキは深く息を吐き、ゆっくりと状況を説明しようと試みた。

しかし、身体の制約もあってか、うまく言葉が出ない。


「人間だったはずだ。でも今は猫獣人の姿で、この世界にいる」


その告白に、一同はざわめいた。


「人間だった……だと?」


ケンが目を見開いた。


「そんなことがあるのか?」


ユウキは肩をすくめる。


「わからない。でも、俺はここで生きていかなきゃならない」


その言葉に、ケンは小さく頷いた。


「ならば、まずはこの村で暮らすことだな。慣れなくても手伝おう」


ユウキは少しだけ安心した。


しかし、慣れない身体は容赦なく彼を襲った。


歩くのもままならず、手の爪が地面に引っかかり転びそうになる。

食べ物も人間の時とは違い、肉や魚をどうやって食べればいいのか戸惑った。


「こんな身体で、本当に大丈夫なのか……」


夜になり、焚き火の前で毛布にくるまりながら、ユウキは自問した。


だが、ケンがそっとそばに来て言った。


「最初は誰だってそうだ。俺もそうだった」


ケンの言葉は優しく、暖かかった。


「ゆっくりでいい。お前のペースで、ここで生きていけばいい」


その言葉に、ユウキは少しだけ勇気をもらった。


新しい身体と新しい世界。




村での暮らしにも少しずつ慣れてきた頃、ユウキの心はざわつき始めていた。

ある夜、焚き火のそばで目を閉じていると、ぼんやりと過去の記憶の欠片が断片的に浮かんでは消えていく。


学校の教室のざわめき。友人たちの笑い声。

遠い日の家族の温かい食卓。

そして、あの事故の瞬間。強烈な光と共に、何かが壊れる感覚。


「これは、俺の過去だ……」


だが、はっきりとした全貌は見えず、ただ感情だけが強く残っていた。

人間としての記憶と獣人としての現実の狭間で、心が引き裂かれそうになった。


翌朝、ユウキは決心した。

「この世界で生きていくには、過去を整理しなければならない」


そこでケンに相談すると、ケンは優しく頷いた。

「お前が探しているものは、この村の外にあるかもしれない」


村は小さく、森に囲まれているが、少し離れた場所には他の集落や古い遺跡もあるという。

ユウキは小さな荷物をまとめ、旅立ちの準備を始めた。


旅立ちは寂しさもあったが、同時に新しい希望の光でもあった。

ケンや村の仲間たちは見送りながらも、無理はするなと声をかけてくれた。


ユウキは四足で歩きながら、過去の記憶を手繰り寄せるように心を集中させていた。

だが、獣人の身体はまだぎこちなく、長い距離の移動は想像以上に疲れる。


途中、小さな町に立ち寄った。

そこでは様々な種族が入り混じり、商人や旅人たちが行き交っていた。

ユウキはその喧騒に圧倒されつつも、自分の居場所を探そうとした。


しかし、人間の姿ではない彼に対して、冷たい視線や警戒の目が向けられた。

言葉は通じるものの、獣人への偏見は根強かった。


「人間に戻りたい」


その願いが、ますます強くなった瞬間だった。


旅の中で、ユウキは少しずつ仲間も増やしていく。

狐獣人のケンをはじめ、優しい獣人たち。

中には、過去に獣人と人間が争った歴史を知り、複雑な感情を抱く者もいた。


そんな中、ユウキは一つの決意を新たにした。


「人間に戻る方法を見つける」


そのために、まずはこの世界のことを知り、強くならなければならない。


獣人の身体で生き抜きながら、人間としての記憶と感情を取り戻すための長い旅が、ここから本格的に始まるのだった。

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