特別編 そのぬいぐるみは最愛



 ――それは、ゆっくりと時間を掛けて浸潤してゆく毒だ。




 滅多に顔を出すことのなくなった女官が、珍しくも離宮に訪れたのは、初雪の降った日の早朝だった。


 

 よろしければ是非に可愛がってやってくださいませ、と手渡されたのは、ひと抱えもある大きさの、いかにも幼子が喜びそうな水色の金蜜の瞳をした竜のぬいぐるみだった。


 その女官は、数少ない私に同情らしきものを寄せている者のうちの一人だった。

 偶然に知ったことではあるが、私と同い年の息子を持つ母親でもあったからこそ、非道にはなりきれなかったのだろう。半端な優しさは、時に取り返しのつかない過失となることも知らずに。


 いくら幼かったからとはいえ、何度も悪意に晒されてきた私は、それを自分が手にすることの意味を充分に理解していた。


 一瞬の躊躇は、どちらのものだっただろうか。


 私が、それを受け取ろうが拒もうが、おそらく、その女官には終焉へと続く道しか残されていないことだろう。

 だが、息子を盾に脅されたに違いないその女官は、ただ一片の希望に縋って、私にぬいぐるみを差し出している。

 

 であるならば、私は、何も言わずに受け取ってやるほかなかったのである。


 

 そうして、ぬいぐるみを手にしてから徐々に体調を崩す日が増えた。

 初めて熱を出した。

 時折、手足が痺れるようになった。

 なにしろ体力や魔力に自信があった為、これまで病らしい病に罹ったことは無かったので、自身の身体の変化に戸惑いを覚えた。

 

 ぬいぐるみには、緩慢に死へと至る呪術が付されている。


 知っていてなお、そのぬいぐるみを傍に置き捨てられなかったのは、幼かった所為でもあり、初めてだったからだ。

 乳母が目の前で殺されてからは言葉を交わす者もなく、誰からも捨て置かれていた私が、何某かの感情を見える形で受け取ったのは。

 嫌悪に憎悪に殺意。

 そんなものでも、どんなものでも私は嬉しかったのだ。忘れられていないのだと、同時にぬいぐるみが手元にあるだけで、自身の存在を確かめることが出来たから。


 やがて、呪術の緩慢さに業を煮やした王妃が刺客を送り込んで来るようになると、ぬいぐるみは姿を消してしまった。


 


 『幸せの呪いを掛けに来ました!』



 どのくらいの月日が流れたことだろう。

 唐突に、普遍と思われた日常を破ったのは、再びの水色の竜のぬいぐるみだ。

 まさかあの時のぬいぐるみに、命を与えようとする者がいたとは、考えもしなかった。

 掴み上げれは、背の翼が千切れかけのその奥に、呪術符が見えた。あの日、私を呪い殺す筈だった呪符は、既に効力を失っている。


 では、この者が言う幸せの呪いとは。


 理解出来ぬまま、共に過ごした。

 自分以外の誰かが傍にいる生活は、賑やかで煩わしく時に胸の奥が痛む。


 そして胸の痛みは日増しに強くなり、溢れてきそうな何かを感じるようになった。

 私はきっと、どこか壊れてしまったに違いない。


 夜になり深夜を過ぎる頃、ぬいぐるみは姿を変える。

 並んだ寝台の上で、眩いほどの魔術残滓の燦きが落ち着いた先にあるのは、嫋やかな白い手脚を投げ出して眠る女人だ。

 艶のある長い髪は黒く、まろい頬は滑らかで、ふっくらとした薔薇色の唇が薄く開き静かな呼吸が聞こえる。

 いつまでも見ていたいと思うのに、いくつか瞬きをしているうちに、いつだって姿は元に戻ってしまう。


 夜更けに姿を変えることを、本人は知らないらしい。


 彼女との毎日は、おはよう、の挨拶から始まり、おやすみ、で終わる。

 春の日差しのような日々。だがこれは、仮初の日常。


 そのうちに、こんなところに、彼女を引き留めて置いてはいけないと思うようになった。何故かは、分からない。それでも、彼女を自由にするべきだと思った。私の未練が、彼女を雁字搦めにする前に。


 彼女の呪いは、まるで毒のようにゆっくりと私に浸潤していたのだ。


 何故なら私は、これまで寂しくなかった。孤独であることは寂しいことではなかったから。しかし、彼女が現れて孤独でなくなった私は、この先にきっと、寂しさを知るだろう。彼女と一緒に居れば、彼女が居なくなれば、私はこれまで名前のつけられなかった感情の全てを知ることだろう。


 呪い殺されるのも、悪くない。


そう思っていたのに――

 


『貴方は、ほらもう、どこにだって行ける。誰にだってなれるし、どこでだって生きていける』










「ごめん、ごめんってば。もう余所見しません。あー、天才魔術師さん? 怒ってる?」

「…………怒っては、いない」


 雑踏に溢れる市場で、興味のある物を見つけるたびに別の方向へ流されて行ってしまいそうになる彼女は、片時も目が離せない。

 半ば不貞腐れ困ったような顔をして私を見上げる彼女に、心配したのだ、とその柔らかな手を取れば頬を赤く染めた。


「なんで、手を繋いで歩くの」

「人型にはまだ慣れていないのであろう?」

「確かに、ぬいぐるみではありましたが、言い方!」

「迷子になったら困るからな」

「子供じゃないんですけど」

「だったら尚更だな」


 爽やかな風に彼女の黒髪が揺れる。

 私が自由に生きる為の陣は、同時に、彼女をぬいぐるみの姿から解き放つものでもあった。


「それにしてもまさか、思うもの全部を成功させるなんて、ホント天才なんだね」

「いや、私は単に欲が深いのであろう」


 どこか困惑げな様子で小首を傾げる彼女のまろい頬を、指の背で撫で上げる。


「生きる為に私が自由に望んでよいのならば、それは君と共にあることだったのだから。故に、君に私を忘れられたくなかった。私と過ごした日々を忘れて欲しくなかった。君のその姿をいつまでも見ていたかった」

「……ふうん? まあ、ぬいぐるみだと何処にでもずっと一緒に、とはいかないしね?」

「ずっと一緒には居られるだろう。だが、人型でなければ君を伴侶には出来ないだろうからな」


 何を言われているのか、分からないのだろう。ぽかん、と間抜けな顔で口を開けている彼女に向け、ふと、笑みが溢れる。


 瞬きをする彼女の瞼に、万感の思いを込めて、そっと唇を落とした。



 私は幸せを、知るだろう。

 それは紛れもなく、彼女の呪いに違いなかった。



 



《了》

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転生したらぬいぐるみとかアリですか 石濱ウミ @ashika21

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