引っ越し先で出会った美女たちに、溺愛された話

Salt

第1話 結衣と裕斗 1


「ここか……」


 3月の初め、休日の夕暮れ。

 林田裕斗はやしだひろとは千葉の中央部に位置するある街へと降り立った。


 4月から通う高校がこの街にあり、中学を卒業したばかりの裕斗は、東京の実家を離れ、今日から一人暮らしが始まる。

 それなのに、裕斗の顔はどこまでも暗かった。


「小さくていいって言ったのに……」


 ため息まじりに、空を見上げる。


 街並みに似合わないほどの巨大な建物。

 冷たく硬そうなコンクリートの壁。


 狭くて安いアパートがいい――そう伝えたつもりだったが、希望が通ることはなかった。


 裕斗の父は、引っ越しの段取りを昔から付き合いのある不動産会社の社長に丸投げし、物件選びから契約、搬入まで、全て一任した。


「入るか……」


 キャリーケースを引きながらエントランスを通る。


『ただいまエレベーター故障のため修理工事中です。しばらくの間、階段をご利用ください』


 正面のエレベーター近くに雑に貼られた紙を目にすると、裕斗は小さく頷き、キャリーのハンドルを握り直す。


――裕斗の人生は、毎度のことながら、予想外のハプニングがつきまとってやまない。


「これ、行けるか?」


 部屋があるのは6階。

 昨年いろいろあって、今の裕斗の体はすっかり弱りきっていた。不安を感じながらも、裕斗はとりあえず荷物を抱えて階段を上がる。


「……しんど」


 2階に着くと、裕斗は一度足を止める。

 すでに息は切れ、汗が出はじめる。あと4階……そう思うと、裕斗の顔から血の気が引いていく。


「……いくか」


 立ち止まれば余計に辛くなる気がして、そのまま足を進める。けれど、4階に差しかかる途中で、再び足が止まった。


「……」


 数段上。手すりにもたれ、タバコをふかすひとりの女性がいた。その目は生きてるのか死んでるのか、ただひとえに虚空に向かっている。


 夕日に照らされ、金色の髪が風にゆらりと揺れる。露わになる整った顔立ちに、裕斗は一瞬で視線を奪われた。


 女性は裕斗にとって、あまりに刺激的すぎた。いや、男からすれば誰もが惹かれてしまうタイプ。


 思わずキャリーを床に下ろしてしまい、その音に女性が振り返る。


「あ、すみません。邪魔ですね」

「……全然です。気にしないでください」


 ちょっと危ない雰囲気を漂わせた女性は、見下ろすように裕斗を見た。

 切れ長にも見えるその鋭い瞳は、簡単に裕斗の心を掴み、その場から動けなくさせる。


 夕日に照らされた女性は、ゆっくりと煙を吐きながら、観察するように裕斗を眺めつづける。


 同じように、裕斗も女性を眺めつづけた。

 小さく整った輪郭に、大きく鋭い瞳。すっと通った鼻筋にふっくらした唇。オフショルのニットからのぞく白く細い肩を、夕日がやさしく照らしていた。


「今日、越してきたんですか?」

「そ、そうです」

「6階まで行くんですよね?」

「……どうしてそれを?」

「管理人さんから聞いてません? 同じ日に隣同士で入居する人がいるって」

「隣?!」


 思わず、裕斗の声が大きくなる。

 女性の足元にはキャリーケースと、その上に置かれたボストンバッグ。


橘結衣たちばなゆいです。お隣さんは?」

「林田裕斗です」

「林田さん、よろしくお願いします。

 ところで林田さんは、今いくつなんですか?」

「15です」

「へ〜若い。10個も離れてるんだ」


 結衣ら裕斗の年齢を聞いた途端、面白い遊び相手を見つけたかのように、体の方向を裕斗に向けた。


「どうして一人暮らしを?」

「東京に住んでた頃、……色々あって」

「たった2〜3個で使う“色々”じゃなくて、ほんとに色々あったんだね」


 その一言に、裕斗の胸がぎゅっと締め付けられる。過去の記憶が蘇ってきそうになって、目を強くつむった。


 結衣は表情を変えずに、裕斗を見つめる。


「大丈夫? 君、だいぶ無理してるでしょ」


 タバコを切らした結衣は、パンツのポケットからタバコの箱を取り出した。


 再び目を開けた裕斗は、結衣の手に持つタバコに目がいく。


(たしか、あれは……)


 育った環境の影響もあって、多少タバコに詳しい裕斗は、その箱を何度も見たことがあった。


 ある女性が吸っていた。

 その人も、ちょうど結衣と遜色ないほど綺麗で、雰囲気もどこか似ていた。


「タバコ、興味あるの?」


 1本取り出した結衣が、その場にたたずむ裕斗に問いかけた。

 結衣は裕斗の動きや、目線の変化を見逃さない。


「……」

「興味あっても、やめた方がいいよこんなの。

 みーんな吸い始めたことを後悔してるよ」


 そう言いつつも、当の本人の顔には後悔の色はまるでない。何もかもがどうでもよさそうに見える。


「吸ったことある?」

「ないです」

「意外!」

「その答えが意外です」

「そりゃそうだ」


 結衣は微笑みながらバッグをあさり、ライターを探す。けれど、ふとした拍子にライターを床へ落としてしまった。

 かなりの勢いで落ち、階段を伝った結果、裕斗の近くに身をとどめる。


「ごめん、拾ってくれる?」


 結衣はわざとらしく、そう口にした。


 裕斗は言われるままに拾い上げ、数段登って結衣のそばへ近づく。

 こうなることはわかっていたが、至近距離で結衣を見た裕斗は、見とれた。見とれない方がおかしい。おそらく自分の理想のタイプと被っているのだろう。


「見すぎ」


 思わず苦笑した結衣は、すでにタバコを口にくわえていた。


「火、つけますね」

「うん」


 親指を強く下に押して火をつけると、軽く手で覆うように結衣の口元へ近づける。


「センキュー」


 結衣は少しかがんで、火を受け取った。


 すぐさま漂い、鼻をかすめるその香りに、裕斗は懐かしさを感じる。


「手馴れてるね」

「褒め言葉としては、あまり嬉しくないです」


 裕斗の動きはあまりに自然だった。

 それは、日々の生活の中でいつのまにか身についた癖のようなもの。幼い頃から、いろいろな人につけていた。


「ねえ。私の吸いかけでよければ、これ吸ってもいいよ」


 結衣はタバコを口から外し、裕斗の唇の前に差し出した。

 唇が触れていた部分は、リップで赤く変色している。


「自分、まだ未成年です。それに吸いたいとも……」

「でも君、会ったときからずっと辛そうだよ」


 その一言に、裕斗は何も言葉が出なかった。こんな美女に面と向かって言われると、感情の整理もつかない。


「自分、すごいわかりやすいよ。

 しんどかったら、楽になるか、より苦しくなるしかないんだから、1回ずつ吸ってみれば。たぶん君、むせて苦しくなるよ」


 結衣は裕斗の手を取ると、タバコを持たせ、その手を自分の口元へと持っていく。


「始める理由なんて希薄だよ。みんな後先考えてないんだから、そんな難しい顔しないで」


 結衣は裕斗の持つタバコに唇を寄せて煙を吸うと、ゆっくりと吐いてみせた。

 その美しい光景を、裕斗は時間も言葉も忘れて見とれる。


「吸い方はこんな感じ。あとは任せるけど……

 きっと君の人生よりかは甘いと思うよ」


 結衣は手を離した。

 その唇には、さっきよりも濃く、艶やかなリップの跡が残っていた。

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