第37話「怪物の秤――恐れを担ぐ歌」
夜の広場に焚き火が三つ並んだ。
火の周りに集まったのは、秩序に背を向けた人々。彼らは口々に言った。
「帳簿は怪物だ」
「秩序は人を喰う」
「重みを記すほど、街は冷たくなる」
怪物――その言葉は早かった。数字を刃に変えられた痛みが、言葉を媒介にして恐れの形を取ったのだ。
人々は秩序を怪物と呼び、逃げる理由を見つけようとしている。
ユイは火を見つめ、低く言った。
「こわいんだよね。……でも、怪物のまま逃がしたら、ほんとうに喰われちゃう」
俺は頷いた。
「怪物を秤に載せる。恐れを計り、共に担ぐ」
翌朝、政庁は「怪物」という言葉を禁止する布告を出した。
だが、禁止は火に油を注ぐ。
「怪物」と呼ぶ声は地下水のように広がり、子どもの遊び唄にまで混じるようになった。
> かいぶつが
> かいぶつが
> よるにでて
> ひとをたべるよ
遊び唄は震えと笑いを同時に運び、広場に影を落とす。
俺は胸の痣に触れた。影獣が小さく唸り、**“恐れの形”**を探している。
午後、風読台で「恐れの秤」が試された。
ディールが新しい票を掲げる。
「恐れ欄」――恐れを言葉や絵で残す欄だ。
ユイが子どもたちに呼びかける。
「こわいって言葉を、恥ずかしがらなくていいよ。怪物を“こわい”って書こう」
最初に手を挙げたのは、灰の旗の男だった。
「俺は、数字がこわい」
ディールが欄に書く。「数字=背を折る刃」
次に母親が言った。
「夢が消えるのがこわい」
欄に記す。「夢=流れる砂」
子どもたちは炭筆で怪物を描いた。
「口が三つ」「手が八つ」「目がない」
描かれた怪物は、恐れの写しだ。
ユイが笑って言った。
「こわい怪物は、見える怪物になる。見えたら秤に載せられる」
夕暮れ、裂け目が広場の真ん中に開いた。
黒い影が人の背丈を超えて立ち上がり、巨大な口が現れる。
「……記録は喰う。秩序は喰う」
声は怪物の囁きであり、広場に響く恐れそのものだった。
人々が叫んで逃げる。
俺は影獣を呼び、前へ出た。
「怪物よ、秤に乗れ!」
怪物は笑った。「秤こそ怪物!」
そのときユイが台に駆け上がった。
「じゃあ歌おう! 怪物も歌にする!」
子どもたちが声を揃える。
> かいぶつは
> かいぶつは
> よるをあるくよ
> でもひとりじゃない
> となりでうたうよ
歌声に合わせ、恐れ欄が光った。
怪物の影は歌に引き寄せられ、姿を少し変える。
口の裂け目は縮み、子どもの描いた絵の形に収まった。
「三つの口、八つの手、目のない顔」
怪物は暴れるのをやめ、ただ震えながら秤の上に沈んだ。
夜、詰所に集まった政庁と神殿の代表は険しい顔だった。
「怪物を秤に載せるなど、前代未聞だ」
「恐れを記録するのは危険だ」
だが群衆は広場で静かに歌を続けている。恐れを歌にすることで、逃げずに立っていられるのだ。
エリシアが言った。
「秩序は数字や記録だけでなく、恐れすら秤にかけられると示した。これを認めなければ、怪物は秩序の外で育つ」
影術師が頷く。「怪物は秩序の敵ではない。秩序の裏面だ」
王位影紋の箱が熱を帯びた。
触れると、遠い王たちの恐れを封じた記憶が震えとして伝わる。
俺は箱に囁く。
「封じるのではなく、歌わせる。怪物の重さを人と分け合う。それが新しい秩序だ」
箱は重くなり、やがて静かに温かさを返した。
深夜。
ユイは毛布から顔を出し、眠そうに聞いた。
「ねえ、おじさん。もし怪物がもっと大きくなったら?」
俺は笑って答えた。
「そのときは、歌も大きくすればいい。秤は壊れない。声が重さを分けるから」
ユイは満足そうに目を閉じた。
外ではまだ、子どもたちの歌が小さく響いている。
恐れは秤に載った。怪物は、歌の中にいる。
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