第32話「意味を奪う刃――空文(からぶみ)の祈祷」

 沈黙帳が公の記録となった翌朝、王都はひと呼吸だけ静けさを覚えた。

 風読台の鐘は規則正しく鳴り、子どもたちは「速・深・返」の三段で読みを回し、三重帳の欄には新しい数字が穏やかに積み重なる。

 ——秤は回り始めた。沈黙すら秤に乗せられるなら、次は何が来ても受け止められる。誰もがそんな希望を、胸のどこかに灯していた。


 その希望を、最初に薄く削いだのは、正しい文言だった。

 南市の契約場で、穀倉の賃借契約を結ぶ男たちの前に、神殿から派遣された祈祷師が現れ、条文を「読み上げて」祈祷の印を押した。

 条文は確かに読まれ、紙は確かに残り、印も捺され、皆うなずいた。だがその場を出た瞬間から、誰も条文の意味を覚えていない。

 覚えているのは、「条文が読まれた」という事実だけ。

 契約場の空気は薄く冷え、頷きの重みがどこかへ流れた。


 午後、詰所へ駆け込んできたのは商組の書記だった。

「読まれました。たしかに読まれたんです。条文どおりに」

 書記は額の汗を拭い、乾いた笑いを漏らす。

「なのに、何が約されたのかが、どこにも引っかからない。紙にも、声にも、影にも。残っているのは“読んだ”という跡だけです」


 影術師が目を細めた。

「空文の祈祷(からぶみのきとう)だ。言葉の“皮”だけを立て、重みを抜く式。祈祷は慰めのためのものだったはずが、意味を空にする刃へ変わった」


 ディールが帳面の端を指で叩く。

「三重帳は“同じかどうか”の照合には強い。だが、“重さが抜かれていないか”までは測れない」

 ユイが眉をひそめる。「“やさしい注”で詰める?」

「それもいい」と影術師。「ただ、注は後から縫う縫い目だ。空にされた瞬間を捉える秤がいる」


 胸の痣が静かに熱を帯びた。

 王位影紋の箱は黙ったまま、微かな重みだけを返している。

 俺は息を整え、言った。

「四つ目の皿を足す。**『言い得て足らず帳』**だ。

 ——“何を約したか”、例で補う。

 ——“誰がどう困るか”、手触りで補う。

 条文の外側に、“例と手触り”を必ず併記する。文字の皮に、重みの肉を縫い直す」


 エリシアが頷いた。

「例は誰でも作れる。手触りは子どもが強い。子どもの注を正式な要件にしましょう」


 ディールはすぐに様式を引き、四重に拡張した票を描く。

 紙(条文)/声(読み)/影(王位影紋)/注(例・手触り)。

 これで“読んだだけ”は通らない。読んで、言い換え、触れて、返すまでが一式になる。


 同じ頃、神殿の観測院から短い告示が出た。

「本日より、契約の祈祷に“空文の式”を併用する。——誤読防止のため」

 誤読防止。耳あたりはよい。だがその実、意味の排水だ。

 「誤読が怖ければ、意味を無くせばいい」

 そんな冷たい理屈が、王都全体に薄く薄く広がっていく。


 翌日、広場で公開の契約を行うことになった。

 舞台は三つの卓。

 一つは神殿の白布と杖。

 一つは政庁の印と三重帳。

 もう一つは、俺たちの四重票と風読台、そして子どもの席。

 王の使者は中立の位置に立ち、群衆は円形に取り囲む。

 条文の意味を奪う祈祷と、意味を返す注。

 ——正面から、秤を並べる。


 司式の祈祷師が白布を広げる。

「条文第七。倉の保守責任は——」

 声は澄み、音は正確。

 言葉は形を保ったまま、耳の内側を滑っていく。

 読むほどに、何も残らない。

 群衆の眼の焦点がずれ、視線が布の白へ吸い寄せられる。

 条文は、読まれて、消える。


 俺は手を上げた。

「四重票の“注”を実施する」

 ユイが風読台に立ち、炭筆の先で空に四角を描く。

「例——“倉の扉の蝶番が凍った朝、誰が油を差す?”」

 ディールが四重票の“注”欄に記す。

 ユイは続ける。

「手触り——“手が冷たく、油が固く、布手袋が濡れて、爪の間が痛い。——それでも扉を開けるのはだれ?”」

 子どもたちの中から、ミチが手を挙げた。

「“約束した人”」

「約束した人はだれ?」

「“倉を借りた人”」

 その瞬間、白布の上で薄く光っていた条文の影が、重みを取り戻した。

 言葉に冷たさが宿る。蝶番の硬さ、油の重さ、布手袋の湿り。

 皮だけだった条文に、手触りという肉が縫い付けられる。


 祈祷師が顔をしかめ、杖で布を叩いた。

「感情で法を汚すな。秩序は冷たくあるべきだ」

 俺は首を振る。

「冷たいことと空であることは違う。

 秩序の冷たさは均しのため。空は逃げだ」


 政庁側の書記が、おそるおそる口を開く。

「では、四重票を契約の成立要件に加えるべきか……?」

 王の使者が受ける。

「王命の権限で、王都の契約に限り暫定適用とする。条文・読み・影・注、四つ揃って初めて“約”と見なす」

 広場にざわめきが走り、やがてひとつの波になる。

 「意味が戻る……!」

 「“例”なら、私にも書ける」

 「“手触り”は、子どもが上手い」


 祈祷師は黙ったまま布を畳んだ。畳む音は小さいが、長く尾を引いた。

 空文の祈祷は、秤の上に座を失いつつある。


 だが、刃は正面だけで振るわれるとは限らない。

 同じ日の夕刻、風読台の読みが滑った。

 子どもがいつものように札を読み上げたのに、意味がずれる。

 「“ありがとう”」が「“あり……とう?”」になり、

 「“ごめんなさい”」が「“ごめん——なさいである”」になり、

 言葉が人から半歩、離れる。


 ユイの頬が引き攣る。「“空”が混ざった」

 影術師が台の脚を撫で、低く言う。

「台そのものが空文に馴らされている。場の道具に、皮だけを愛でる癖が付いた。——場の祈祷返しが要る」


 その夜、詰所に台を運び込んだ。

 脚を外し、天板の裏を見れば、綺麗な布紐が結ばれている。

 布紐の結びは、神殿の式に似ていた。“誤読防止”と墨で書かれた小さな札。

 “誤読防止”。

 ディールが唇を噛む。「誰が、何を誤読と決める?」

 エリシアが灯を一つ落とし、囁くように言った。

「“誤読”は、しばしば弱い言い方を切り落とす。強い言い方だけを残す」

 ユイが台に頬をくっつけて、目を閉じる。

「この台、こわがってる。正しい言葉じゃないと、怒られるって」


 俺は王位影紋の箱へ手を置き、低く尋ねた。

「箱。場の恐れを、少し預かってくれ」

 箱はわずかに重くなり、台の天板がぬくもりを取り戻す。

 俺たちは結びを解き、代わりに**“場の注”**を縫い付けた。

 『ここは、弱い言い方を歓迎する。

  ここは、うまく言えないを歓迎する。

  ここは、言い得て足らずを歓迎する。』

 ユイが小さな手で文字の縁を撫で、子どもたちが隅に絵を描く。

 笑ってる影。泣いてる影。眠っている影。

 意味の練習を許す台へ、風読台が戻ってきた。


 翌朝、四重票の初の本格運用が始まる。

 題材は税の布告。

 王の布告は正確で、政庁の文は冷静で、神殿の祈祷は——今日に限って沈黙した。観測院の長が「観測に偏る」と言って、祈祷を慰めに限定する新方針を示したのだ。

 残る課題は“注”。

 俺は群衆に向き直る。

「“影賦”はどのくらい重い? 誰がどれほど担う? 例を置いてください。手触りを置いてください」


 最初に前に出たのは、粉だらけの手のパン屋だった。

「“例”——一斤のパン。

 影賦が重いなら、一斤が重くなる。軽いなら、一斤は軽いまま」

 ディールが書く。

 次に、灰の旗の男が一歩出る。

「“手触り”——夜番の眠気。

 灯を守る兵の瞼の重さ。影賦の重みがそこに行くなら、俺は払える」

 群衆がざわめき、やがて頷きが波になる。

 税が“例と手触り”に下りる。

 数字の外側に、生活が縫い付けられる。


 その時、四重票の端に黒い染みが走った。

 “注”欄にだけ、空文の影が滲んだのだ。

 ——注そのものを空にする刃。

 ユイが眉間に皺を寄せ、影を摘む。

「“やさしい言い方”を、軽んじる癖が染みてる」

 影術師が頷き、俺を見る。

「子注(こちゅう)を前提にしろ。大人の注は、その補助に落とす」

 俺は宣言する。

「王都の四重票、“注”の第一筆は子どもが書く。大人は補注。やさしさ優先だ」

 王の使者が短く頷き、布告の文に添えた。「承る」

 空文の染みは、場の決まりごとに押し戻される。

 秩序は、やさしさに重心を置くとき、空へ滑りにくい。


 夕刻、井戸の縁に新しい裂け目が生まれた。

 今度は空文でも沈黙でもない。

 ——詐弁(さべん)。

 言葉を重ねるほど、結論が遠ざかる、迷路の裂け目だ。

 路地の壁に貼られた文章が、読むたびに別の意味を示す。

 左から読むと賛成、右から読むと反対、上から読むと中立。

 人々が目を白黒させ、怒りと疲労の影が溜まっていく。


 ディールが肩越しに小声で言う。

「四重でも足りない。読む方向を決めないと」

 ユイが手を挙げた。

「例札(れいふだ)を道標にしよう。——“この文章の例一つ”を先に置く。みんなが前提を同じにできるように」

 影術師が口の端で笑った。「道標は“上から”じゃなく“中から”刺すのが良い」

 俺は群衆に呼びかける。

「まず“例札”を一枚ずつ。短い話で、同じ向きを作ろう」

 子どもが出す例は短い。

 「パンを分ける」

 「灯を守る」

 「眠る番を交代する」

 例が三つ揃うたび、詐弁の文が方角を持つ。

 迷路は、方向が決まるとただの小道になる。

 俺は痣の糸を、その小道に沿って縫い、裂け目を返す。

 詐弁は、子どもの例の前で、刃を取り落とした。


 夜。

 詰所の窓辺で、王位影紋の箱が静かに熱を吐いた。

 触れると、遠い王たちの**“読み損ね”の痛みが指先に滲む。

 彼らもまた、空文や詐弁に悩まされてきたのだろう。

 俺は箱に囁く。

「今日、四重に“注”を置いた。子どもの注が、意味を繋いだ。箱よ、これを秤の一部として覚えてくれ」

 箱は短く、確かに重さを増した。代価が積まれる音だ。

 ユイが背後から毛布に顔を半分埋め、眠たげに言う。

「ねえ。“むずかしい言葉”を、ぜんぶ“やさしい言い方”にすると、むずかしいことができなくなる?」

 俺は少し考え、答える。

「むずかしいことは“やさしい言い方”で分けてやるんだ。大きい荷は、小分けにすれば運べる。

 やさしさは軽さ**じゃない。持ち方だ」

 ユイは満足げに頷き、影へ沈んだ。


 灯を消す前、影術師がぽつりと言う。

「空文は退いた。詐弁も流れた。だが次は、記憶を狙う。四重を揃えたはずの記録が、**“なかった”**ことになる刃だ」

 ディールが顔を上げる。「忘却の帳簿(わすれがき)を逆手に取る気か」

 エリシアは静かに拳を握る。

「忘れるべき痛みと、忘れてはいけない痛み。——秤の境界が試される」

 リクが窓の外へ目をやる。「夜の足音が軽い。静かなときほど、次は深い」


 俺は痣に手を置き、胸の影獣へ言う。

「忘れさせない。必要な忘却は置き所を選ぶ。

 “忘れる秤”を、次に置く」

 影獣は低く喉を鳴らし、箱の微かな熱と重みが、夜の底でひとつに重なった。

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