第28話「縫い違えた名——責任の秤」
影の学校が始まってから一週間。
広場の掲示板には、子どもや大人が自分で書いた震える字の名が並ぶようになった。
「澄」「鶴」「匠」……曲がり、欠け、時に読めぬ線もある。だが確かに手で刻まれた縫い目だ。
人々はその板を誇らしげに眺め、声に出して読んだ。
字を知ることで、自分が「見える」ようになったのだ。
だが、その日。
群衆のざわめきに、ひとつ冷たい声が割り込んだ。
「俺の名が——違っている!」
声の主は、鍛冶屋の若い弟子だった。
掲示板の「影の学校帳」に貼られた紙には、確かに彼の名が書かれていた。だが、字が一文字違っていた。
「鉄」の「金」が抜け、ただの「失」という字になっていた。
群衆が息を呑む。
弟子は拳を震わせて叫んだ。
「俺の名は“鉄司”だ! なのに“失司”と書かれてる! これじゃあ俺は、失った者みたいじゃないか!」
周囲からくすくすと笑いが漏れる。だがそれは、弟子を深く傷つけた。
「これは俺の名じゃない! 消せ! 破れ!」
俺は前に出て、弟子の紙をそっと手に取った。
炭筆で震える線、慣れない手で書いた痕跡。
書いたのは、彼自身ではなく、影の学校で隣に座った友だった。字を覚え始めたばかりで、誤って書いたのだ。
ユイが不安げに言う。
「縫い違えた名……影が迷っちゃう」
エリシアは険しい顔で群衆に告げた。
「名は重い。間違いは侮辱になる。だが、消してしまえば“なかった”ことになる」
ディールが筆を持ち、冷静に言った。
「残すべきか、正すべきか。影路監、判断を」
胸の痣が熱を帯びた。
影獣が低く唸り、問いかけてくる。
——記録を消すか。残すか。
俺は紙を掲げ、弟子に向き合った。
「間違った名も、お前の痛みの一部だ。だが、正しい名を縫う秤も必要だ。両方残す」
群衆がざわめく。
「両方?」
俺は紙を板に戻し、その横に新しい紙を貼った。
「鉄司——訂正」
そして注を加えた。
「影の学校で縫い違えられたが、本人の声により正された」
弟子は驚いた顔でその二枚を見た。
「……俺の名は、間違いと正しさ、両方残るのか?」
俺は頷いた。
「間違いを残すことで、次に間違えない。正しさを残すことで、お前が帰る道を失わない。二つが揃って秤になる」
群衆の中から、老婆が杖を叩いて言った。
「名を間違えるのは恥ずかしい。でも、間違いが残れば、次の人は学べるよ」
子どもたちが一斉に「鉄司!」と声を上げた。
弟子の目が潤み、深く頭を下げた。
だが、その場を黙って見ていた者もいた。
灰の旗の若い男だ。
彼は静かに呟いた。
「……間違いを残すのは、罰だ」
俺は彼を見た。
「罰じゃない。責任だ。書いた者にも、読んだ者にも、秤の一部を担う責任がある」
男はしばし黙り、やがてぼそりと言った。
「俺の過去の名も、縫い違えたものだ。……残していいのか?」
ユイが笑顔で答える。
「縫い違えも、名だよ。正しい道を縫い直せばいい」
男の目が揺れ、拳を緩めた。
夜。
詰所の机に「縫い違え帳」と題した新しい帳簿を置いた。
そこには、間違った名と正しい名を並べて記す。
消すのではなく、縫い直す秩序だ。
ディールは静かに記録をまとめた。
「これで帳簿は四つ。影負債帳、名の帳、影市帳、縫い違え帳」
エリシアは深く息を吐く。
「秩序が増えるたび、守るべき場も増えるわね」
リクは窓の外を睨み、「だから夜が狙ってくる」と短く言った。
その時、王位影紋の箱が震えた。
『縫い違えは人の影。縫い違えを責める声は強い。秤に耐えられるか』
俺は痣を押さえ、答えた。
「耐えられるかどうかじゃない。秤を増やして、分け合うんだ」
影獣が静かに喉を鳴らした。
翌朝。
掲示板に「縫い違え帳」が貼られた。
「鉄司(失司より訂正)」と大きく記されている。
人々はそれを見て、誰も笑わなかった。
むしろ、慎重に名前を読んだ。
「まちがえたら、なおせばいい」
子どもの声が、広場を満たした。
第28話ここまで
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