第43話 童心と嫉妬
その日の夕方、まずダンジョンにやってきたのは、珍しく黒岩真弓さんだった。
彼女もまた、SNSで猫フロアの存在を知ったのだろう。
いつものように疲れきった表情で、しかし、その瞳の奥にはどこか期待を滲ませながら、彼女はゆっくりと202号室の扉を開けた。
猫たちに出迎えられた彼女は、千尋さんたちと同じように一瞬動きを止め、驚きに目を見開いた。
そして、フロアに備え付けられていた猫じゃらしの一つを、そっと手に取った。
その直後、桜庭結菜ちゃんと池田凪咲ちゃんもやってきた。
二人は猫の楽園に入るなり、「わー!猫さんいっぱい!」と歓声を上げ、すぐに猫たちの輪の中に溶け込んでいった。
三者三様の常連客が、同じフロアに集う。
これは、俺がこのダンジョンを管理し始めて以来、初めての事態だった。
俺はモニターの前で少しだけ緊張しながら、その様子をじっくりと見守った。
黒岩さんは猫じゃらしを手に、最初は少し戸惑っているようだった。
どう使っていいのか測りかねているかのように、彼女は静かに猫じゃらしを握りしめていた。
しかし、一匹の子猫がその猫じゃらしの先に興味を示し、ちょいちょいと小さな手でじゃれついてきた瞬間、彼女の中で何かが弾けたようだった。
彼女はふっと力を抜き、猫じゃらしを巧みに操り始めた。
その動きはしなやかで的確で、猫たちの狩猟本能をくすぐり始めた。
夢中になった彼女は、いつの間にか窮屈そうなスーツのジャケットを脱ぎ捨て、本気で猫と遊んでいた。
「ふふっ…こっちよ。そうそう、上手ね」
彼女の口から漏れたのは、仕事の愚痴でもため息でもない、心からの楽しそうな笑い声だった。
その表情は、俺が今まで見たことのない、無邪気で少女のような笑顔だった。
「あんた…そんな顔もできたんだな…」
俺はモニターの前で、見てはいけないものを見てしまったような、背徳的な気分に襲われた。
彼女が仕事で見せる冷徹さとはかけ離れた、純粋な喜びの姿だった。
一方、女子中学生コンビはというと、対照的な状況にあった。
結菜ちゃんは持ち前の天真爛漫さで、猫たちの人気を独り占めしていた。
彼女が床に座り込むと、あっという間に数匹の猫が彼女の膝の上や肩の上に乗っかり、完全な「猫ハーレム」状態になっていた。
「わはは!くすぐったいよー!みんな可愛いなぁ!」
結菜ちゃんは猫にまみれながら、幸せそうな声を上げている。
しかし、その隣で凪咲ちゃんの表情が少しだけ曇っているのを、俺は見逃さなかった。
凪咲ちゃんも猫と戯れてはいるのだが、猫たちはどちらかというと、結菜ちゃんの方に集まっていく。
凪咲ちゃんは、そんな楽しそうな結菜ちゃんと猫たちの姿を、じっと見つめていた。
その瞳には、ほんの少しだけ寂しさと、微かな嫉妬の色が浮かんでいるように見えた。
「な、凪咲ちゃん…」
俺はモニターの前で、なんだか切ない気持ちになった。
彼女が、猫に好かれていないと感じているのか、それとも結菜ちゃんだけが注目されていることに寂しさを覚えているのか、判断に迷った。
「これは俺の気のせいか…?いや、気のせいじゃないな…」
凪咲ちゃんの表情は、明らかに嫉妬していた。
それは、猫に嫉妬しているのか、それとも、親友である結菜ちゃんの注意が自分以外に向いていることに嫉妬しているのか、俺には判断がつかない。
しかし、結菜ちゃんは、そんな凪咲ちゃんの微妙な気持ちに敏感に気づいたようだ。
彼女は、自分に群がる猫たちを優しく撫でながら、そっと凪咲ちゃんに向かって言った。
「凪咲ちゃん!こっちの猫さん、凪咲ちゃんのことが好きみたいだよ!ほら!」
結菜ちゃんは、自分の一番近くにいた、人懐っこい三毛猫をそっと抱き上げた。
そして、その温かい塊を、凪咲ちゃんの膝の上に優しく乗せてあげた。
三毛猫は、慣れたように凪咲ちゃんの膝の上で安心したように丸くなり、ゴロゴロと満足そうに喉を鳴らし始めた。
「…わ」
凪咲ちゃんの表情が、ぱっと明るくなった。
彼女は頬を緩ませ、嬉しそうに三毛猫の頭をそっと撫で始めた。
「ありがとう、結菜ちゃん」
「どういたしまして!」
二人は顔を見合わせて、にこりと微笑み合った。
俺はその光景に、「尊い…!」と胸を熱くしながらも、三人の女性がそれぞれの形で猫に癒されているこの空間のポテンシャルの高さに、改めて驚嘆するのだった。
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