17
体重計に、乗る。
五十一キログラム。家に帰ってくる前は五十三キログラムあったはずだから、一週間で二キログラムほど痩せてしまった計算になる。
それもそうだろう。この一週間、殆どご飯を食べることもせずに、お母さんの隣でずっと青紫色の石に形だけの祈りを捧げていたのだから。
洗面所の鏡に映る自分の表情は、普段よりもさらに生気が感じられなかった。
「…………早く、帰りましょう」
そうひとりごちて、洗面所をあとにする。腕時計を見れば、午前五時過ぎを示していた。充分始発に間に合う時間だ。閉寮期間は昨日までで、お母さんには今日の午前中に寮で重要な用事があるから、すぐに帰らなければいけないと伝えてある。……真っ赤な嘘だけれど。
お母さんに一声かけてから帰ろうと思って、お母さんの寝室のドアを弱い力でノックしてから開く。しかし、ベッドにお母さんの姿はなかった。嫌な予感がして、浅く息を吸う。
わたしはリビングを訪れて、閉じられた和室の襖をそっと開いた。
お母さんは、祈っていた。
一体いつから起きていたのだろうか。ちゃんと眠っているのだろうか。わたしは堪らず、叫び出したくなる。
祈ることで救われる訳がない。だってお母さんは全く幸せそうに見えない。あの石は、お母さんを幸せになんてしてくれない。お母さんの生活を、健康を、幸福を、搾取しているようにしか映らない。
……でも、かつてその思いの一部を伝えただけで、お母さんは泣き崩れた。
わたしはそのとき、自分が悪魔になったかのような心地を味わった。
だから、もう、お母さんの祈りを否定することはしない。
できない。
わたしは、掠れた声で言葉を紡ぐ。
「……お母さん。寮に、帰りますね」
お母さんは頭を垂れるのをやめて、わたしの方を見る。
「そう。いってらっしゃい」
「……はい」
わたしはお母さんに背を向けて、歩き出す。襖を閉じようとしたところで、声が聞こえた。
「ねえ。いのり」
「……何ですか?」
振り返らずに、返答する。
どんな言葉が飛んでくるのかと、心臓を掴まれているような気持ちになる。
「寮生活は、楽しい?」
わたしは静かに、目を見開いた。
「……はい。楽しいですよ」
「そう。それならよかった。いのり、寮生活を送るのが夢だって言っていたものね」
……そうだ。
わたしは「夢」という耳障りのいい美しい言葉を使って、必死にお母さんを説得した。
正しくなくなったお母さんにも残されていた、優しさに縋るようにして。
夢というのも、真っ赤な嘘。
嘘。嘘。嘘。嘘。嘘。
……わたしはどうしてこんな人間になってしまったんだろう。
じわりと滲んだ涙をお母さんに気付かれないように拭って、わたしは「そうですね」とだけ告げる。
それから、襖を閉める。
早く筒井さんに会いたい、と思う。
一時間ほど電車に乗り、果嵐越駅で下車して、スーツケースを引きながら十分強歩いて、綴ヶ岡女子学園の校門を潜る。一週間ほどしか空けていなかったのに、既に学校のにおいが懐かしかった。
寮の出入り口で靴を脱ぎ、スリッパに履き替える。管理室に寄り、預けておいた部屋の鍵を受け取って自室へと歩き出す。筒井さんの笑顔が脳裏に浮かんで、思わず歩調が速まった。まだ朝早くだからか、寮にわたし以外の生徒の姿は見受けられない。しんと静まり返った世界に、スリッパと床が擦れる足音が響く。
やがて、わたしと筒井さんの部屋に辿り着いた。
ドアには鍵がかけられており、筒井さんはまだ帰ってきていないようだった。その事実を残念に思う自分が確かに存在していた。わたしは随分と、筒井さんに入れ込んでしまっているのかもしれない。そう考えながら、鍵穴に鍵を差し込んで開ける。
ドアを開くと、見慣れた部屋が姿を現した。やっぱり筒井さんの姿はなかった。それもそうだろう、と思う。腕時計を見れば、示しているのは午前七時二十分。人によってはまだ眠っている時間でもある。そうやって論理的な思考を意識すると、落胆がどこかへと遠ざかっていくような心地がした。
取り敢えず、荷物の始末をしてしまおう。そう考えながら、わたしは部屋に足を踏み入れた。
勉強机に突っ伏しながら、横目で窓の向こうに広がる夕暮れの空を見る。オレンジ色を通り越して、どこか赤色のようにも見える空。
「…………いつ、帰ってくるんでしょう」
そんなひとりごとが、ひとりぼっちの部屋に溶けていく。
閉寮期間が始まる少し前、筒井さんにいつ頃帰ってくる予定か尋ねた。そのとき筒井さんは、寮が開いたらできるだけ早く帰ってくると言って、微笑んでくれたはずなのに。
会えることを楽しみにしていたのは、わたしだけだったのだろうか? そんな疑問が浮かぶと同時に、ビターチョコレートを咀嚼したときのような苦みのある感情に包まれた。その気持ちを振り払うように、夕陽に美しく染め上げられた入道雲と目を合わせる。側で輝く黄金色の太陽は、どこか筒井さんの長髪の色彩に似ていた。
「…………まだでしょうか」
口が勝手にひとりごとを呟いてしまう。何だか滑稽だなと、自分で自分のことをほんのりと嘲った。
ゆっくりと、まぶたを持ち上げる。
視界に入り込んだ空はもう真っ暗だった。わたしはばっと顔を上げて、勉強机の上の置き時計を確認する。午後八時七分。どうやら眠ってしまったようだった。周囲を見回したが、筒井さんが帰ってきた形跡はない。
……流石に、遅くないだろうか?
恐らくないとは思うけれど、もしも交通事故に巻き込まれていたらどうしよう。幼少期のトラウマを思い出し、ずきりと頭が痛む。痛んだ辺りを丁寧にさすっていると、ふと机の上に置かれたスマホが目に入った。
急いで画面の明かりを点けて、メッセージアプリを開く。登録されている連絡先一覧には、「tsutsui」というアカウントが存在していた。アイコンに設定されているのは、ピンク色のチューリップの写真。寮の前の花壇で春に撮影したものだと、以前筒井さん本人から聞いた。
連絡先を交換してはいたけれど、特にメッセージのやり取りをしたことはない。同じ部屋に住んでいると、大抵のことは口頭でどうにかなってしまうからだ。
もしかしたら筒井さんからメッセージが来ているかもしれないと思ったが、その形跡は特に見られなかった。わたしは小さく溜め息をついて、メッセージボックスに指を添える。悩みながら、メッセージを作成する。
〈今どこですか?〉
……だめだ。短文だとそっけなく感じる。
〈こんばんは。初めてのメッセージ、失礼します。野橋いのりです。なかなか筒井さんが帰ってこないので、少し心配しています。今、どこにいますでしょうか?〉
……これもだめだ。逆にちょっと長すぎる気がする。あと、業務的すぎるかもしれない。もう少し、若者っぽい遊び心を出した方がいいのではないだろうか。
〈こんばんは! いつ帰ってくるんですか!? ちょっと心配しています(笑)〉
……なんか、逆におばさんとかおじさんのメッセージっぽくなってしまった感じがする。
「はあ…………」
わたしは溜め息をつきながら、スマホを机の上に置く。メッセージの文章に悩むことなんて、今までなかったのに。どうして筒井さんに送る文章は、どれもこれも納得がいかないんだろう。
早く帰ってこないかな、と思う。筒井さんとお喋りしたい。筒井さんに笑いかけてほしい。からかわれるのは少し癪だけれど、まあ別に悪い気がする訳ではない。
どうしてわたしはこんなにも、筒井さんを求めてしまっているのだろう……?
その理由を知りたいと思いながらも、怖くて知りたくないとも思ってしまう。
気持ちと気持ちがぶつかり合って、心の中は零れた気持ちの欠片だらけだ。
――こん、こん
わたしは、目を見開いた。
間違いない、今のはドアが叩かれた音だ。わたしはすぐさま立ち上がって、閉じられたドアの方へと駆ける。よかった、交通事故に遭ったとかじゃなかった――そう考えながら、わたしは「おかえりなさい」を言う準備をして、勢いよくドアを開いた。
――傷だらけの顔の筒井さんが、立っていた。
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