05
夜。わたしはベッドの縁に腰かけながら、いつものようにお風呂の準備をしていた。お風呂上がりでパジャマ姿の筒井さんは、もう一つのベッドに横たわりながら、耳に有線イヤホンを付けて携帯音楽プレーヤーで音楽を聴いている。メロディを小声で口ずさんでいるから、どうやら上機嫌のようだった。無事体育祭の種目が借り物競走に決まったからだろうか。
トートバッグに着替えや化粧水や乳液を放り込んでいく。腕時計を見ると、あと少しで午後七時になりそうだった。
『夜の七時から七時半までは、私をこの部屋に一人にしてほしいの』
始業式の日に筒井さんと交わした約束を思い出して、急いで立ち上がる。あの日から今日まで、その約束を破ったことはない。わたしは部屋を出る前に、筒井さんに一言声をかける。
「お風呂に行ってきますね」
筒井さんからの反応はなかった。恐らく大きな音量で音楽を聴いているのだろう。まあいいかと思って、わたしは部屋をあとにした。
わたしの部屋は西館一階の最も奥にあるので、同じく西館一階にある高校生専用の共同風呂にも歩いて数分かかる。ようやく辿り着いた脱衣所でトートバッグの中を見て、あ、と声を漏らした。
……バスタオルを、部屋に忘れた。
「うげ、やらかしました……」
わたしのひとりごとは、他の女の子たちの喧騒に埋もれるようにして消えていく。
バスタオルを貸し出してくれる寮ももしかしたら存在するのかもしれないが、生憎この寮にそのようなサービスはない。ふと、フェイスタオルがあればどうにか身体を拭けるような気がしたが、トートバッグの中を確認してもなかった。それもそうだろう、どちらのタオルも同じ場所に部屋干しているのだから、どちらかだけ忘れるパターンは稀だ。それかバスタオルを共有できるくらい仲のいい友人がこの場所にいればよかったけれど、わたしの友人は筒井さんただ一人だ。
八方塞がりだ――わたしは深い溜め息をついた。腕時計を見ると、午後七時五分を示している。
『絶対に部屋に入らないでくれる?』
約束の時間まであと二十五分。でも大人しく待っていれば、高校三年生の入浴時間が終わり、お風呂に入れなくなってしまう。もう五月で段々暑くなってきたというのに、シャワーを浴びれないというのはだいぶしんどい。
「……事情を説明して、部屋に入れてもらいましょう」
そうひとりごちて、わたしは身を翻して脱衣所の出入り口へと向かった。
わたしは閉じられたドアの前に立っている。
こんこん、とノックをした。
「筒井さんー? すみません、忘れ物をしちゃって、取りたいんですがー」
普段よりも声を張り上げながら、筒井さんへ呼びかける。でも、数秒待っても返事はない。わたしの声が小さいのだろうか? 先程よりも強めにドアをノックする。
「筒井さん、聞こえますかー?」
……また、返事がない。腕時計を見れば、午後七時十分を示している。うかうかしていればシャワーを浴びれなくなってしまいそうだ。それは嫌だと思って、今までで一番大きな声を出す。
「筒井さんってばー!」
わたしの努力も虚しく、筒井さんからの反応はなかった。わたしは溜め息をついた。それと同時に、筒井さんに何かあったのだろうかという微かな不安が頭をもたげる。数秒逡巡してから、ドアの取っ手に手をかけた。鍵はかかっていないようだった。
『絶対に部屋に入らないでくれる?』
脳内で繰り返される、あの日筒井さんから言われた言葉。
「……万が一部屋で倒れていたりしたら、早く気が付かないといけませんし」
わたしは自分に言い聞かせるように呟いて、ゆっくりとドアを開いた。
可憐な声が、耳に届く。
「ら、ら、ら、ら、ら…………」
筒井さんは勉強机の椅子に座りながら、イヤホンを付けたまま小さな声でメロディを口ずさんでいた。
「ら、ら、ら、ら、ら…………」
音楽を聴いているからわたしの声が聞こえなかったんだなと、少しばかり安堵した。部屋に入ってしまったことを謝ろうと、筒井さんへと近付いていく。
「ら、ら、ら、ら、ら…………」
そうしてようやく、その事実に気が付いた。
わたしは呆然と、目を見張る。
――筒井さんは、カッターナイフで手首を切っていた。
切られた皮膚と皮膚の隙間からは、美しい光沢の黄金色の液体が流れ落ちていた――
血……? でも、赤色じゃない。まるで〝蜂蜜〟のような、色だ。
「ら、ら、ら、ら、ら…………」
筒井さんは未だわたしに気が付かないまま、きれいな声でうたいながら、手首にまた新しい黄金色の線を走らせる。緩やかな軌道を描いて滑り落ちていく、血? は、部屋の照明を浴びてきらきらと輝いている。甘いにおいがする。血のにおい? 本当に、血のにおい……?
わたしの肩からトートバッグがずり落ちて、中に入っていた化粧水や乳液のボトルが大きな音を立てて床に転がった。筒井さんの唇が動かなくなって、ゆっくりと顔がこちらへ向けられた。漆黒の瞳と目が合う。
筒井さんは面倒くさそうな微笑みを零しながら、カッターナイフを机に置いて両耳のイヤホンを取った。
「……絶対に入らないでって言ったよね、いのりちゃん?」
「……ごめん、なさい」
わたしは頭を下げる。筒井さんが「ま、別にいいけどさ……」と言ったので顔を上げると、彼女は再び右手でカッターナイフを持って左手首を傷付けようとしていた。
「待ってください、待ってください」
わたしは彼女の右手首を掴む。筒井さんは驚いたように目を丸くして、それから明らかに苛立った口調で言った。
「離して?」
「嫌です」
「どうして?」
「だって……それ、自傷行為、ですよね」
「……そうだけど、それが何」
筒井さんは夜の色の瞳でわたしを睨む。わたしは小さく首を横に振って、告げた。
「友人が自分のことを傷付けていたら、流石に心配しますって。何でリストカットなんてしているんですか、何か辛いことでもあったんですか?」
真っ直ぐに見据えると、筒井さんの目がほんのりと揺らいだのがわかった。
筒井さんは寂しそうに口角を上げる。
「……全部だよ。今、こうやって息をしてるのも辛いの。何もかもが辛いの」
「……でもあなたは、わたしが先程部屋を出る頃は楽しそうにしていました。それは、わたしの勘違いですか?」
「いっときの幸福だよ。瞬間的なの。すぐに陰鬱な気持ちに塗り替えられちゃうの」
「その気持ちを振り払うために、自傷行為をしていると?」
「……まあ、それもあるけど。でも、一番の理由は――」
言葉を紡ぐのに、筒井さんは躊躇ったようだった。彼女の目が淡く潤んだ気がした。
「――こんな穢らわしい血、全部、なくなってほしいから」
筒井さんはそう口にして、俯いた。数秒経って顔を上げた頃には、潤みはどこかへ消えていた。
「いのりちゃんだってそう思うでしょう? こんな血、おかしいって。汚いって……」
彼女は黄金色の液体を見つめながら、震えを帯びた声で言う。筒井さんの表情はどこか、傷付いた幼い女の子のようだった。わたしは筒井さんの背中に左手を添えて、首を横に振る。
「……確かに、最初見たときは驚きました。でも、汚いなんて思いません。むしろ、すごくきれいです。優しい色だと思います」
わたしの言葉に、筒井さんが息を呑んだのがわかった。
どこかへ消えたはずの彼女の瞳の潤みが、打ち寄せる波のように戻ってくる。
「……本当に?」
「はい」
「……それじゃ、さ」
筒井さんは黄金色の血液が溢れている手首を、わたしの口元へと持ってくる。
「証明して」
「……証明?」
「うん。……舐めて、私の血を」
わたしの口から、え、という声が漏れる。筒井さんの目は真剣だった。どうすれば、と思う。でも断ってしまえば、わたしの本当の気持ちは嘘だと受け取られてしまう?
わたしは少しの間逡巡してから、両手で彼女の左腕を丁寧に持って、ゆっくりと傷口へと舌を這わせた。
「…………ん、あ…………」
筒井さんの声がすぐ側で聞こえる。彼女の血は本物の蜂蜜みたいな味だった。ねっとりとした濃い甘さが、口の中に広がる。何だか、すごく、おいしい……おいし、い……
「……痛っ」
筒井さんのそんな言葉で、はっと我に返った。慌てて舐めるのをやめて、顔を上げる。筒井さんの顔は確かな赤さに染まっていた。顔が赤くなるのは、確か血液のせいではなかっただろうか。顔に流れている血は、黄金色ではなく赤色? どうして……?
「ねえ、いのりちゃん……」
筒井さんに名前を呼ばれて、意識が現実に引き戻される。
「……おいしかった?」
そう問われ、気付けばわたしは頷いていた。
筒井さんの口から、あはっと笑い声が溢れる。
それと同時に、透明な涙の雫もころりと落ちていった。
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