蜂蜜、来世も来来世もそれからも。
汐海有真(白木犀)
一章 四月(蜂蜜が花嫁になるまで、あと十一ヶ月)
01
――電車の車窓から、かみさまが見えた。
散り際の桜の木の上で、桜の花びらを数万枚も集めたような巨大な薄桃色の翼をはためかせながら、首のない人間の形をした真っ白な長細い身体で、手を祈りの形に組んでいる。
……何を、祈っているのだろう。
もしくは、何も祈っていないのかもしれない。わたしが「いのり」という名前だけれど、何一つ祈りを抱えずに生きているのと同じように。
かみさまの姿が、段々と遠ざかっていく。ボックス席に一人で脚を組んで座るわたしは、ぼんやりと流れていく車窓を眺めながら、遠くにまた新しいかみさまが見えるだろうかと思った。
車窓には、うっすらと自分の姿が反射している。後ろ髪を無造作に一つに束ねただけの見慣れた顔と、ブラウンを基調としたワンピースタイプの着慣れていない制服。襟元で覗く鮮やかな真紅のリボンは、細身ながら随分と存在感を放っている。
硝子玉のように無機質な印象を受ける瞳と、何となく目を合わせていたときだった。
『次は
車内にアナウンスが響いて、わたしは少しばかり目を見開いた。今日から通うことになる
わたしは高校三年生だから、この子たちは年下か、もしくは同い年なのだろう。
電車の速度が段々と落ちていき、ぷしゅうううと音を立てて停車する。ドアが開いて、わたしはスーツケースと一緒に果嵐越駅のホームへと降り立った。柔らかい春のにおいがした。
綴ヶ岡女子学園は、中高一貫の全寮制の女子校だ。
数ヶ月前に受けた転入試験の出来は確かによかったと思うが、高校三年生のわたしを本当に受け入れてくれるのだろうか? そう疑問に思いながら、舗装された赤煉瓦の道をスーツケースを引いて歩く。ふと顔を上げれば、澄んだ空に柔らかそうな雲が幾つも浮かんでいた。
十分ほど歩いて、ようやく綴ヶ岡女子学園が見えてくる。と言っても、校舎の大部分はそびえ立つ高い塀に隠れてしまっていた。スーツケースを置くために、まずは寮へと向かわなければ――そう考えながら校門を通り抜けようとすると、守衛さんらしき人に呼び止められる。
「君、ちょっと待って」
「……何ですか?」
「何ってほら、学生証だよ。ここ通るとき、いつも見せてるだろう?」
守衛さんは怪訝そうな眼差しをしながら、わたしへと催促する。
そうしなければならないんだ、と思った。幸い学生証は交通系ICカードと一緒に制服のポケットに仕舞っていたので、道端でスーツケースを広げる羽目にはならずに済んだ。わたしが学生証を見せると、守衛さんは満足げに頷いて「はい、どうもね」と言う。わたしは彼に向けて小さく会釈すると、今度こそ校門を通り抜けた。
制服を着用しているだけでは、ここを通ることはできないのだろうか。もしも学生証を忘れた生徒がいたらどうするのだろうか? まあでも、全寮制の学校となればこのくらいセキュリティ意識が高い方がいいのかもしれない。何かと物騒な世の中だし。
――考え事は、濃厚なかみさまの香りに掻き消された。
寮の前に設けられている、とても大きなチューリップの花壇。その中心に、かみさまがいる。わたしの背丈ほどはありそうな、宙に浮いた巨大な赤色のチューリップの花弁。茎はなくて、代わりに茎のように、花弁の赤色がそのままぼたぼたと滴っている。まるで鮮血のようだ。花と血を混ぜ合わせたような鮮烈な香り。かみさまの側にいるから、かみさまの声が聞こえる。
「ねじりたい。ねじりたい。ねじりたい。ねじりたい。ねじりたい。ねじりたい。ねじりたい。ねじりたい。ねじりたい。ねじりたい。ねじりたい。ねじりたい。ねじりたい……」
何をねじりたいと思っているのだろうか。まあ恐らく、わたしたち人間を、だろう。そう考えながら、わたしはかみさまがまるで見えていないように平常な顔をして、平常な足取りで、花壇の外側を歩いていく。かみさまに見つかれば、多分「ねじられ」そうになると思うから。
寮の出入り口に辿り着いて靴を履き替えようとしたところで、スリッパはスーツケースの中に入れっぱなしだったことを思い出し、小さく溜め息をついた。
寮には東館と西館があるそうだ。中学生が暮らすのが東館で、高校生が暮らすのが西館だという。
わたしに割り当てられた部屋は、西館一階の最も奥にある部屋だった。移動のことを考えると不便な気がしたが、まあしょうがないだろう。高校三年生という変な時期に転入したわたしよりも、もっと前からこの学校にいる女の子たちに、生活しやすい部屋を割り振るべきだ。
寮には一人部屋が存在しないらしく、わたしは「
ふと、違和感に気が付いた。
かみさま特有の香りが、少しずつ強くなっているのだ。
屋内にかみさまがいるのは稀だ。かみさまは美しい自然とか、人間以外の生物とか、そういうものを依代にして顕現していることが大半だ。だから屋内よりも、屋外で見かけることの方が多い。それなのに、この寮の奥の方から、間違いなくかみさまの香りが漂っている。どうしてだろう? 寮でペットを飼うことは禁止されていたはずだから、観葉植物でも置いているのだろうか……?
どろりとした、甘ったるい、纏わり付いてくるような香りだった。
まるで、〝蜂蜜〟のような――
わたしは足を止める。これからわたしが生活することになる部屋が、目の前にあった。閉じられたドアから漏れ出すような、強い、かみさまの香りが、鼻を深くくすぐった。
わたしはそっと息を吐いてから、ドアの取っ手に手をかけようとする。
その瞬間、ドアが内側から開かれた。
――きれいな女の子が、立っていた。
まず目に留まったのは、蜂蜜が溶け出したような黄金色のふわふわの長髪。睫毛も黄金色で異国情緒を漂わせているのだけれど、瞳は終わりの見えない夜空のような漆黒だった。新雪のように混じり気のない真っ白な肌で、頬と唇がほんのりと赤い。美術館に展示されている絵画のように整った顔が、わたしのことを見つめている。
柔らかそうな唇が、ゆっくりと開かれた。
「……君が、
「……あ、はい。その通り、です」
そ、と女の子は微笑んだ。
かみさまの濃い香りを、全身に纏いながら。
「私、筒井蜂蜜。よろしくね、いのりちゃん」
「よろしく、お願いします」
「それにしても、転校したてで私と同じ部屋なんて災難だね」
女の子――筒井さんは、くすくすと笑う。
わたしは目を細めながら、尋ねた。
「……どういう意味ですか?」
「そのままの意味だよ? 数ヶ月前からかな。私と同じ部屋になった子、みんなおかしくなっちゃうの」
「おかしく、とは?」
「一番酷いのだと自殺未遂かな。あ、未遂だから。死んでないから安心してね」
「へえ」
頷いたわたしに、筒井さんは少し驚いたようだった。
「怖くないの?」
「まあそんなに、生きていても楽しいこと、ないですし……」
わたしの言葉に、筒井さんはぱちぱちと大きな瞳で瞬きしてから、あははっと笑った。
「いのりちゃんって変な子だね?」
心の中で、あなたの方が変だと思う、と呟いた。
どうしてそうまでも、かみさまに執着されているのだろうか?
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