第2章

第6話 【休日】

 シャワーを浴びてそのまま寝た僕は、翌朝スマホのアラームで目を覚まし、洗面所へ向かった。


 寝起きでハッキリしない口の中をマウスウォッシュでゆすぎ、同時にその辛さでボンヤリした意識を覚醒させる。


「ふァ……」


 小さく欠伸をしながら台所へ向かい、冷蔵庫から卵とベーコン、冷凍庫から食パンを取り出してフライパンを火にかけた。


 卵をフライパンに割り、食パンをラップで包んで電子レンジに放り込む。


 ついでに電気ケトルの電源も入れておくのを忘れない。


「今日どーすっかな」


 独り言を呟きながら、電子レンジから食パンを取り出してラップを剥がしトースターへ投入する。


 大学は全休の日で、バイトは午後から。


 午前中の予定がポッカリと空いてしまっている。


 トースターから取り出した食パンとベーコンエッグを皿に盛り付け、インスタントコーヒーを淹れてテーブルに向かった。


 プレイ中のゲームも、読み終わってない小説もあるが、何よりも昨日の出来事が頭から離れなかった。


「とは言え……」


──何で、なんだろうな。


 そんな事を考えながらクローゼットに目をる。


 この数日で気付いたことだが、今のところクローゼットは僕が寝たらリセットされている。


 今も、鼻に意識を集中させれば香ばしいパンの匂いに混じって少しだけジメッとした匂いがかおってくる。


 未だ、どうしてクローゼットが異世界に繋がっているのかも、どうして1日1往復なんて法則が働いているのかも分かっていない。


──何かの拍子に、帰れなくなったりしてな。


 不意に浮かんだ考えに、「それならそれでいいか」なんて考えているのが我ながら楽観的で、フッと小さく笑う。


「あ」


 不意に、やりたいことを思いついてしまった。


 そうと決まれば。と、急いでパンを頬張りコーヒーで雑に流し込んだ。


◇◆


 9時を少し回った頃。僕はアパートから少し離れた海辺へと来ていた。


 周囲には人影もまばらで、遠くに犬の散歩をしている人が見えるくらい。


──ここなら、目立つこともないだろう。


 何を隠そう、魔力の影響が体に残っているかを試しに来たのだ。


 もし昨日のような力を発揮しているところを誰かに見られてしまったら、目立って仕方がない。


 最悪の場合、動画でも撮られてコッソリとSNSに投稿されるかもれない。


 その点、開けていて見渡しやすくオフシーズンで人も少ない朝の砂浜は理想だった。


「さてと」


 おもむろに姿勢を低くし、深く吐き出す。


 寄せ返す波の音に心臓の鼓動が重なって聞こえ、しっかりと呼吸を整えたら一気に息を吸い込み顔を上げる。


「フッ!!」


 サラサラした砂を強く蹴り、全身を前に運ぶ。


 柔らかい地面に足がグッと沈み込み、それを引き上げて何度も前へと踏み込んだ。


「……ん?」


 あんまり速くない。


 確かに思ったよりも速くはあり、「あ、影響残ってそう」とは感じるが少なくとも、昨日林の中から廃墟まで駆け抜けたときほどの疾走感は無い。


 おかしいなと考えながら靴を片方ずつ脱ぎ、中に入った砂を落とす。


「うわ」


 その時に周囲を見渡し、原因に気付いた。


 走ってきた足跡が、やけに深いのだ。


 踏み込む力がそのまま沈み込む方向へ伝わり、前進する方向に伝わりにくかったのだろうか。


──だとすると……


 浜辺の方へ歩き、直径20センチくらいの大きめな石を見繕みつくろって持ち上げる。


──軽い。


「やば」


 ポツリと呟き、その石を海に向かって全力で投げた。


 ヒュッと耳元で響く風切り音。


 その直後、石は放物線を描きながら沖に向かって猛スピードで飛び、1度水面でバウンドしてから波間に沈んでいった。


 魔力の影響は、思っていたよりも強く残っているようだった。


◇◆


 20時半頃。バイト先の焼き鳥居酒屋【とりしょう】で、今日もホールと洗い場を往復していた。


 金曜日はいつも客数が増え忙しくなるというのに、シフトを忘れていたとかで1人欠員が出ている。


 お陰様で全員ピリつきながらの仕事。


 休んだ濱野には後日しっかり埋め合わせをしてもらおう。というのは、今日働いているスタッフの総意だ。


 ところで、こんな状況だと普段なら半分パニックになりながら注文を取りキッチンに通すのだが、今日は違う。


 魔力の影響か、思考がクリアで、情報の奔流ほんりゅうを淡々と処理できた。


 怒涛の注文も聞き分けられ、漏らすことなくメモを作れる。


 普段なら苦痛な、大人数のお客様への飲み物も軽々と持ち運べる。


──これは、嬉しい誤算だな。


 正直、身体能力が上がったところで現実的に活かせる場所なんて少ないだろうと思っていたのだが、こんな形で役に立つとは。



「お客様、大変申し訳ございません、ウチは全席禁煙でして……」


 ふと、そんな言葉が耳に入る。


 その声のした方を見ると、倉内くらうちが4番テーブルの客に申し訳なさそうな顔をしながら注意をしていた。


「はぁ?居酒屋で禁煙とか有り得ないっしょ」

「すみません、ご協力お願い致します」


 倉内は何度も頭を下げるが、相手は応じそうにない。


 上気して赤くなった顔を見るに、相当飲んでいるのだろう。


 それにしても、このテの客は尽きない。


 壁や柱に「全席禁煙」と書いてあるのだが、日本語が喋れても読めない読むことはできない可哀想なヤツらだ。


「あの、すみません規則は規則ですので、守っていただけなけなければ退店していただくことになります」


 見かねた僕は、そう割って入った。


「は?お兄さん誰?今オレこのねーちゃんと話してンだけど」


 ゴミは眉を顰め、煙たそうに僕を手で払う仕草をする。


「煙たいのはテメーだボケ」と言いたくなるのをグっと堪えて、つとめて冷静に返答する。


「禁煙にも、退店にも応じていただけない場合、不退去罪にあたります。3年以下の懲役か10万以下の罰金を支払いますか?」


 これは比喩ひゆ的表現だが、血管の音を人生で初めて聞いた気がした。


 カスはガタッと椅子から立ち上がり、僕の方に殴りかかってくる。


 余りに予想外で唐突なことに身体がこわばり、反応できなかった。


──殴られる。


 そう思って、目を閉じた。


「離せッ!」


 だが、衝撃は訪れなかった。


 客の声に目を開くと、ソイツの腕を店長が掴んでいた。


「大の大人が、いい歳してみっともねぇ。俺だって吸いてぇのを我慢して毎日仕事してんだ。灰皿なら外に置いてある。吸いたきゃソコで吸ってから出直してきな」


 ドスの効いた声に頬の傷、体格もデカい店長にビビったのか、客の怒気が削がれる。


「チッ、二度と来るか、こんな店」


 そう言って、これ見よがしにとり串の上へ1万円札を叩きつけて客は出ていった。


 扉が閉まった瞬間、他のお客様がワッと沸き立った。


「流石店長!」「完全にビビってたよな」「オモロいモン見た」


 等と口々に言っている。


 そんな中僕はいたたまれなくなって、静かにキッチン横の洗い場に引っ込んだ。


「ダサ」


 洗い場には先客が居た。


「倉内かよ」


 倉内は何が面白いのか、僕の方を見てニヤニヤと笑みを浮かべている。


「自信満々に出てきたと思ったら、正論だけ言って、逆上させて、殴られそうになって、ビビってましたよね」


 そう言って倉内は目をギュッとつぶり、ビビっている僕のマネした。


「はいはい、どーせ僕は根性無しのダサ男ですよ」


 普段なら、あの場面に割り込むなんて無謀な真似はしなかった筈だ。


 異世界に行ったり、魔物を倒したり、いろんなことがあって気が大きくなっていたのかもしれない。


──そういう意味では、あの酔っぱらいと余り変わらないのかもな。


 なんて考えて、自己嫌悪の更に深みへ沈む。


「なんかセンパイ、ちょっと変わりました?」


 倉内が、俯く僕の顔を覗き込みながら聞く。


「何も変わってねぇよ。強いて言えばダサくなったんじゃねぇの?」


 投げやりにそう言ってため息を吐く。


「そんなこと……あるかも?」


 倉内は口に手を当てながらニシシとイタズラっぽく笑う。


「助けようとして損した」


 深くため息を吐き、「戻るわ」と言って洗い場を後にする。


「まぁ……ちょっと─かっ─です」


 背中から投げられた倉内の言葉はホールの喧騒に飲み込まれ、後半は殆ど聞き取れなかった。

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