異世界クローゼット

師匠の弟子

プロローグ【Walk into the closet】

 深夜1時、アパートに帰ってきたと同時に僕はベッドに倒れ込んだ。


「あ゛ー……疲れた」


 大学から直接バイトへ行き、終電ギリギリまで働いて帰ってくる。


 こんな生活を、かれこれ1年くらい続けていた。


──向いてない。


 漠然と、そう感じる。


 妥協して選んだ大学も、ノリで決めたバイト先も、僕には向いてない。


 どこかでシナリオ分岐をミスったゲームのセーブデータみたいな、「間違ってるよな」と思いながらも進むのをやめられない感じ。


 そんな思いが、僕の胸中で渦を巻いていた。



「……ん?」


 ふと、部屋に漂う異臭に気が付いて立ち上がる。


 作り置きでも腐らせたかと冷蔵庫を見てみるが、特にそんな様子もない。


 頭をポリポリと掻きながら異臭の元を探って部屋を歩き回った結果、最も匂いが強くなったのはクローゼットの前だった。


 発生源は恐らく、その中。


「……ふぅ」


 息を一つ吐き、意を決してクローゼットの戸を開く。


ギイッ


 と小さく蝶番ちょうつがいが軋む音がして開かれたクローゼットの中には、本来あるべき僕の服や小説、漫画などは無かった。


「は?」


 代わりに在ったのはカビ臭い匂いと奥へ広がる謎の空間。


 スマホのライトで照らすと壁は石造りになっているのが分かり、指でコンコンと弾くと音が響いた。


「えぇ……」


 夢でも見ているのか、或いは余りの疲れから幻覚でも見ているのか。


 気付けば僕はクローゼットだった空間に一歩踏み出していた。


「ッ!」


 足に触れた床面が思ったより冷たく、声にならない声が漏れる。


──夢では無さそうだな。


 そう思い玄関から靴を持ってきて、改めて僕はクローゼットの中に踏み込んだ。


◇◆


 通路のようになっていた暗闇を数メートル歩いたところで、少しひらけた空間に出た。


 中心には螺旋階段があり、上階からスマホのライトを無用にする程の光りが差し込んでいる。


 どうやらクローゼットから繋がっていたのは地下だったらしい。


 光に誘われるように螺旋階段を上がり、眩しさに目を細める。


──さっきまで、夜だったよな?


 スマホを確認しても、示すのは深夜1時過ぎ。


 だが僕の頭上に広がるのは、どう見ても昼の空だった。


 かつて何かしらの建物があったのだろう。辺りには、四角く整形された石が乱雑に転がっている。


「……どこだ?ここ」


 スマホは圏外を示しており、地図としての機能は期待できそうにない。


 とは言え口に出した問いに答えが返ってくるハズもなく、程なくして手詰まりという結論に至った。


「帰るか」


 そう呟いた直後だった。


 ガララッ


「ッッ!」


 不意に背後でした物音に驚き、弾かれたように振り返る。


「……スラ、イム?」


 そこには、水色のドロっとした半透明の何かが蠢いていた。


 どうやらさっきのは、ソイツが辺りに積まれていた石を崩した音だったらしい。


 僕の知るスライムソレとはだいぶ見た目が違うし、そもそもスライムが実際に動いているところなんて見たこともない。


 だが、それは【スライム】としか呼称しようのない奇妙な存在だった。


──できれば、故・鳥山明先生デザインの方がよかったな、可愛いし。


 そんな愚痴を心の中で吐いていると、スライム(らしき何か)がグググッと縮こまる。


「は?」


ベチャッ


 顔面にドロっとしたものが張り付いた不快感に気を取られ、気付けば僕は呼吸を奪われていた。


──急っ!飛っ!?息っ!!


 スライムが、僕の顔をめがけて飛びかかってきたのだ。


 息をしようとすると口や鼻からスライムが入ってきて、えも言えぬ不快感がある。


 必死に藻掻くが、ドロドロとして捕らえることはできず、どんどん息が苦しくなる。


 視界が白む。脳が痺れる。手足の感覚が消失する。


 半透明な水色越しに映る視界がグルンと回る。


 それがのだと酸素の足りない僕の脳が気付くのには、少し時間がかかった。


グニッ


 額に妙な弾力を感じた直後、顔面に張り付いていたスライムが突如として力を失ったように地面に崩れ落ちた。


「ッヒューーーー、ガハッ、ゴホッゴホッゴホッ」


 咳をする度に喉の奥からスライムの欠片が出てくる。


 手足に残る痺れと、脳裏にこびりついた不快感。


──死。


 人生で初めて感じた、余りにも色濃い死の気配。


 僕は起き上がることもできず、その場に胃の内容物を全て吐いた。


◇◆


 僕は息も絶え絶えで来た道を辿り、謎の通路を使って自室に逃げ帰った。


 水道で顔を洗い、乾燥して頬にこびりついた吐瀉物を流す。


──なんだったんだよ、一体。


 タオルで顔を拭きながら、心の中で悪態をつく。


 一息ついて落ち着くと、焦っていて靴を脱ぐのを忘れていたことに気が付く。


 スニーカーを脱ぎ玄関に並べ、少しザリザリする廊下を靴下で歩く。


──明日、掃除機かけなきゃな。


 そんなことを考えながら改めてクローゼットを開くと、そこには見慣れた服と漫画、小説のコレクションが並んでいた。


「ホントに何だったんだよ」


 妙な安心感と、それとは別に釈然としないモヤモヤを抱えつつも、僕の精神や肉体は限界を迎えていたらしい。


 ベッドに倒れ込むと、何かを考える余地もなく意識が途切れた。

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