クロソイド曲線
猫柳蝉丸
本編
オム・ファタールという言葉がある。
ある人物にとって、致命的・運命的な魅力を持った男性のことを指す言葉らしい。
女性版のファム・ファタールという言葉は知っていたが、オム・ファタールは彼のことを調べてから初めて耳にした。
彼……、成瀬川龍太郎はまさしくオム・ファタールという言葉が似つかわしい男だった。
成瀬川龍太郎が彼の所属する大学のゼミのほぼ全てのメンバーと性的関係があることを私は知っていた。
知ってはいたが、中肉中背で顔つきも平凡な彼のどこにそれほどの魅力があるのか分からなかった。私の人生には関係の無いことだと思っていた。
そうだろう? まさか私がそんな軽薄な男と何らかの関係を持つなんて考えられない。ゼミで同じ空間を共有してはいるが、それだけの話だ。
それだけの話だと思っていた。完全に想定の埒外だった。まさか飲み会で少し酔ったところに彼がすり寄って来ていたなんて。
そんなはずはない。ただ介抱してくれるだけ。その私の甘い考えはすぐに打ち砕かれた。あっと思う時間すら無かった。唇を奪われていたのだ。
男とキスするのは初めてだった。その初めてのキスがこんなにも甘く酩酊してしまいそうなものとは思っていなかった。
「あっちで二人で休みましょう」と微笑む成瀬川龍太郎に連れられた私はゼミの飲み会から抜け出し、近所だった彼の部屋に連れ込まれ、目くるめく快楽を与えられた。
甘く、酔い痴れたくなるような快楽と幸福感。とても言葉で表現し切れない。とにかくこれが本当の快楽だったのかと思わされた。
性的な技巧だけではない。「愛してますよ」でも「素敵ですよ」でも成瀬川龍太郎は私の欲しい時に私の欲しい言葉を与えてくれ、頭を撫でて可愛がってもくれた。
心まで夢中にさせられるその魅力。ゼミのメンバーが成瀬川龍太郎に魅了されていく理由が心の底から理解できた。
それから成瀬川龍太郎と私は週に二回の蜜月を過ごすことが日常となった。
会う度に惹かれ、会う度に彼に夢中になっていく。
成瀬川龍太郎の魔性はその優しさだけでなかった。時に厳しく、時に激しく私を責める。私が壊れる限界の所まで追い詰め、それ以上の愛を与えられてしまう。
さすがの熟年の技と言うべきなのだろうか、どこをどうされれば耐えられるのか、どこをどうされればそれ以上の酩酊を与えられるのか、彼にはそれが分かっているようだった。
人は優しさにはすぐ飽きる。厳しさにもすぐ慣れる。けれど、それを交互に与えられては耐えられはしない。そのように生まれついている。
こんなもの私でなくても彼に夢中になっててしまう。彼以外何も要らない。そう思わされてしまうほどに。
彼こそまるでまさしくオム・ファタール。
私の人生に舞い降りた致命的に運命的な男だったのだ。
●
彼との蜜月は意外な形で幕を降ろすことになる。
最近、ゼミで成瀬川龍太郎の姿を見ないと思い始めていた頃、ゼミのメンバーが口にしていたのを耳にした。
どうやらバイト先の先輩を妊娠させてしまったらしく、大学を辞めて就職を探そうとしているらしいとのことだった。
彼は私との性交渉の時も避妊具を利用しようとはしなかった。だからまあ、なるようになった結末と言えるだろう。
むしろ彼がその先輩の妊娠の責任を取ろうとしていることが意外ではあった。そういう意外性も彼の魅力の一つだったのかもしれないが。
彼の先のことは分からないが、少なくとも私と蜜月を続けるような時間など無さそうなことだけは確かだった。
終わってしまったのだ、私のオム・ファタールとの蜜月の時間が。
妙に冷静だったのは、あんな奔放な彼との関係が続くはずないと心の何処かで分かっていたからかもしれない。
けれど……、と私は思う。
この疼いてしまう身体の行き場はどうすればいいのか、と言うことを。
私は成瀬川龍太郎に教え込まれてしまった。男との性交渉を。男に愛される喜びを。こんなもの忘れられるはずがない。
どうしたらいいと言うのだろう。私には愛する妻も今年成人する息子もいるというのに。
大学の教授でありながら、教え子に男同士の快楽を教えられてしまったなんて、口が裂けても言えるはずなどなかった。
きっと私は探し続けるようになるのだろう。第二の成瀬川龍太郎を。私を愛して慰めてくれる若い男を。
恐らくはこの人生が終わるまで、ずっと。
そういう意味でも彼……、成瀬川龍太郎は私のオム・ファタールであったのだ。
クロソイド曲線 猫柳蝉丸 @necosemimaru
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