第2話 冷蔵庫会議は月曜夜。家事のKPI、可視化します

 日曜の夜は、味噌汁が正義である。

 僕は二杯目の椀を置き、スマホに映った兄のメッセージと、付随して届いた暗い部屋の写真を拡大した。貼られた付箋の群れ。真ん中の《後は頼む》の周囲に、小さな違和感があった。


「これ、照明の反射」

 栞さんが身を乗り出す。

「照明?」

「球じゃない。四角い光、しかも左上に“のれん”みたいな影。天井が低い……銭湯の脱衣所、かな」

 思考が熱を持つと、味噌汁の湯気と混ざる。僕は明るさを上げ、写真の端を指でなぞる。

「この注意書き、拡大すると“貴重品は番台へ”って読めますね」

「銭湯、確定しました」

「兄、風呂好きでした?」

「極端にきれい好き。付箋を二枚重ねるくらいには」


 しるこがテーブルの角で前足を伸ばし、キーを一つだけ押した。画面に「////」が走る。

「誤送信前に、会議しましょう」僕は咳払いする。「“冷蔵庫会議”を、月曜夜に定例化します」

「議題は?」

「家事のKPIと、兄の手がかり」

「KPIって、目標数字のやつですか」

「はい。家事に数字を入れると、ケンカの理由が三割減るそうです」

「どこ調べ」

「冷蔵庫係の肌感」


 僕らは立ち上がり、冷蔵庫の前に陣取った。ホワイトボードシートを貼り、マグネットを並べる。項目はシンプル。

・味噌汁率(週)

・洗濯完了率(遅延なし%)

・レシート提出率(冷蔵庫下段)

・しるこ健康ログ(食欲/くしゃみ回数)

・親族介入アラート(発生件数)

・兄の手がかり(進捗バー)


「味噌汁率は?」

「本日二杯で達成済み」

「達成のハンコ、猫でいいですか」

「猫で」

 栞さんが猫のスタンプを押す。小さな朱の肉球が、白いシートに増えていく。

「次、親族アラート」

「さっき伯父が一件」

「“合意語”の練習、しておきますか」

「……“冷蔵庫、満杯”」

 声に出すと、妙に頼もしい。非常時の“守り言葉”は、やわらかいほうが強い。


 その時、スマホがもう一度震えた。兄から続報。

《のれんの模様、見た?》

 写真の左上、ぼんやりとした影の縞。

「唐草……じゃない。これは“七本波”」

「七本波?」

「銭湯ののれんに使われる伝統柄。東京西側の一帯でよく見る」

「兄は東の人間だけど、移動はする。じゃあ——」

「明日、町内会経由で“七本波ののれん”の銭湯を当たります。合法で」


 “合法で”は重要だ。僕らはヒーローではない。紙と暮らしで戦う人間だ。

 会議を閉じる前に、栞さんが付箋を一枚、そっと書き足した。

《名前は私が決める》

 第1条。冷蔵庫の一番上段、乳製品の棚の上に、それを貼る。

「見える場所に置くの、いいですね」

「朝、牛乳を取るたびに思い出せますから」


 月曜。

 午前中は仕事。退勤後、栞さんと合流して、商店街の掲示板の前で待ち合わせた。七時きっかり、納豆屋の奥から会長が現れる。

「真白くん、ここに来るってことは、また“紙の相談”だね」

「防犯ネットワークの“情報の持ち主”に相談したいんです」

 僕は、兄の写真を直接は見せず、のれんの柄と注意書きの文言だけを伝える。会長は顎に手を当てた。

「七本波で、“貴重品は番台へ”……掲示の文言は古いままのところだな。最近、脱衣所に付箋を貼るような几帳面なお客さんを見た覚えが」

「え、そんな覚え方を」

「商店街の人間は、変な客の変な癖を覚えてるものだよ」


 会長は二軒の名前を挙げ、紹介メモを書いてくれた。

「“いなり湯”と“湯上り橋”。どっちも昔気質。とくに“いなり湯”は番台のおばあちゃんが付箋魔」

「付箋魔、心が通じ合えそう」

「ただし、個人情報の線は越えるな。番台さんの“人の記憶”の範囲で訊け」

「了解です。紙でいきます」

「紙?」

「お願いと確認は、紙にします」


 まず“いなり湯”。

 暖簾をくぐると、たしかに七本波が肩に触れた。番台には小柄なおばあちゃん。脇に付箋の束。

「こんばんは。ご相談があって——」

 僕は“お願い文”を差し出す。薄い和紙に、必要最小限だけ印字した。

《お願い:昨日から今朝にかけて、付箋を複数枚貼っていた若い男性(長身・黒髪・几帳面)の入店有無と、残置物がないかの確認。個人情報は不要。記憶と忘れ物の範囲のみ》

 おばあちゃんは目を細め、声を丸くした。

「几帳面くん、来たねえ。脱衣籠の位置まで定規みたいに揃えてた」

「忘れ物は、ありましたか」

「鍵。ロッカーの。番号は……えーと……“0310”。サトウの日だねえ」

「鍵はどちらに」

「忘れ物ボックス。預かり証を切るよ」


 僕は礼を言って、預かり証を受け取った。

「補足。几帳面くん、番台の脇の壁に付箋を一枚だけ貼っていったよ。あんまりきれいに貼るから、そのままにしてある」

 指差された壁を見て、呼吸が止まる。

 薄黄色の四角に、兄の字。《名は冷蔵庫より強い》

 栞さんの肩が、一度だけ震えた。

「……第1条ですね」

「はい」

 おばあちゃんは何も訊かず、ただ笑って言った。

「いい字だよ。うちののれんと同じで、ほどけにくい字だ」


 ロッカーの鍵“0310”は、旧式の硬貨式。預かり証と交換で鍵を受け取り、壁の列を端から数える。0310。

 扉を開けると、中は空だった。

 ……はずだった。

「底板、二枚構造です」

 栞さんが指先で隙間を示す。ネイルの先が、ほんのわずかな段差をかすめる。

 僕はポケットからプラスチックカードを取り出し、そっと差し込む。薄い底板が、ふわりと浮いた。

 そこに、白い封筒。付箋が貼ってある。

《冷蔵庫係へ》

 心臓が味噌汁のときと同じ速度で跳ねた。


 封を開ける。中には、コピーされた台帳の数枚と、短いメモ。

《“家の値段”を現金化する仕組み。伯父が動かしている。《破談保険》のルールは別紙。——兄》

 僕はその場で、肩の力が半分抜けた。怒りと、納得と、次にやるべきことが、背中の骨に順番で乗る。

「破談保険……」

「縁談を“商品”として運ぶスキームでしょうね。破談で“保険金”が出る形式なら、意図的な失踪や炎上も“利益”に変わる」

 栞さんの声は、乾いているが、折れていない。

「これ、法的にアウトな匂いしかしません」

「匂いは強いけど、証拠は薄い。だから——」

「紙にします」僕は言う。「“制度ざまぁ会議”の準備を」


 商店街の外に出ると、夜風が涼しかった。

 交差点の向こう、コンビニの窓に貼られた求人ポスターの文字が揺れる。

 会長が角から顔を出した。

「どうだった」

「“紙”が取れました。会長、証言の取り方、教えてください」

「いい顔になったな、真白くん。紙の戦いは、味噌汁みたいにコツコツだ」

「味噌汁で例えてくれるの、助かります」

「月曜夜に“冷蔵庫会議”をやるなら、商店街の会議室、安く貸してやるよ」

「会議室?」

「紙を広げるには、机がいる」


 部屋に戻ると、冷蔵庫の前が本部になった。

 白いボードの“兄の手がかり”のバーが、すこし伸びる。

 栞さんは猫の水を替え、僕は封筒の中身をスキャンして、PDFにまとめる。

 ファイル名は簡潔に。《制度ざまぁ_破談保険_証拠1-3.pdf》

「名前、強いですね」

「見失わないために」

「私の名前の件も、冷蔵庫に“正式版”を貼っていいですか」

「もちろん。第1条だ」


 その時、インターホンが鳴った。

 僕は目だけで栞さんと会話する。

 ——親族?

 ——“合意語”?

 玄関まで静かに歩き、モニターに指を伸ばす。映った顔は、見慣れない男だった。スーツ姿。冷たい目。

「宅配です」

「どちらから?」

「“湯上り橋”さんから。お忘れ物の返却と伺っています」

 銭湯の名前。僕らは無言で頷き合い、扉のチェーンはそのまま、受け取り口だけ開ける。

 差し出されたのは、小さな箱。受け取った瞬間、男が低い声で言った。

「家に逆らうのは、賢い選択ではない」

「配達員の台詞ではないですね」

 僕が言うと、男は口角を少しだけ上げ、踵を返した。足音は、伯父のそれと同じ種類の硬さだった。


 箱を開ける。中から、小さなメモが現れた。付箋の色。兄の字。

《月曜二十時、“湯上り橋”の裏口。湯気の上》

 僕は深く息を吸い、冷蔵庫のボードに新しい付箋を貼る。

《会合:湯上り橋 20:00 合意語準備》

「“湯気の上”って、どこですか」

「たぶん、ボイラー室の上。屋上の縁」

「そんな場所で会う理由は?」

「顔を見せずに話せる場所。湯気と水音が録音を邪魔する。兄は、紙と音の守り方を知ってる」


 会議の残り時間で、僕らは“合意語”の用途をもう一段、具体化した。

・親族または代理人が接触したら、即座に録音とカメラ起動。

・“冷蔵庫、満杯”が出たら、会話を打ち切り、紙(契約書第6条)をドアポケットから提示。

・想定問答は付箋で玄関脇に貼る。《無断入室→警察》《契約の無効主張→弁護士》《人格攻撃→無視》

 紙の武装は、見える場所にあるほど強い。


 八時五十五分。“湯上り橋”の裏口に着くと、微細な湯気が夜の灯りを鈍くぼかしていた。

 ボイラー室のファンが低く唸る。屋上へ続く鉄階段は、古いけれど、踏みしめればまだ鳴らない。

「僕が行きます。栞さんは下で“合意語”の待機を」

「危ないことをしたら、“満杯”を叫びます」

「了解」


 鉄の手すりを握ると、手のひらが湿った。

 屋上の縁。湯気が流れ、街の光が透ける。

「真白」

 湯気の向こうから、声だけ。兄の声。

「来たよ」

「後は頼む、って言っただろ」

「頼まれたから、紙を集めてる」

「賢い」

 湯気が途切れ、一瞬だけ、横顔が覗いた。痩せた。目の下に影。けれど、嘴の尖った笑いは変わらない。

「“破談保険”のスキーム、もう掴んだ?」

「台帳のコピーと、預かり証、ロッカーの底板。ざっくりは」

「じゃあ、次を渡す。——“家の看板の裏側”だ」


 兄の手が、湯気の中から白い封筒を差し出す。

 受け取ろうと身を乗り出した瞬間、下から鋭い声。

「真白!」

 栞さんだ。

「“冷蔵庫、満杯”!」

 同時に、金属のきしみ。階段の下に、黒い影が三つ。伯父の代理人の男と、もう二人。

 兄の横顔が、湯気の中で苦笑に崩れる。

「会いたがりが多いな」

「撤退」

 僕は一言だけ言い、封筒をジャケットの内側に滑り込ませる。

 兄の声が、湯気の向こうから低く響いた。

「“満杯”の次は、“保冷”だ。頭を冷やして紙で殴れ」


 階段を下りる途中、男が手を伸ばしてきた。

「返してもらおうか。家の書類を」

「家の書類は、家の冷蔵庫で保管します」

 僕は玄関用の想定問答から、二枚の付箋を剥がして突きつける。

《無断接触→録音中》《契約第6条→干渉拒否》

 男は目を細め、手を引いた。伯父の影が背中に貼りついたまま、退く。

 遠くで、番台のおばあちゃんが声を張った。

「若いの、夜風に当たりすぎると冷えるよ!」

 銭湯らしい助太刀だ。湯気が拍手しているみたいに、白く散った。


 部屋に戻ると、まず冷蔵庫を開ける。

 中の冷気が、顔に当たる。

 封筒を取り出し、テーブルに置く。

 栞さんが頷いた。

「開けましょう」

 中には、印鑑登録の控えのコピーと、親族会の“内規”案。さらに、小さなメモ。

《“家の看板”は、印鑑と口座でできている。どっちも紙で外れる。——兄》

 紙で外れる。

 僕はゆっくり、冷蔵庫の扉を閉めた。音は、前より静かだ。


 ボードの“親族アラート”の欄に、今日の件を一件追加する。

 “兄の手がかり”のバーは、半分を超えた。

 栞さんが、新しい付箋を一枚、上段に貼る。

《名前の正式版:佐倉 栞→“栞”単独表記に移行(当面)》

「表札は?」

「外します。家の看板より、私の名前を優先します」

 僕は頷き、猫の水皿を新しいものに替えた。

「冷蔵庫、満杯?」

「まだ、余白ありです」


 味噌汁の鍋に、残った湯が静かにゆれる。

 僕らは黙って、冷蔵庫の前に並んだ。

 暮らしの“定義”は、今日も少し、更新された。


――――

【次回予告】

第3話「“家”の値段——破談保険の台帳を読む夜」

・印鑑と口座、看板の裏側/“制度ざまぁ会議”に向けて証言集め開始/兄の新しい付箋は、なぜか“味噌汁の具”指定。

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