新しい旅へ
天継 理恵
新しい旅へ
——人波に流されている。
駅に向かう無口な大波に、俺は漂うように流されている。
目の前に広がるのは、大量の疲れた背中と項垂れた後頭部。みんな、ぶつかりそうになる肩と肩に、決して触れないようにと距離を測っている。
それは、月曜から金曜まで毎日見る、慣れた光景だ。
燦々と白く輝く、希望のような朝日に照らされながら、俺たちは憂鬱という名のレールを今日も歩いていく。
何年も前、働き始めた頃はその陰鬱な空気に驚いたけど、今ではもう、何とも思わない。
車の音、無数の雑踏、遠くで電車が走る音。
それらは全て、俺にとっての朝の音だ。
駅が近づき、まだ遠いホームから、電車の発車音楽が耳に触れた。
それは、一日が始まる合図だ。今日もまた、重たい労働を背負わされに行くための、言葉の無い号令。
気持ちは鉛のようだった。なのに、不思議と体は軽かった。慢性の肩凝りも腰痛も、今日はなぜか鳴りを潜めてる。足だって、自重を失ったのかと思うほどに軽い。
体が、俺を裏切っているようだった。こんなにも行きたくないのにと思いながらも、結局俺は、流れに逆らうことができずにいる。
だって俺はもう、立派な、社会の歯車だから。
横断歩道の向かい側から、逆流する波はやってくる。大量の人や人が、道を譲ろうともせずに歩いてくる。
俺は舌打ちをしながら、ことごとくそれを避けた。どうして俺が譲らなきゃいけないんだと内心文句を言いながら、それでもなんとかぶつからずに駅へと辿り着いた。
一息ついて、駅の天井からぶら下がる時計を見る。
……今日はちょっと早く着いてしまったみたいだ。おかしいな。いつも通りだと思ったのに。
俺は時間潰しにコンビニに寄ろうかと思い、駅構内にある店の自動ドアの前に立った。が、センサーが壊れているのか、ドアは開かない。
イライラが募る。何度手をかざしても、足踏みしても、自動ドアは動かない。
ちょっとした気分転換に、コーヒーと甘い物でも買おうかと思ってたのに。そんなささやかな計画さえも台無しにされ、気分は最悪だった。
俺は仕方なく、諦めて改札を通ることにした。少し早いけど、大人しく乗車列に並んでいよう。そう思って定期を出そうと、スーツの内ポケットに手を入れた時だった。
——定期がない。
俺は、内ポケットが空っぽなことに気がついた。いつもここに入れてあるはずなのに、何度叩いても探っても、定期券は影も形もない。
それどころか、いつも持ち歩いているスマホもなかった。あちこち手探ってかろうじて見つけたのは、尻ポケットにあった小銭入れだけだ。
家に忘れてきたのか?それとも道の途中で落としたのか?
焦る頭でグルグルと考えるが、答えは出ない。探しに戻ろうかとも思ったが、そこまでの時間の余裕はない。
……仕方ない。今日は大人しく切符を買うか。
重なる不運に肩を落とし、項垂れてため息をついた。
——そんな時、俺の前にふと、白い人影が現れた。
「お困りですよね。どうぞ、これを使ってください」
突然、目の前に薄クリーム色の切符を差し出された。
俺は驚いて、切符とそれを持つ白い手袋、そして人物へと目線を上げていった。
——そこに居たのは、全身真っ白な駅員服を身につけた、平凡な男だった。
訝しむ俺の目線と合うと、男はにこりと柔和な笑みを浮かべる。
「こちらの切符を、貴方に差し上げます」
駅員のくせにタダで切符を差し出すなんて、一体どういう配慮なんだ。大体、ここの駅員の制服は紺色じゃなかったか?この白い服はコスプレか?
ますます怪しむ俺に、謎の駅員は続ける。
「列車が貴方を待っていますよ。さぁ、行きましょう」
いよいよ怪しさが爆発し始めた。俺は睨むように白い駅員を見返すと、強気に声を上げる。
「結構です。自分で買いますから。というか、アナタ何なんですか。ここの駅員じゃないですよね」
ズバリと指摘するが、駅員に動揺した様子はない。穏やかな笑みのまま、俺に答えを返す。
「間違いなく駅員ですよ。でも、『ここ』の駅員ではないです。私がご案内してるのは、特別な場所へ向かう車両ですから」
煙に巻かれているようだった。俺は今この時間がとてつもなく無駄なもののような気がして、爪先で何度も駅の床を叩いた。
「言ってる意味がわかりません。急いでるんで失礼します」
吐き捨てるように言って、さっさと券売機に向かおうとした。
そんな俺に——駅員が、とんでもないことを言った。
「切符を買おうとしているならできませんよ。だって、貴方はもう、死んでいるんですから」
「………は?」と、長い時間をかけて動揺を漏らした。
この駅員が何を言っているのか、本気でわからない。
新手のイタズラか、嫌がらせか。不審に固まる視線とは反対に、駅員の笑顔はさらに柔らぐ。
「だから、死んでるんですよ。……やはり、お気づきじゃなかったんですね」
同情めいた瞳が細まる。
駅員が、俺に優しく説く。
「私は、死んだ貴方を隠り世へとお送りするために、お迎えに上がったんです。なのに、貴方はまるで自分が生きてるかのように振る舞っていましたよね」
駅員が、突飛なことを言っている。
頭が理解するのを拒否する。
胸が震える。
喉がカラカラと干上がる。
——なのに、心臓の音はしない。
「よくいらっしゃるんですよ。死んだことに気がつかないタイプの方。そういう方がご自分の死を認めずに意固地になると厄介なんですよね。たしか……現世ではそういうのを、地縛霊って言うんでしたっけ。現世に囚われ続けても、何も良いことはないんですけどね」
世間話でも持ちかけるような口調だった。ユーモアのつもりなのか、やけに言葉は軽い。けど、苛立つより前に、ひたひたと迫る薄寒さが勝った。
「……死んでるって、なんなんですか。俺はちゃんとこうして生きてるじゃないですか。こうしてアンタと話してるし、目も見えるし音も聞こえる。呼吸だってしてる。こんな俺のどこが——」
反論に夢中だった。だから俺は、その時後ろからやって来た人に気が付かなかった。
気配に気がついた時にはもう遅くて、確実にぶつかるはずだった。
——なのに。
「…………………え?」
すうっ、と。
後ろから歩いて来た女が、俺の体をすり抜けた。
感覚は何もない。ないことはあり得ない。
なのに、俺の目の前を、すり抜けた若い女が歩いていく。スマホ画面に映るSNSを見て笑いながら、まるで、何事もなかったかのように。
「これでおわかりいただけましたか?」
駅員が、殊更優しく尋ねてくる。
俺は地面に落としかけた視線を、恐る恐る駅員へと向ける。
「……落ち込んでいらっしゃいます?でも、無理もありませんね。誰だっていきなり『貴方死んでますよ』、なんて言われたら、ねぇ?」
わざとなのか、やけに軽い調子が気に障る。けれどその怒りは瞬時に勢いを失くして、重く沈む不安へと変わる。
「…………俺、本当に死んでるんですか」
「はい。死んでます」
「ドッキリとかじゃなく?」
「ドッキリというのが何かはわかりませんが、もう貴方の心臓はドッキリすることもないですし、ご自分でおわかりになりませんか?」
ことごとく希望を潰される。それでも納得しようとしない俺に、駅員は考えるように目を上げ、やがて駅員服の内ポケットからひとつの手帳を取り出した。
ペラペラとめくり、指を止め——そして、ゆっくりと口を開く。
「東山和宏さん、三十四歳。株式会社オーハラ商事にお勤めのサラリーマンで役職はなし。大学入学をキッカケに上京してもう長いですね。富山に残っているご両親と妹さんはお元気なようですよ。ここに名前がありませんから」
俺の個人情報と経歴が読み上げられる。事実しかない内容に、背筋が突き上がるように凍えていく。
「……なんで……俺のこと、そんなに知ってるんですか」
「この手帳に書いてあるからですよ。これはね、乗客リストなんです。三途の川経由、天国行きの列車のね」
チラリと、駅員が手帳のページを見せてくる。そこに書かれているのは、今読み上げた内容だ。俺の生まれから終わりまで、その全てが小さな字で事細かに書かれている。
「…………プライバシーの侵害じゃないですか」
いっぱいいっぱいの頭からようやく捻り出されたのは、間の抜けた、バカバカしいセリフだった。駅員はそんな俺にくっ、と小さく笑いをこぼすと、手帳を懐に仕舞いこんだ。
「たしかにそうですよねぇ。とはいえ、これは私の仕事なので。ああ、でも安心してください。この手帳も私も、生きてる人には見えませんから、情報漏洩の心配はありませんよ」
真面目に返されて、かえって肩の力がすとんと抜けた。それと一緒に、気味の悪いわだかまりが腑に落ちる。
——俺、死んでるのか。
生きてる時と、何も変わらないのに。
「……アナタの仕事は、あれですか。水先案内人的な、そういう仕事ですか」
「はい。まさにそれです。水先案内人的なあれです」
すんなり肯定する駅員が、あまりにも親しみやすい笑顔をするから。調子を狂わされた俺は、ふーっと息を吐いて駅の天井を見上げた。
「……ちなみに、俺、何で死んだんですか?」
「昨日仕事から家に帰って、ストレスからお酒を大量に飲んでお風呂に入ったんですよ。そこで、ぽっくりと」
「ぽっくりって!軽っ!」
あまりにしょうもない最後すぎて泣けてきそうになる。でも言われたら、そんな記憶がじわじわと蘇って来た。酒を飲んでたからなのか、死んだショックからなのか、全く覚えていなかったのに。
「……俺の人生って、なんだったんだろうなぁ」
あまりの虚しさに、自然と呟きがこぼれる。
振り返ってみても、輝いた人生だとはとても言えなかった。どれだけ思い返してみても、何かを立派に成し遂げたこともなければ、生きてて良かったと実感したことすらない。
──まるで、虚無だ。
生きる意味なんて、ろくに考えたことはなかった。
何も感じず、何も求めず。目指すものも大切なものもなく、ただ呼吸をして生きているだけ。
──いや、『死んでいないだけ』、だった。
俺の人生には、何も無かった。
そう気づいた時、生きてきた全ての時間が、無価値なものに思えた。
真っ暗な闇の中に突き落とされた気分だった。
そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、駅員は穏やかに語りかけてくる。
「何をしてきても、何をしてこなくても、死んだらみんな一緒ですよ」
それは、毒のような慰めだった。
そのあまりの割り切りぶりに、目から鱗が落ちる思いだった。
駅員の考えは、生きている人間の価値観とは違う。水先案内人という、生と死の狭間に生きるものだからこその価値観で、人生というものに意義や意味を見出そうとはしなかった。
無情で、冷淡で、潔くて──
でもそれが、俺を、掬ってくれて。
「それにしても……人間、いつ何が起こるかわかりませんねぇ」
──それは、俺のセリフじゃないのか?
そう思うと同時に、腹の奥から、おかしな笑いが込み上げて来た。
「本当、それな」
俺は声を出して笑った。こんなに笑ったのはいつぶりだろうってくらい笑った。
そうして散々笑ったら——ふと、心は軽くなっていた。
どうしてだろう。
死んだと聞かされても、不思議なほど未練がないのは。
家族の顔が一瞬浮かんだのと、ずっと追ってたマンガの続きがもう読めないことだけが引っかかったけど、気になったのはただそれだけだ。
鉛のように重かった気持ちは、嘘のように消えていた。
俺はもう、会社に行く必要がない。無能な上司にいびられることも、嫌な仕事を押し付けられることももうない。スーツに袖を通す嫌悪感に悩まされることもない。
無敵のような解放感だった。晴々とした気持ちに自然と顔が上がって、俺はまっすぐに前を向いていた。
「……おわかりいただけたようで何よりです。さて、そろそろ逝きましょうか」
ふっ切れた俺に、駅員はもう一度切符を差し出してくる。よく見れば、切符の行き先は本当に天国と書いてある。
そんな雑でストレートなことがあるか?そう思ったら、また少し笑えた。
「天国って、キリスト教じゃなかったっけ」
「たしかにこの国風にいうと正しくは『極楽浄土』なんですが……若い方には不人気でして。『天国』という言葉の方がより一般的なようですし、万人にわかってもらえる便利な言葉なので、今はそうご説明しているんです」
「なんだよそれ。案外あの世も俗っぽいんだな」
「スムーズにご理解いただき、ご乗車いただくのがモットーですから。我々なりの努力なんですよ」
「聞けば聞くほどイメージと離れてくなぁ……」
言いながらも、俺は手を伸ばして、切符を受け取っていた。
目の高さにかざしてみる。勤め始めてからずっと定期を使ってたし、それ以外はスマホのSuicaを使っていたから、片道切符なんて久しぶりに見た気がする。
——だからだろうか。こんな小さな紙切れが、やけに『旅』を予感させるのは。
「天国って、どう?」
「良いところですよ。現世風に例えるなら……リゾート地とでもいうんでしょうか?海や川、山や丘など、美しい景色がいくらでもあります。どこもかしこも清々しい空気に満ちていて、時間を忘れてゆったりとできる場所です。貴方はそこで、次の旅に出る時を待つんですよ」
「次の旅って……来世的な?」
「そう。来世的な」
駅員がまたくすりと笑う。それに釣られて、俺も一緒に笑う。
「……旅なんていつぶりだろ。修学旅行以来かな」
「手帳を見る限り、随分とお忙しいようでしたからね。たまには息抜きするのも良いものですよ」
「息抜きもなにも、現実の俺はもう息してないんだけどな」
ノリに合わせるような軽口がぽんぽんと出てくる。……もしかしたら俺は、思ったよりもワクワクしてるのかもしれない。
振り返れば、人生という旅路には、たくさんのしがらみや義務という重い荷物があった。子どもの頃、夢見て眺めていた広大な地図は、いつの間にか俺の持ち物から消え去っていた。
——世界は広いと思っていたのに。
俺が辿り着いた場所は、地図なんていらない、ただ小さく、狭いだけの世界だった。
「……楽しみだな。どんな景色が観られるか」
穏やかに、心が凪いで。
俺はかつて自分が居た場所を振り返り、まだ生きている人の——暗い顔の人の群れを、どこか遠い世界のモノのように見送った。
切符を手に足を踏み出せば、駅員は恭しく俺を導く。
示す先に、ふわりと白い雲が立ち込めた。
そしてそれが道を拓くように晴れると——空に続く、ガラスのような透明な階段が現れる。
「さぁ、貴方の逝く先はこちらです。この階段を登る先に、貴方の乗る列車が待っています」
「……駅員さんは?ここまで?」
「はい。私の役目は、ご案内するところまでなので」
「そっか。……じゃあ、ここからは俺ひとりってことか」
「ええ。でも安心してください。天国にはたくさんの人が穏やかに暮らしていますから。きっと、貴方と気が合う方もいらっしゃいますよ」
駅員の励ましを受け、俺は階段の一段目に足を乗せる。すると踏み出したその瞬間、背後から「あっ」という声が聞こえた。
「すみません、乗車賃をいただくのを忘れてました」
「は?お金取るの?」
「ええ。知りませんか?三途の川を渡るには、渡し賃というものが必要なんですよ。小銭、持ってますよね?」
「……持ってるけど」
尻ポケットから小銭入れを取り出す。もしかして、死んだ俺が小銭入れだけ持ってたのって、この渡し賃を払うためだったんだろうか。
「では、三百五十円いただきます。最近値上がりしたばかりで申し訳ありませんが、ご協力よろしくお願いします」
値上がりって。物価高の波はあの世にも来てるのか。
俺は世知辛い気持ちになりながらも、伸びて来た手のひらの上に、ぴったりの額を支払った。
ジャラ、と。何枚もの硬貨が音を立てる。
「いち、にい、さん……はい、確かに頂戴しました。では、今度こそお別れです。天国までは少々長旅ですが、一眠りすればすぐですよ。車内は広々としていますから、どうぞ快適にお過ごしください」
一歩下がった駅員が、懐に小銭をしまい、帽子のつばに手をかけた。
帽子を直すような仕草は、どこか敬礼にも似ている。俺はそれに応えるように、ゆっくりと頭を下げる。
「……じゃあ、いってきます」
笑顔が、俺を見送る。
「はい、いってらっしゃいませ」
門出を祝うような、祝福の笑顔が。
——日常が遠ざかっていく。
俺は足を止めることなく、透明な階段を上っていく。
目の前に、生暖かい白い雲が立ち込める。
俺を霞ませていくその雲に包まれながら——俺は、最後の現世の声を聞いた。
「どうか、お元気で。——また、来世でお会いしましょう」
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