無実と演技
まな板の上のうさぎ
無実と演技
神谷悠真は、舞台の上で何度も死んだ。裏切られ、刺され、崩れ落ちる。観客はまばらで、拍手は乾いていた。
鳴かず飛ばずの十年。
「演技に生きる」と決めたはずの人生は、ただの“生活”に成り下がっていた。
そんなある日、一本の電話が鳴った。
「殺人犯の役、やってみませんか?」
映像出演のオーディション。しかもリアリティ番組。台本はなく、即興で“犯人”を演じるという。悠真は笑った。
「俺にぴったりじゃないか」
誰も見ていない舞台より、誰もが見る“現実”の方が、よほど演じがいがある。
オーディション会場は、都心の雑居ビルの一室だった。壁は白く、無機質。机の上には一枚の紙。
「あなたが殺人犯だとしたら、どう振る舞いますか?」
それだけが書かれていた。悠真は椅子に座り、深く息を吸った。目を閉じる。
——殺人犯。
罪の意識。逃亡の焦り。誰にも言えない秘密。それらを、体に染み込ませる。
「俺は、殺してない。……でも、殺したかった」
低く、震える声。審査員の一人が息を呑む。悠真は、ゆっくりと顔を上げた。その目には、確かに“何か”が宿っていた。
数日後、彼に連絡が入る。
「あなたに決まりました。番組は来週から撮影開始です」
リアリティ番組『真犯人は誰だ』。
複数の“容疑者役”が登場し、視聴者が犯人を推理する形式。
だが、悠真は知っていた。
——俺が“犯人”だ。誰よりも、そう見せてやる。
撮影初日。
スタジオは、まるで本物の事件現場のように作り込まれていた。血痕のついたカーペット、割れたガラス、散乱する家具。
スタッフは言った。
「ここで、あなたが“殺した”ことになっています。あとは自由に演じてください」
悠真は現場を見渡し、ゆっくりと歩き出す。指先で血痕をなぞり、鼻先に近づける。
「鉄の匂いだ。……生々しいな」
誰も指示していない。だが、カメラはその一瞬を逃さなかった。他の“容疑者役”たちは、どこかぎこちない。台詞を探し、動きを迷う。
だが悠真は違った。
彼は、まるで“本当に殺した男”のように振る舞った。
「殺した理由?……理由なんて、必要か?」
その目は、空っぽだった。
スタッフの一人が呟いた。
「……怖いくらいリアルだ」
撮影が進むにつれ、悠真は“役”に沈んでいった。夜も眠らず、事件の資料を読み漁り、犯人の心理を追体験する。
「俺は、殺してない。でも、殺したかった」
その言葉が、現実と演技の境界を曖昧にしていく。
そして——本物の殺人事件が起きた。
撮影が終わった翌朝、ニュースが流れた。
「都内マンションで女性の遺体発見。容疑者は不明」
画面に映る現場は、昨日の撮影セットと酷似していた。
血痕の位置、家具の配置、凶器の種類——まるで番組の再現映像のようだった。
悠真はテレビを見ながら、眉ひとつ動かさなかった。
「……偶然にしては、出来すぎだな」
彼はそう呟き、冷めたコーヒーを口に運んだ。数時間後、警察が訪れた。
「神谷悠真さんですね。殺人容疑で逮捕します」
手錠がかけられる。悠真は驚いた様子もなく、静かに頷いた。
「俺が、ですか?」
取調室。
「あなたの指紋が現場に残っていた。凶器にもあなたのDNAが」
悠真は首を傾げた。
「それは……撮影の小道具と同じものだったんじゃないですか?現場に似たセットで演じたんです。触れた記憶はあります」
刑事は目を細める。
「現場に行ったのか?」
「いいえ。行ってません。撮影以外では、あの場所には一度も」
彼の声は落ち着いていた。焦りも、動揺もない。むしろ、理路整然と“無実”を語る姿は、説得力に満ちていた。
「俺は、犯人の心理を演じただけです。リアルに見えたなら、それは……役者としての誇りです」
刑事は言葉を失った。それは“言い訳”ではなかった。
それは“演技”だったのか?それとも——“真実”だったのか?
悠真は、鏡のようなアクリル板に映る自分を見つめていた。
その目には、罪悪感も焦りもなかった。
あるのは、ただ“演技の完成度”への満足だけ。
裁判は、証拠不十分で悠真の無罪が確定した。世間は騒いだ。
「冤罪だ」「演技力が真実を覆した」
ニュースは彼を“悲劇の天才俳優”として持ち上げた。
舞台のオファーは殺到し、彼の名前は一夜にして全国に知れ渡った。
美月は、判決の日に彼に会いに行った。
「……本当に、あなたじゃなかったのね」
悠真は微笑んだ。
「そうだよ。俺は、ただ演じただけ。それを誰もが信じた。それだけさ」
彼女は去った。その背中を見送りながら、悠真はポケットから小さな紙片を取り出す。それは、事件現場で拾った“本物の凶器の位置”を示すメモだった。彼はそれを見ながら、鏡の前に立つ。
鏡の中の自分が、笑っていた。
「上手くだませた」
その声は、誰にも聞こえない。だが、鏡の中の男だけは知っている。
——これは、最高の演技だった。
悠真は、新しい台本を手に取る。タイトルには、こう書かれていた。
『次の殺人犯』
無実と演技 まな板の上のうさぎ @manaitanoue
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