魔法師サクシード

赤巻紙

第一話 長い道のり

 轟音とともに燃え盛る業火は、悲鳴を飲み込み拡大していく。

 目の前には様々な光景があった。炎に炙られ、のたうちまわる者。焼け落ちた民家の下敷きになる者。侵入した化け物に首をはねられ、動かなくなる者。

 踵を返してもそこに広がるのは同じ惨状。まだ耳が聞こえる者なら、振り返るまでもなくそれがわかるだろう。


 その炎の中心に、俺は立っていた。


 逃げ惑う群衆は時折こちらに視線を向ける。しかし、すぐに顔をひきつらせ、足早に振り返っていった。

 そんな中、俺に背を向ける群衆とは異なり、真っ直ぐと視線を突き刺してくる者もいる。逃げるのではなく、一歩、また一歩と慎重に歩み寄る影。敵意を持っていることはそいつの鋭い目つきから明らかである。


 俺が踏み込むと、遅れて彼らも体を揺らす。次の瞬間、正面にいた一人と拳を交えた。


 しかし、拳に衝撃が走ることはなく、視界は突如暗闇に包まれた。

 辺りには悲鳴どころか、音一つない。

 世界の果てまで、暗闇が無限に続いているようである。

 そんな空間の中、目を凝らすと、ある男が立ちすくんでいることに気づいた。

 紺色の髪と黒いロングケープが、男の姿を闇へと溶け込ませている。

 男は誰かを探すように周囲を見回していた。

 やがて、男はこちらに気付き、目を見開く。


「‥‥‥見つけたぞ!!!!」


 男の気迫に、思わず肩が跳ねる。


 そこで、目が覚めた。


「すうぅ‥‥‥はぁぁ‥‥‥」


 布団をめくりあげる前に、まずは深呼吸。鳥のさえずりと川のせせらぎに耳を澄ませ、瞼は軽く閉じたまま。

 何度も、ゆっくりと息を吸い込む。そのたびに、夢の余韻を織り交ぜて息を吐きだす。

 

「‥‥‥よし」


 額の汗が引いてきたところで、俺は布団をめくり体を伸ばす。骨がわずかに軋む音を伴いつつ、全身にじんわりとした熱が広がっていく。

 ふぅ、と息を漏らし十分に引き延ばされた体に目を落とすと、胴の一部が光と重なっていることに気づいた。

 誘導されるように光の出どころに目を移す。そこには半端に二分されたカーテン。

 俺はベッドから抜け出し、光の出どころまで足を運んだ。そして、シャッという痛快な音と共に、一思いにカーテンの亀裂を広げる。

 すると、先ほどまでか弱く細々しかった光が、瞬時に全身を包み込んだ。

 

 俺は陽光に目を焼かれつつも、負けじと瞼をこじ開ける。徐々に鮮明になっていく視界は、この山を構成する木々を捉えた。相変わらずの活気である。

 しかし、ほとんどが緑と茶で構成されている風景の中に一際目立つ青がある。そこでは、まるで木々を二つの勢力に分断するかのような川が、堂々と横切っているのだ。

 これが、山の中にポツンと佇むこの家ならではの景色。心を落ち着けるのにうってつけだ。

 おかげで最近は悪夢にも慣れつつある。


 見慣れた絶景に見惚れていると、ふと一階からの物音に気付いた。

 俺は窓から視線を外し、部屋を出る。背中に湿り気を感じながら。



 一階の扉を開くと、部屋は温かみある香りに包まれていた。匂いの元の台所では、スープをかき混ぜるカリナさんの姿がある。黒く長い髪をひとつに結んだ、家事をするときのいつものスタイル。

 彼女は今年で二十八、俺との年の差は十ほどである。何故なのかというと、訳あって俺の年齢が不明だからだ。なので推定だが、見た目的には十歳差くらい。周りからはよく姉と弟のように思われていた。

 だが、俺からすればれっきとした親のような存在だ。


「おはよう、シン」


 彼女はスープに目をやりながら、穏やかに声をかけてきた。


「おはよう、カリナさん」


 気楽な挨拶をする彼女に、俺も同じように返す。

 そして今度は、ダイニングテーブルを拭いている彼に目をやる。


「おはよう、アクア」

「おはよう、シン」


 彼が顔を上げると、白い髪の隙間からは海のように青々とした瞳が姿を現した。

 その時、いつも通りの澄んだ彼の瞳が、一瞬濁る。


「大丈夫? 悪い夢でもみた?」


 図星をつかれ、少し戸惑いながら俺は頷いた。

 彼は特に驚くこともなく、声色を変えずに続ける。


「やっぱり。前にも言ってた悪夢? 顔色がよくないし、汗もすごいよ」

「‥‥‥そんなにわかる?」

「段々わかるようになってきた」


 彼は軽く肩をすくめ、俺は苦笑を漏らした。

 その時、不意に今日の悪夢がいつもとは少し違ったことを思い出した。最後に出てきた紺色の髪の男。あれを見るのは初めてだった。

 妙に胸がざわつき始める。

 

「そろそろできるから、座っちゃいなさい」

「はーい」


 カリナさんの声に応じて、彼は手にしていた布巾をテーブルの隅におき、椅子に座った。俺は深呼吸をはさみ、湧いて出た胸騒ぎを沈めた後、彼の隣に座る。


「はい、冷めないうちに食べな」


 目の前には湯気を上げるスープとパンが置かれた。全員分を配膳し終え、彼女は俺の向かいに座る。


「もう、朝からそんな顔してないで。そんなに怖い夢だったの?」

「いや、そういうんじゃ‥‥‥」


 彼女は少し楽し気に、からかうように言った。

 俺はきまりが悪くなり、スープに視線を落とす。


「いただきます」


 スプーンを手に取り、一口。

 直後、じんわりとした熱が体中に広がる。


「おいしい」


 思わず手を止める。噛みしめるように、言葉が漏れ出た。


「うん、それはよかった」


 顔を上げると、彼女はじっとこちらを見つめていた。

 静かにほほ笑む彼女の顔が、心をほぐす。

 俺は自然と笑みをこぼした。


 彼女は、こうしていつも俺を安心させてくれる。

 記憶もなく、森で彷徨っていた俺を助けてくれた時もそうだった。彼女の言葉、表情が、荒んだ俺の心に人の温かみを教えてくれた。


「そんなペースで食べてたら、すぐ冷めちゃうよ?」


 隣から聞こえるアクアの軽口に、再び軽い笑みを浮かべる。

 彼の言葉に促されるようにパンにも手を伸ばし、齧った。すると、乾燥した口内がスープを求め、自然と手が動く。

 スープで潤いを取り戻すと、再びパンの風味を欲する。

 そうして、スープもパンもみるみる減っていく。

 

 気づけば胸のざわつきは薄れ、背中の汗もすっかり乾いていた。



 俺とアクアは食料を探しに山へ来た。


 そいつを真正面に捉え、目が合った時、やつは鼻を荒くさせた。

 全長は二メートル弱。

 そしてそいつは、その巨体を四つの足で加速させ、俺の方へと突進する。


「よっ! ふんっ!」


 しかし、先ほどの荒々しさが嘘のように、イノシシは俺の一撃で地面にめり込んだ。こいつらは、力はあるが動きが単調すぎる。少し横にずれて、顔に一撃を与えればこの通りだ。


「流石だね、シン」


 安全を確認して、俺の後ろに下がっていたアクアが木の陰から顔を覗かせた。


「別に、そんな大したものじゃないって。隙をついて殴るだけだぞ」


「いや、普通このサイズのイノシシを素手でいかないから‥‥‥」


 彼の反応から、俺は自分の拳に視線を落とす。

 じっと見つめていると、昔のことが想起された。


『うわ、なんだあいつ』


『あれ、全部あいつが?』 


『バカッ! あんま近寄んな‥‥‥!』


『‥‥‥‥‥‥』


『‥‥‥君、大丈夫? そう、君だよ』


『別に、怖くなんかないよ。どう見ても人間だし』


『ここが私の家、遠慮はいいから、早く』


『名前がないのは不便ね‥‥‥じゃあ、シンってのはどう?』


『ありがとう! 助かったわ!』


『シン! ここにいたのね!』


『え? 村長の家が?』


『違う! この子はそんなこと‥‥‥!』


『ごめんね。あと少しだから』  


『今日からここが私達の家! 凄いところでしょ!』


「‥‥‥シン、大丈夫?」


 俺はハッとして、アクアの憂いを帯びた視線に気づく。それは恐怖で震えていたり、興味本位で覗き見たりするようなものではない。ただ純粋に、俺を心配しているものであった。

 

「ああ、ごめん。少し、昔のことを思い出して」

「昔って、村にいた時のこと?」

「うん、詳しく話したことはなかったよな。この力が原因で、昔はよく怖がられてて」


 俺は再び拳を見つめる。


「‥‥‥アクアは、俺のことが怖くないのか?」


 思わず、言葉がついて出た。今まではっきりとは聞けなかったこと。

 あんな経験をしたのだ、何度も聞こうとは思っていた。しかしそのたび、言葉が出るギリギリで踏みとどまってしまっていた。

 彼との関係は十分に深まっているとは思うが、彼の答えに身構えてはしまう。

  

 心臓の音が肥大化していく。


 そして少しの沈黙の後、彼は口を開いた。


「別に、怖くないよ。力は強いけど、それで誰かを傷つけたりしない。むしろ、シンは守ってくれる」


 答えを聞いたとき、スッと体のこわばりが解けた。

 再び短い間を置き、彼は言葉を続ける。


「けど、そこまで体が強い理由は気になるけどね。なにか、心当たりとかはないの?」

「それは、俺だって知りたいさ」


 重ねて、村での生活が想起された。もちろん悪いことばかりでもなかったし、カリナさん以外にもよくしてくれる人はいた。

 それでも、この力が原因で悩まされることは多かった。力の制御が不十分で、意図せず他人を傷つけてしまうこともあった。そんなのだから、当然この力がなんなのかは気になる。

 しかし今は、それ以上に思うことがある。


「確かに力のことも気になる。でも今は、アクアやカリナさんが普通に接してくれている。それだけで、満足だ。ありがとう」


 俺は真っすぐに彼を見て告げた。


「そっか‥‥‥」


 同様に彼も真っすぐにこちらを見つめ、軽く微笑む。

 アクアをこの森で見つけた二か月前。遭難している様子の彼を助けることに、迷いはなかった。怖がられるかもしれないが、それならそれでいいと思った。カリナさんがしてくれたことを、俺もやってみたかった。

 それから一度家に連れ帰ると、しばらく一緒に住むこととなった。そのまま、今や気の置けない存在となっている。

 これからもこんな生活を続けながら、彼のことをもっと知っていきたい。

 周囲の森を見渡しながらそんな考えを浮かべ、俺は彼の方へ視線を戻した。


 直後、彼の背後から大きな黒い影が飛び出し、肌と肌が衝突する鈍い音が響いた。

 遅れて、彼が木に叩きつけられる鋭い音が木霊する。


「アクア‥‥‥?」


 時間が止まったかのように、体が固まった。

 しかし、真っ白になった頭でも、状況を理解するのに時間はかからなかった。

 目の前には、息を荒げるクマのような姿の化け物。所々が岩のようにゴツゴツした、三メートルほどの巨体。

 そいつの腕に、アクアは吹き飛ばされたのだ。

 俺は反射的にそいつに背を向け、彼の元へ全力で駆け出した。

 後ろからは重い足音が迫り、耳が震える。

 俺は彼の安否を全力で憂いながらも、どこか冷静に、背後にいる奴との距離が縮まっていくのを感じていた。


 やがて、迫りくる影が自分の体と重なったところで、俺は振り返る。


「クソッ!」


 振り返った時には、すでに化け物の腕は振り上げられていた。軌道を予測し、振り下ろされる腕を避けようと横に跳ねる。

 しかし、それは想定よりも素早く、爪が頬を掠めた。


「うおおおお!!!」


 だが、こんなかすり傷では止まれない。

 俺はがら空きとなった脇腹の辺り目掛けて、勢いよく拳を振るう。

 拳は風を切り、狙った通りに直撃した。


「‥‥‥え?」


 手ごたえは十分だった。パンチにも全身の力を乗せた。先ほどのイノシシであれば、顔の原型もとどめていられないほどに。

 しかし、化け物は気絶するどころか、ひるむことすらなかった。


 そして、そいつは雄叫びを上げながら、再び腕を振り上げる。

 咄嗟に多くの思考が頭を駆け巡った。


――どうする? あれを使うか。今ここで。


 悩んでいるうちに、腕は俺の目の前まで迫っていた。もう、時間はない。


 やるしかないと決心したその時、化け物の動きがピタリと止まった。

 一瞬の硬直の後、化け物はゆっくりと後ろに倒れこむ。


「なんだ‥‥‥?」


 恐る恐るみてみると、化け物の体には、計十か所ほどの穴が開いていた。穴からは血を垂れ流し、口を開け、舌がむきだしとなっている。

 こいつは、間違いなく死んでいた。

 俺の拳でもびくともしなかった猛獣が、一瞬で死んだのだ。

 今のは、後ろから何かがとんできたように思えた。

 こいつを瞬時に殺せるほどの何かが、俺の背後にある。


 俺は、ゆっくりと振り返った。

 はやる気持ちを抑え、慎重に視線を向ける。


 そうして目に映ったのは、まったく無傷の彼。

 彼はついさっき、投げ捨てられる人形の如く、軽々と吹き飛ばされていた。全身の骨は砕け、立つどころか呼吸すらままならい傷を負ったはず。

 そんな彼が今、平然と立ちすくんでいる。


「アクア‥‥‥? アクア!? 無事なのか!?」


 混乱する俺と対照的に、彼はゆっくりと口を開く。


「うん、無事だよ」


 それから彼は、淡々と語り始めた。


「あれが僕の使う魔法。魔力で水をつくって操れる。今のは鋭く尖らせた水を飛ばして、そいつの体を貫いた」

「‥‥‥?」


 俺は混乱しながらも、確かに腕や地面に水が飛び散り、濡れていることに気付いた。


「あ、いや、それより、無事でよかった。アクアが吹っ飛ばされた時は、心臓が止まるかと‥‥‥」

「僕はシンを調査するためにここへやってきた。シン、君も魔法を使えるんでしょ? さっきあいつに襲われそうになった時、体から一瞬魔力が漏れ出たのを確認できた」


 彼は俺の言葉など気にかけず、続けざまに言葉を並べ、ひたすら詰め寄る。

 その瞳は刺々しく、いつもの穏やかさは微塵も感じられなかった。


 そこで俺は、なんとなく状況を理解できた。 

 彼は今、無事を喜びあったり、昼飯の話をしたりする気分ではないらしい。

 ひとまず、俺も切り替えるとしよう。


 静寂が場を包み、やがて俺は口を開いた。


「‥‥‥魔法と呼ぶことは知らなかったが、そういう力が存在しているのは察していた。俺は炎をだせる。さっきは、これで抵抗しようとした」


 俺は右に顔を向かせ、岩の方へ腕を構えた。ゆっくりと体内の力を湧きあがらせ、手のひらにそれを集中させていく。

 やがて小さな赤い光が現れ、次第に膨れ上がっていく。


「くっ‥‥‥!」


 しかし、ボンッという音と共に途中で炎は破裂してしまった。

 俺は伸ばした腕を顔の前まで引き寄せ、小さく白煙を上げる掌に視線を落とす。


「見ての通り、俺は魔法の制御が上手くできない。制御の効かない炎なんてのは危険だし、普段から使わないようにしていた」


 彼の視線に僅かな恐怖を抱きながらも、俺は慎重に言葉を選び、事実を伝えた。


「そっか。じゃあ、ここからが本題。君の中にある強大な力。それの自覚はある?」


 しかし、誤魔化そうとしても無駄なようだ。本人も本題と言っているように、アクアが調査したいのは俺が魔法を使うか否か、などではないらしい。

 

 俺の中に眠る力。

 はっきりと覚えているさ、忘れるはずがない。村の半分を焼き尽くした、あの暴威のことを。


「‥‥‥」

「シンは自分の炎であの魔物を倒そうとしたと言ったけど、本当にそう? あの状況ならまず勝つことを真っ先に考えるはず。なりふり構わず全力で魔法を放てばいい。なのに、あの時のシンから感じたのはひたすらな迷い。勝利は前提、力を使った後のことばかり考えているように見えた」


 全部見透かされているようだ。

 彼の言う通り、魔法を放つだけならば迷うことなどなにもない。

 仕方なく、俺は諦めるように全てを自白した。


「適わないな‥‥‥察しの通り、俺は自分の中に力があるのを知っている。一度だけ使ったこともあるが、結果は悲惨なものだった。それから、もうこの力は使わないと決めた」


 俺の言葉に、彼は前のめりに答えた。


「そこまで知ってたんだ。じゃあ、僕についてきて。シンの力は危険すぎる」


 恐らく、このついていくというのは彼が元々いた場所、俺を調査しようとしている人たちのいるところだろう。

 徐々に混乱も収まっていった俺は、率直に思ったことを口にした。


「二か月も調査するくらいだ、あれは相当な力なんだろ。だから、アクアについていくのは構わない。でも、カリナさんも連れて行っていいか? アクアのような強い人達がいる場所の方が安全だろうし」


「最初からそのつもり。今回みたいに、魔物の出現するエリアに住む人達に安全な住居を提供するのも僕たちの役目だから」


 彼は徐々に、普段通りの穏やかな雰囲気を取り戻している。


「わかった、じゃあ一旦俺が家に戻って話してみる」


 話を終え、俺が踵を返そうとした時、当然アクアもついてこようと、足を一歩前に出した。


「ごめん、少し一人にさせてくれ。三人で話す時間も後でとるから」

「あ、うん、わかった。じゃあ、僕はこいつの処理をしとこうかな」


 彼は魔物の死体に目をやりながら言った。

 俺は半端に捻った体をねじり、彼に背を向ける。

 しかし歩みを進める直前、背後からの声に俺は足を止める。


「最後に、僕と約束して。シンの中に眠る力、絶対に使っちゃだめだよ」


 彼の声色は、今日一番の重みを帯びていた。


「わかった、約束だ」


 今度こそ、俺は家に向かって歩き出した。



 魔法のことだけならまだしも、できればあの力については気づかれたくなかった。

 昔から予感があるのだ。力の正体を知り、自分が何者かを知る。その過程は茨の道であると。

 道の入り口では、今の平穏に終わりを告げなければならない。

 そこから、果ての見えない道を一歩ずつ、鋭い痛みに襲われながら掻い潜っていく。

 悪夢で見たような情景が、現実となって押し寄せるだろう。

 何度も挫けそうになるはずだ。

 俺は、それに耐えきれるか不安なのだ。

 それが、平穏を捨ててまで歩む道なのかわからない。


 今も、迷い続けている。

 カリナさんを一目見て、気持ちが揺らぐかもしれない。日常を手放せなくなるかもしれない。

 だからこそ、一度家に帰ろう。カリナさんと話して、その後アクアとも話す。決心はそれからだ。

 足音を土に吸収されながら、俺は静かに歩を進める。

 

 心の整理がひと段落するくらいには、歩いた。

 家にもかなり近づいている。

 少し顔を上げれば、辺りは相変わらずの緑。足元が不安定な山道では、中々こうすることは少ない。

 今は傾斜を下っているため、木々の間からは荘厳な光景が覗き見える。

 景色を目にしたとき、最初はその雄大さに目を輝かせたが、すぐ違和感に気づいた。

 普段なら緑と茶を基調として、アクセントに青い川が加えられて景観を形作っている。

 しかし、目の前に広がる緑には一筋の曇りがかかっている。

 

 それが何かを認識した時、全身が凍り付いた。


 黒いそれは、重々しく天に向かって立ち昇っていた。位置はちょうど家のあたりの真上。

 木々の隙間から見えるのは、黒煙である。


 心臓が一度大きく跳ね、そこからは小刻みに震え続けている。

 俺は、胃液をかき混ぜられるようなざわつきを胸に抱え、木々に体を掠らせながら、一心不乱に山道を駆け下りた。


 この傾斜を下りきれば‥‥‥


 鼓動は既に限界まで速度を高めている。

 そしてついに、家を正面に捉えた。


「カリナさん! カリナさん!」


 予想通り、家は業火に包まれていた。俺は返事が来ることを願い、走りながらひたすら彼女の名前を叫ぶ。燃え滾る炎に負けないよう、全力で声を張った。


 そうして走っているうちに、玄関前の一つの人影に気づく。

 吸い寄せられるようにそこへ駆けていったが、俺はわかっていた。


「‥‥‥」


 そいつの姿が確認できるところまで近づいて、やはり先ほどの人影が彼女のものではなかったと知る。 

 それどころか、そこにいた男への疑念は確信へと変わった。

 燃え盛る家の前で佇む男。家を焼く炎が、輪郭をなぞるように顎まで伸びた紺色の髪を煌々と照らしている。

 夢で見た、あの男だ。

 そして男の手には、引きずるように服の襟をつかまれたカリナさん。

 爆ぜそうな感情を抑え、俺は問いかける。


「お前が、やったのか」

「やっときたか、随分待ったぞ」


 俺は、手に魔力を集中させた。


「なんだ、さんざん待たせてその態度か? この女が何も吐かないから、狼煙まで上げたというのに」


 男は声色を変えることなく、言葉を並べる。

 波のように何度も押し寄せる激情を押し殺し、男の言葉に耳を貸すことなく、やるべきことをやった。


「ほお‥‥‥!」


 空の一部が赤い炎に包まれ、男は声を漏らした。

 俺は全力で空に向けて炎を放ったのだ。微調整などは一切せず、ただ体内の魔力を吐き出した。

 彼を呼ぶために。

 煙を上げただけでは気付きにくくとも、これなら伝わると信じて。


「フ、フハハハハハハ!!!」


 先ほどまでは静かに、低い声を発していた男は、空を仰ぎ、高笑いした。


「そうか、貴様は炎を扱うのか。フフ、やはりそうだったか」


 男はこちらに視線を戻す。直後、カリナさんを足元に落とし、土煙を起こすと同時に消えた。


「念のためだ、奴がいるか確認しようか」


 背後から男の声がした。

 俺は咄嗟に振り返りながら腕をふるったが、男は簡単にその手首を掴んだ。

 そのまま俺は押し倒され、男はもう片方の手で俺の胸を圧迫する。

 男の力はすさまじく、掴まれた手首の骨はミシミシと悲鳴を上げ、押しつぶされる胸の苦しみから、体に力が入らない。


 それでも、なんとか俺は掴まれていない方の手を男に向ける。

 そして先ほどと同様、全力で男の顔に炎を放った。

 燃え上がる火柱は、男の顔のみならず雲をも飲み込み、空を焼く。


 しかし、胸を押さえつける力は一切弱まることがなかった。

 放たれた炎も急速に勢いを失くしていき、中からはまったく無傷の男の顔が現れる。


『シンの中に眠る力、絶対に使っちゃだめだよ』


 苦しみの中、アクアの言葉が脳裏をよぎる。

 しかし、約束を破る気にはならなかった。

 ここから先、この程度の苦しみで躓くことは許されないと思ったのだ。


「やはりいたか! ダンダルトォ!」


 男の声には熱が帯びていた。探していたもの、俺の中にある力の存在に確証を持ったのだろう。

 胸の苦しみがさらに増していく。

 体内の全てを吐き出しそうなほどの圧迫感。

 俺は意識を保つのに必死であった。


 直後、風を切る音と共に、一気に苦しみが緩和された。

 一瞬遅れて男が岩に衝突する音が響く。それを皮切りに、次々と土砂が崩れていった。

 また、俺の顔や腕は、若干の湿り気を帯びている。

 誰が助けてくれたのかは考えるまでもない。

 

「大丈夫!?」


 男を蹴り飛ばした後もアクアは体を男の方に向け続け、視線だけを背後の俺に送る。

 俺は圧迫の余韻で咽ながら、首を縦に振った。


「シンの狼煙。あれがなかったら手遅れだったかもしれない。ありがとう、助かった」


 助かったのはこちらの方、と言いたいところだったが、依然として苦しみは残り、呼吸をするのがやっとであった。


 その時、崩れた岩が内側から破裂したように飛び散った。

 破裂の中心から男が姿を現し、アクアはすぐにそちらへ視線を向ける。


「中々効いたぞ、わざわざ呼んだ甲斐があったな」


 男は俺を一瞥した後、アクアに視線を突き刺した。

 そして男は、掌を前に突き出す。

 直後、全身を強張らせるような、禍々しい気配が男から解き放たれた。


蒼葬そうそう


 奴の掌からは蒼い炎が放たれた。

 それはアクアだけでなく、背後にいる俺も、カリナさんも、家をもまとめて飲み込まんとする蒼き濁流。


「マリンフォート」


 対して、アクアは両手を開いて突き出し、要塞のような水の壁を顕現させた。

 

「大丈夫、僕が守るから」


 彼は迫りくる蒼炎に真っすぐ目を向けている。

 そして、透明度の高い青い水が、黒とも見える蒼い炎とぶつかり合った。

 瞬間、衝撃で大地に亀裂が走り、周囲の木々は飛ばされまいと地に張った根に力を込める。

 アクアは、押し負けまいと腕を震わせているが、男も同様なのか、技は拮抗しているように見えた。

 

 俺は、ただ髪をなびかせるばかりで、彼の背後で戦いを眺めていることしかできなかった。


 やがて、アクアが一段と強く力むと、水の壁が砕けると同時に、押し寄せる炎も止んだ。両者の技は完全に相殺したのだ。

 しかしすぐ、アクアは消えるような速さで男の方へ駆け出す。男もそれに気づき、互いに拳を振りかぶった。

 そして、二人の拳が真正面から激突した。

 直後、骨を震わす衝撃が拡散する。

 体に水を纏っているのか、時折こちらにも水しぶきが飛んできた。


 そこからは接近戦が始まった。正確な動きは追えないが、攻めては防ぎ、避けては避けられというのを繰り返しているように見える。

 しかし、一連の攻防はどれも瞬間的に始まっては終わる。

 彼らの戦いに俺の付け入る隙はない。

 それを悟ると俺は振り返り、地面に横たわるカリナさんの元へ駆けつけた。


「カリナさん、大丈夫!?」


 俺は目を閉じた彼女の頭を支え、できる限り冷静に尋ねた。

 見ると、彼女は糸の切れた操り人形のように脱力しており、瞼は細かく震えながらも、重々しく閉じられていた。虚弱なその体は、運び出そうと持ち上げれば、ぼろぼろとパーツが欠けてしまいそうである。

 体のぬくもりは彼女の命の灯か、それともただ炎に炙られた余韻なのか。所々焼け焦げる肌が、答えを表すように現実を突きつける。


「カリナさん! カリナさんっ‥‥‥」


 何度も、何度も彼女に呼びかける。

 しかし、立ち込める煙と疼く胸は、俺の呼び声を徐々に嗚咽へと変換していく。


 やがて声を発することをやめ、永遠とも感じる時間、俺は炎の燃え上がる音を聞いた。

 祈るような沈黙の中、じっと彼女を見つめる。

 思わず、彼女と作り上げた記憶が想起された。しかし、すぐにそんな邪念は振り払い、目の前の彼女に集中する。


 そして、彼女の瞼は一際強い震えの後、遂に開かれた。


「カリナさん!」


 俺の呼びかけに、彼女は口元を緩める。

 だが、その目はどこか遠くを見つめているようであった。


「シン、よかった、生きてる‥‥‥」


 彼女の弱々しい声は俺の希望を薄めていく。

 口から言葉が漏れ出そうになるたび、ぐっと堪えた。


「シン、あなたは生きなさい。生きて、その先で自分のことを知るの‥‥‥」


 彼女は肩を大きく揺らす。呼吸を整え、話だそうとして、また肩を揺らす。

 吐き出される息には、彼女の生気が含まれているようだった。


「‥‥‥あなたがずっと悩んでたのはわかってたのに。ごめんね、何もしてあげられなくて」


 彼女の言葉は尻すぼみに小さくなる。


「最後に、一つ。私を、親のように思ってくれて嬉しかった。ありがとう‥‥‥」


 再び、彼女の瞼は重く下ろされた。

 俺の願いも虚しく、彼女が瞳を覗かせていた時間はわずか数十秒程。

 ぼやける視界の中、俺はそっと彼女を地面に横たえた。


「ありがとう、カリナさん」


 俺は穏やかな笑みを浮かべて眠る彼女を、しばらく見守った。

 初めて、親しい人が死んだ。本当に人は死ぬのだなと思った。

 今朝まで変わりなく言葉を交わしていたのに。帰りを待ってくれているのが当たり前だと考えていたのに。

 現実の冷たさ、日常の脆さを痛感する。

 体の底から熱がこみ上げ、頭の中が彼女の声で埋め尽くされていく。

 初めて俺に話しかけてくれた時の声。村に連れて行ってもらった時の声。冗談を言ったら明るく笑ってくれた時の声。

 今朝の、俺を心配する声。

 鮮明に響く彼女の声は、俺の視界を益々ぼかす。

 

 しかし、戦いの衝撃に背を叩かれ、俺は顔を上げた。

 アクアは今も戦っているのだ。

 それを自覚した時、自然と男の顔も思い浮かんだ。

 瞬間、今一度体の奥底から熱が湧いて出る。

 それは、先ほどのような暖かな温もりを帯びたものではない。ボコボコと煮えたぎり、頭を焼くような熱さを宿している。

 どうしてカリナさんは死ななければならなかったのか。なぜあの男は彼女を殺したのか。

 疑念、憎悪、後悔、無力感。それらが濁流となって脳内を流れる。

 

 だが、今は感情に身を委ねる時ではない。理性を失いかけながらも、俺は何とか結論に至った。 

 男は、俺を探していた。俺を呼ぶために、カリナさんは傷つけられた。

 ある意味で、この状況を招いた一端は俺自身でもある。俺の中の力。これが、一連の原因。


 だとすれば俺が今すべきこと、それは決意である。

 平穏は終わりを告げた。否が応でも、道は一つ。

 訳も分からず森の中で目覚めたあの時からずっと気になっていたこと。そして、カリナさんが死ぬことになった原因でもあるもの。

 俺が求めるものは。

 

 ――――――自分が何者か


 こうなったらとことん知り尽くしてやる。俺のこと、この力のこと。もちろん、あの男のことも。

 どれほど険しい道であっても、結末に辿りついてみせる。

 それが俺の道であり、彼女の最後の願いでもあるのだから。


「シン!」


「起きろ! ダンダルト!」


 後方から、荒々しい二つの声。それらは俺の思考を遮り、強制的に意識を現実へと引き戻す。

 男の声はすぐ後ろから聞こえた。アクアの隙をついたのか、俺の真後ろまで接近しているようだ。

 これまでの様子から、男が俺を殺す気なのは確か。この距離ではアクアの手助けも見込めない。

 なら、選択肢はひとつ。


『シンの中に眠る力、絶対に使っちゃだめだよ』


 再びアクアの声が頭に響く。

 だが、俺の心が揺らぐことはなかった。

 もう道は決めたのだ。こんなところで死ぬわけにはいかない。


 俺は自ら、ぷつりと体の中の糸のようなものを切った。そうすると、体の奥底から力が湧き出だし、大量の情報が頭の中で渦巻く。一つ一つが何なのかはわからない、俺はそんな情報の渦に飲み込まれていく。

 渦の中にいると、失いかけそうな意識とは裏腹に、本能の如く体は突き動かされる。外敵の駆除、この一点を目指して。


 俺は振り返るとともに左腕を振るった。下から斜め上方に、掬い上げるように。

 直前、男は目を見開いた。しかし、奴にできたのはただそれだけ。

 今度は俺の手首は掴まれることなく、風を切る音とともに、男を中心とするアーチ状の炎が放たれた。

 その後は力の奔流のなすがまま、男は押し流された。勢いは衰えることを知らず、男を包んだ炎は次々と山々を貫いていく。

 

 やがて、業火は視界の果てまで飛び去った。


 場に残されたのは、メラメラと燃ゆる炎の響きと、大きく円形にくり抜かれ、縁の部分が赫く燃え上がった山々。

 山脈を貫く空洞は、まるで天まで続いているようである。

 

 その光景を目にし、ここから先の、長い長い道のりに思いを馳せる。

 そして、俺の意識は途絶えた。



 調査を始めて二か月が経った。ある人物の中に厄災王ダンダルトの力が隠されているかもしれないのだ。

 彼は千年ほど昔、その無類の力を振るって国を乗っ取り、世界中を脅かした。

 今もなお世界にはかつての傷跡が残り、もし復活などすれば再び最悪の事態を招いてしまうだろう。  

 それだけは防がなければならない。


 そして今、僕の目の前でその力が解放された。


 あの男は強かった。僕が先手をとって戦い始めたのに、結局隙をつかれてシンへの接近を許してしまう程に。

 そんなあいつを、シンはたった一撃で、遥か彼方へ吹き飛ばした。死んでいる可能性も十分にある。

 それに、今のは明らかにあの男に殺意を持っていた。暴走して理性を失うでも、人格を乗っ取られるでもない。

 少なくとも一瞬だけなら、彼は力を制御できている。

 事態は思ったよりも悪くないのかもしれない‥‥‥!


「シン!」


 僕は彼の方へ駆け出した。一縷の希望を胸に秘めながら。


「まったく、愚かだな。二度も俺を利用した報いと思え」


 一瞬にして、その希望は消え去った。

 心臓の鼓動だけを残し、体は石のように固まる。

 その声は、姿は、間違いなくシンのものだ。


 しかし、その所作は全くの別人。


 大地も、空までもがひれ伏すような威圧感をそいつは放っている。その圧は骨の髄まで染み渡り、抗いようのない恐怖を叩きつけてくる。

 今この瞬間、生きるも死ぬも奴の気まぐれで決まると本能が訴えてくる。

 起きてしまったのだ、最も恐れていたことが。


「まあよい。この機、逃す手はあるまい」


 そう言うと、奴はこちらへ体を向けた。

 黒い前髪の隙間からは奴の瞳が姿を覗かせる。それは、黄色いシンの瞳を上から真っ赤に塗りつぶしたような、緋色の輝きを放っていた。


「見たところ、事態は理解できているようだな。少し付き合ってもらうぞ。体が疼いてたまらんのだ」


 僕は全身の震えを抑えるようにゆっくりと深呼吸をする。そうすると、恐怖に飲み込まれそうな心とは裏腹に、体の震えは徐々に抑えられていった。

 まずは足、その後に腕、頭と、順番に体の動作を確認していく。

 辛うじて、体は動く。


「さほど案ずることはない。まずは軽い手慣らしから始めるとしよう」


 奴の嘲るような冷たい笑みに、再び体が凍りつきそうになった

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