第3話「名前の入口」

 午後、駅から川沿いに歩いて十分。

 私たちは、市立図書館の二階にいた。古い木の机、背の低い書架、窓から斜めに入る光。ここは“注釈のある本”の宝庫だとRが言った。

「誰かが昔ここで止まった印が、ページの端に落ちてる」

「付箋?」

「鉛筆の点、折り目、借りた日付のスタンプ。全部“跡”」

 Rはそう言って、国語辞典の巻末の余白を撫でる。余白には、知らない誰かの小さな三角形が二つ、並んでいた。しおりの折り方の癖だろう。

「“名前の入口”の練習、ここでできる」

「練習?」

「名前って、入口を作っておかないと、いざ呼ぶときに迷子になる」

「迷子の防止策が、辞書の余白」

「余白は逃げ場」

 言い合いながら、私たちは二人で一冊のノートPCを開いた。Rが用意した、パスワード付きのメモ。タイトルはn7____。

「ここに、君の名前の“最初の一画”だけを置いておく。送信はしない、保存もしない。ただ入口を作る」

「なんで送信しないの?」

「送信って、かたちにするってことだから。かたちは重い。いまは、軽さだけ」

 私は頷いて、タッチパッドの上で指を立てる。

「じゃあ、まず“今日の終わり方”を先に決める」

「第六条、実行」

 スマホのメモに打つ。23:30 今日はここまで/23:58 写真を“見ても見なくてもいい”。

「“見なくてもいい”の許可、案外大事」

「自分に嘘をつかないための逃げ道」


 閲覧席の向かい側では、受験生らしき男の子が単語帳をめくっていて、めくるたびに小さく深呼吸する。ガラス越しに見える川面には、雲の輪郭が削れて浮かんでいる。

「第五条の話、もう一度確認しておきたい」

「泣きそうなとき、名前で呼ぶ、のやつ?」

「乱用しないって約束」

「してる」

「さらに、“名前で呼ぶときは、呼ぶ前に理由を一言”」

「例を」

「“いま、怖いから”とか、“いま、嬉しすぎるから”とか」

 Rは少し考えてから頷いた。

「**第七条(案)**にする?」

「条文ばかり増えるの、嫌いじゃない」

 私が笑うと、Rは視線で「準備できた?」と訊いた。

 私はノートの白い入力欄にカーソルを置き、ゆっくりと、ひらがなの“な”の最初の点だけを打つ。

 ——・

 黒い点は、宇宙の始まりみたいに小さくて、宇宙の始まりみたいに充分だった。送信はしない。画面の隅で点滅する“下書き”の表示が、むしろ守衛のように頼もしい。


 夕方、図書館のカフェで紙コップのココアを二つ。

 紙コップの横に、図書館のスタンプの日付が押されている。“9/27”。

「このスタンプも、誰かの手の癖があるね」

「ある。押すひとによって傾きが違う」

 Rは少しだけココアをこぼし、ナプキンで拭く。拭き方にも癖が出る。

「今日、運営の人、来ないね」

「来たら来たで、感謝状でも渡したかった」

「“承認は本人端末だけ”のルールにしてくれたから?」

「うん。世界が一ミリよくなると、今日が少し優しくなる」

 私が言うと、Rはカップのフタを指で回した。「“今日を優しくする手順”、集めてみる?」

「リストにする?」

「“23:30に終わり方を書く”“写真は一枚”“名前の入口に点だけ置く”“相合い傘は条文で許可”」

「“注釈のある本を一冊めくる”」

 五本目までいったところで、私たちは顔を見合わせ、笑った。チェックリストを作る恋は、たぶん、面倒くさい人向けの優しさだ。


 図書館を出ると、川の風が強くなっていて、橋の欄干に貼られた告知がはためいていた。週末に河川敷の小さな映画祭があるらしい。

「屋外?」

「虫の鳴き声入りBGM」

「泣かない練習になりそう」

「ラストが“手を振るだけ”のやつ、来るかな」

「来たら、私たちも振る?」

「遠くから」

 遠くから——という言葉を言った瞬間、胸のどこかがひやりとした。距離は、易しくて、残酷だ。

 Rが横目で私を見る。

「泣きそう?」

「まだ」

「じゃあ、呼ばない」

「理由を言ってから呼ぶんでしょ」

「そうだ。ルールを守る」


 駅に向かう途中の横断歩道で、信号が点滅を始める。私たちは小走りになった。

 途中で、私の靴ひもが緩んだ。

「待って」

 しゃがみこんで結び直す。Rは車道側に立って、何も言わない。信号が赤になり、私が立ち上がった瞬間、胸に波が寄ってきた。

 ——呼ばれたい。

 その感情が喉まで迫ったとき、Rが小さく息を吸った。

「いま、怖いから」

 前置き。

 それから、一拍置いて、

「な——」

 私は、手を伸ばして、彼の袖を引いた。

「まだ、点だけ」

 Rは口を閉じ、頷く。

 胸の波が、ぎりぎりで引く。

 点だけ。今日はそれでいい。入口があるだけで、世界は少し整う。


 夜。

 23:24。

 私は机にノートを開き、“今日の終わり方”の項目に追加を書く。

 ・いま呼ばれかけて止めた。ありがとうを明日言う。

 ・“点”は点のまま。

 23:30。

 チャットが同時に光る。

〈今日はここまで〉

〈今日はここまで〉

 画面を閉じてベッドに入る。天井の暗闇に、点が浮かぶ。昼間に置いた、小さな一画。

 眠りに落ちる直前、思う。

 名前は、呼ぶための共同作業だ。

 私が入口を作り、彼が灯りを点ける。

 灯りが点いたら、はじめて声が届く。

 焦らなくていい。点が線になり、線が字になる日まで、今日を丁寧に運ぶ。


――――

次の24hの条件(宣言):


手は繋ぐ、キスはしない。


“今日の自分”に嘘をつかない。


写真は一枚。23:58にもう一度見る(見なくてもいい)。


承認ボタンは私の端末だけ。


君が泣きそうなとき、僕は理由を一言添えて“名前で呼ぶ”。


23:30までに“今日の終わり方”を決めて共有。

第七条(案):“名前の入口”に置くのは一日一画まで。送信しない。

**★読了ありがとう。**評価・ブクマが次話の燃料です。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る