おっさん神官と異世界 二人旅1―ツィーブル編
零369弎
0:やっと終わったのに、また始まる
ふわふわしてる。温かくて、優しくて、境目がどこにもない夢の中。
すごく気持ちがいい。
重力も、責任も、しがらみも、全部、どこかに落としてきたみたい。
ああ、何も考えずに…。このままでいたいな。
この柔らかく包まれた感覚に、ただ、いつまでもこのまま浸っていたい。
……って…。これ、本当に夢?
なんか…。ちょっと違うと思う。
たしか昨夜は、自分のベッドで寝たはずだ。
安いけど、ふわふわ感だけは追い求めたマットレス。枕元には、いつでも時間を見れるようにスマホを置いて寝たはず。
いつものマットレスとは…まるで感覚が違う。
まず、朝独特の「起きちゃったな……」という絶望が、ない。
スマホで設定したアラームより先に目が覚めて、「ああ……今日もまた始まってしまったか」っていう、あの現実感。
それがない。
今……時間、何時だろう。
……時計、見たい。スマホどこ?
目を開ける感覚すらない。
いや、開けようとはしてるんだけど……開かない? まぶた、どこ?というか…顔はどこ?
どういうこと?
手も足も……感覚があるような、ないような…。
寝てる時にうっかり腕枕して、腕がしびれちゃう感覚とも違う…。
もっと、こう……輪郭が曖昧っていうか、存在そのものが、じんわり溶けてるみたいな。……自分の外側と内側の境界線がぼやけてる。
何これ?
自分と外界の境がふわっとしてる。
そうだな…。
温水プールに長時間浸かったあとって、こういう感じだったな……。
ぬるいお湯と肌の温度が一体になって、どこまでが自分かわからなくなるあの感覚。
でも、ここプールじゃないよね?
周囲は静かで……でも、よく耳を澄ますと……。
どくん…。どくん…。
心臓の音?鼓動かな?でも、これ、私の音じゃない気がする。もっと外から、というか、覆い被さるように響いてくる感じ。
不思議なことに、それがすごく、安心する。
なんだろう……心が緩む。
誰かの中にすっぽりと守られているような、そんな感じ。
そういえば、前世では安心なんて感覚、あんまりなかったかもな。
仕事、仕事、仕事。
数字に追われて、広告の出稿管理して、クライアント対応して、分析して、ページや広告バナー制作して……気づいたら一日が終わってた。
売上がどうとか、客単価がどうとか、そんなのばっかり頭にこびりついて、心が休まる暇なんてなかった。
寝ても覚めても、「今日もやること終わらない」っていう、責任と焦燥のループ。
体力は削れていくのに、人生の意味も希望も、どんどん摩耗していって。
旦那?居たよ。
お互いの自由のためにって、同居さえしてなかったけど。
ほぼ…いなかったようなもん。
なんか…この結婚…意味ある?と思って、離婚を言い出した時、なぜか離婚には応じてもらえなかった。
まぁ、旦那の母親の介護の管理とかは私がしてたし?資産運用も全部、私任せ。
私がいないとダメなくせに…。私の心には寄り添ってこないやつ。
でも…。もう、あきらめてた。
干渉もされないけど…支え合いもなかった。
むしろ私は、自然に触れてるときの方が落ち着いた。
自分で育てた野菜を収穫して、夕飯に使ったり。
狩猟の免許取って、畑を食い荒らすイノシシとかアナグマを捕まえてジビエにしたり。
時々一人で温泉旅館に泊まりに行って、畳の上でゴロゴロして……。
そういう「孤独だけど、自由な時間」が何よりの贅沢だった。
……それが、いつの間にか、終わってたんだなぁ。
特別な病気にかかったわけでも、事故があったわけでもなく。
ある日、気づいたら、ふわふわと、どこか別の場所にいた。
ただ…なんとなく、”終わった”ということだけが分かる。
ああ……でも…いいじゃん。
いい加減、休みたかった。
もう…働かなくていい。
もう…何にも考えなくていい。時間に追われなくていい。
もう…売上も、納期も、人間関係も、クソ親父との過去も、なーんにも背負わなくていい。
脳みそが「もう働かなくていいんだよ」って言ってくれてる感じ。
永遠の長期休暇。最高じゃん。
もう、このまま、このぬくもりの中で、ただ漂っていたい。
なんて、心安らぐ幸せな時間なんだろう…。最高のご褒美だ。
ときどき、遠くのほうで声が聞こえる。
「~~~。~~~~」
男性と女性?何か話してるっぽい。声がふたつ、重なるように響いてくる。
でも、何を言ってるのかはわからない。まるで水中で誰かが話しているみたいな、ぼやけた音。ぼんやりしてて、曖昧。
まぁ、いいか。気にする必要もないでしょ。
私、今、お休み中なんで。話しかけないでいただけますか?
マーケティングコンサルは現在、受け付けておりません。
広告運用代行も、申し訳ないけど別の人を当たってください。
広告制作?記事制作の依頼?パソコンの電源さえ上げてないので、無理です。
そこのところ、ご了承願います。
もう、ぜんぶ、ぜーんぶお休み。勝手にしゃべっててください。
……とはいえ、無視し続けるのも、大人としてどうかと思うな…。
せめて…。”今、無理”って返事ぐらいはしてもいいよな…。
声?……出ない。
手?……動かない。
足?……ちょっと、動くなぁ。
……じゃあ、壁でも、蹴っとくか。
バン。
ちょっと、乱暴だけど、物理反応って便利よね。
荒いお返事でごめんね。
なんか……。
驚いたような声が聞こえて、そのあと、なんだか嬉しそうな雰囲気になった。
もしかして、喜んでる?
これでよかったのか…。なら、もう一回だけ。
バン。
あ、また喜んでる。
まぁ、いっか。
けど、なるべくそっとしておいてくれると助かるな。
なんせ、久々の長期休暇だ。
久々のまともに休んだから。ほんと、何年ぶり?
病気以外なら……。子どもの頃以来かもしれない。
たまに声がする以外は、ずっとふわふわで、あったかくて、心地いい。
その辺に飛んでる虫と自分の命の重さの違いもわからなくて…。
そもそも…生きる意味がわからなくて…。
何となく、死んじゃだめだから。って理由で、ただ、無駄に生きてた…。
そんな虚無を抱えた人生だったけど。やっと終われたんだ。
今は、意味なんてなくていい。
ただ、安心して、浮かんでる。
なにもせず、なにも考えず、なにも期待せず…。
……これ……ほんとに夢じゃないよね?
結局、起きたら、いつものベッドの上でした。ってことは無いよね?
でも…。夢でもいいか。
このまま、しばらくここにいさせて。
できれば、永遠に。
◇
そんな、ぬくもりに満ちた幸せな時間が…。どれくらい続いていたのか、正直わからない。
夢のようだった。
季節の移ろいも、太陽の昇り降りもないこの空間で、時間という概念はどこかに置き忘れていた。
ずっと眠っていたような、でも、確かに意識はここにあったような。
何も考えなくていい。何も決めなくていい。誰にも答えなくていい。
それだけで、こんなにも心は落ち着くものなのかと……。
ふわふわ、ぽかぽかと…安心のなかに身をゆだねながら、私は静かに驚いていた。
永遠に続くと思っていた。
続いてほしかった。
……けれど、その穏やかな時間にも、どうやら終わりが来るらしい。
現実というものは、そういう願いをあっさりと裏切る。
そして”ソレ”は…。あるとき、突然、始まった。
◇
最初は、ほんの小さな違和感だった。
なんだろう?胸の奥が、ざわつく。
いや、胸があるかどうかも今はあやしいんだけど、でも確かに、何かが「おかしい」と叫んでいる。
……あれ?これは…。なんか、ちょっとだけ、息苦しい?のかな?
どこかで覚えのある感覚だった。
そう……酸欠の気配。空気が足りないときの、肺の奥がじんじんと疼くような…。あんな不快な感覚に、似ていた。
……ってか…そもそも私……息なんかしてたっけ?
息苦しい。じわじわと、確実に、酸素が薄くなっていくような錯覚が広がっていく。
……え……私って…そもそも…生きてんの?死んでんの?
すうっと胸の奥が締め付けられるような感覚が走って、”このままじゃダメだ”って、警鐘のように鳴り響いてる。
何かが迫ってくる。わからない何かが、私を……引きずり出そうとしてる。
次にやってきたのは、圧迫感。
水の中で誰かに後頭部をぎゅっと押されたみたいな、重たい圧力。すごく、苦しくて、いやな感覚だ。
やだやだやだ、苦しい。なんで、押すの?やめてよ。
逃げ場がない。
背中も、肩も、頭も、どこもかしこも、ぬるま湯のような安心で満たされていたはずなのに。
その全方位から、今、ぐいぐいと押されている。
やだやだやだ、やだ。
せっかく休んでたのに。
やっと解放されたと思ったのに。
なんで、また……。なんで今さら。
必死にもがく。
呼吸できない。
逃げられない。
方向がわからない。
腕を伸ばしても、何かに届かない。
自分でも何をしているのか、はっきりとはわからない。
でも、身体は確かに、必死にあらがっていた。
手?足?腕?関節の感覚すらおぼつかないけど、
とにかく”ここから出なきゃ”という焦燥と圧迫だけが、全身を突き動かす。
苦しい。息ができない。肺がぎゅうっと潰されそう。
何も見えない。どこへ行けばいいかもわからない。
でも、とにかく、ここを抜けなきゃいけない。それだけは、なぜか強くわかる。
……なんで?
私は、もう、終わったはずでしょ?
ずっと、待ってたんだよ?この先のことなんてどうでもよかった。
早く、終わらせたかった。何も残さずに。
虫が潰れても、鳥が死んでも”ああ、生き物って案外、簡単に壊れるんだな”って思うだけだった。
それが自分でも、あんまり変わらなかった。
なぜ私は、いまだに存在してるんだろうって、いつも思ってた。
それなのに……なんで?
静かに眠らせてくれないの?
ヤバいヤバいヤバいヤバい。
どこでもいいから出たい、抜け出したい。
頭の中で言葉が暴れている。出口もわからず、苦しさだけが増していく。
私はとにかく、動かせるものを全部動かした。
縮こまった手足、曲げていた腰、全部ばらばらに開いて、のたうつように。
でも、空間が狭い。動きづらい。
水の中に沈んだ段ボール箱の中で暴れてるような気分。
壁のような何かに当たる。蹴っても、押しても、柔らかいのに抜けない。
そして、次の瞬間……何かの「波」が来た。
押される。圧倒的な力。
自分の意志では抗えないような巨大なうねりが、ぐるんと私を飲み込む。
それはたぶん、母体の収縮とか、そんなものなのかもしれないけれど…。
そんな言葉を知っている自分と、それに抗えず流される自分のギャップが、何だかひどく滑稽だった。
ああ、これは……産まれるんだ。
また、始まってしまうんだ。
逃げたかったのに。
終わりたかったのに。
やっと楽になれたのに。
……本当に、皮肉だなぁ。
もう、どうしようもない。
次の波が来た。押し出される感覚が加速する。
頭のどこかが圧迫される。
どうしようもない…一方通行らしい…。
”行け”って言われてることはわかってる。
でも、すっごい嫌な感じ。出たくない、絶対出たくない。
抵抗しようにも……狭い。圧迫感が増す。
肩が、腰が、ぎゅっと締め付けられる。
痛い。痛い。苦しい。
もう……止まれない。
もう……出るしかないんだ…。
そして……。
その瞬間。
目の前が、突然、明るくなった。
私の長期休暇は、どうやらここで終わったみたい。
終わりを願い続けたのに…。
なぜか、もう一度、生きる側に引き戻されてしまった。
新しい人生なんて、正直どうでもいい。
始めたくないのに、なぜ…何かを始めなくてはいけないのだろう…。
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