紙一重

晴れ時々雨

第1話

 ヒロヤに出会ったのは行きつけの居酒屋だった。仕事帰りに週に1、2度寄る、五十前後の店主が一人で切り盛りするカウンターと数席の狭い小上がりのある、こじんまりとしたお店だ。通いだして半年ほどですっかり顔なじみになり、日々の愚痴なんかをこぼせるようになったある夜、店主から紹介された客がヒロヤだった。

 彼は紹介を受け、視線だけで会釈した。一目見て、何か抱えている人だと思った。口角は上がっていたが目つきが暗く、深入りされるのを拒んでいるように見えた。一席空けて隣に座る彼の横顔を盗み見た。癖のある前髪で目が隠れ、顎のラインがシャープだった。アルコールを傾けるその唇に見入った。歳は私より少し若いのかもしれない。スッキリとした輪郭にほんのりと丸みを帯びた頬。肌の張り。そのコンパクトな頭部を支えるしなやかな首。黒いTシャツに隠れた立体的な肩。露出した腕は引き締まり、筋張っている。ジョッキを流し込むたび上下する喉仏をみつめた。この男は綺麗だけれど人好きはしないような気がした。

 いつも私が一人で来店するので店主は気を使ったつもりなのだろう。未婚の男女の出逢いの助けになろうと、私たちを鉢合わせたのだ。けれど私は出逢いなどに興味がなかった。人と親しくなるのをしんどく思う時期だったし、他人の事情を知ることに疲れていた。だからヒロヤを見る目はパートナーに見合うかどうかより、単純に男の造形を眺めていたい程度の気持ちしかなかった。その日の私は完全に、久しぶりの男を酔いの勢いで無遠慮に鑑賞する失礼な女だった。でも、そうできたのもまたヒロヤにその気がないのを感じたからだ。

 店主が気づかって話の水を向けても、彼が個人情報の類いを漏洩することはなかった。名前も下の名前しか言わなかったし、私の名前も覚えたかどうか怪しい。

 その日を境に、居酒屋周辺でヒロヤを見かけることが増えた。今まで意識していなかっただけで、彼とは生活圏が似ていたのだろう。

 ある夜、居酒屋で一杯呑んで店を後にすると、先に出ていたヒロヤが降り始めた雨の軒下で傘をさして、煙草を吸いながら佇んでいた。

 目で会釈してすぐに去ろうとした。けれど私は傘がなく、歩き出すのを躊躇った。濡れるのを覚悟して歩き出そうとすると、ついと彼が私の方へ開いた傘を突き出した。この日の降水確率は低かったから傘の用意をせずに家を出たのに、しっかり雨傘を準備していた彼のことを意外だと感じていた。先のことなんか考えない刹那的な生き方をしていると勝手な印象を抱いていたからだ。

 あまりの不意のことに私は彼の方を振り返ってぼうっとした。その間少し雨に当たり、髪や肩が湿った。

「どっち?」

 ヒロヤは煙草を落として私がこれから向かう方向を尋ねた。私は右を指し、

「だけど大丈夫、近いから」

 とこたえた。

 雨に濡れるには長い距離だが、走って帰るつもりだった。雨足もそれほどじゃない。

「使って」

 彼は小さな声で言うと、私の手元に傘を押しつけた。 想像を裏切る強引さに彼の若さを感じ、多少苦笑して、

「じゃあ、うち来る?」

 と口にしてみた。これは、絶対に彼が応えないだろうというある種の確信をもって言った言葉だった。こっちから誘えば彼は拒むだろうと。

 けれどまた予想に反してヒロヤは隣に並び、傘の中に私を入れてうちの方角へ歩き出した。

 ああ、とんでもないことを口走ってしまったな、と軽く後悔した。

 まったく男に飢えていない。そのときは他人を自宅に招いてまで関係を築きたいとはまるっきり思っていなかったのだ。

 歩き出すと雨足が強まった。まるでこの行動の根拠を説明するかのように。しばらく直進すると、激しい後悔が訪れた。ヒロヤは私の家の場所を知らないから、私が先に立って導かないとたどり着けない。行為の主導権がこちらに渡され、もう言い訳ができなくなってしまった。

 こんなことになるとは思っていなかったので、言い訳ついでに言わせてもらうと、こんなことをするのは初めてだった。殆ど知らない男を自宅に連れて帰るなんてこと。振り返ってみるとここまですごく自然な流れでやってしまって、手馴れた女だというふうに思われることに気が重くなった。

 ここまで来てまさか家の前でありがとうと別れることってできるのだろうか。でも不思議だった。そんなことがあってもよくないか?別に何もその他について明言していない。ワンチャンあるのでは?この場合使い方が逆かもしれないが、傘に入れてもらって、さよなら、もあっていいのではないか?と、気持ちの重さを振り払うようにことさら正当性を訴える考えが芽生えていた。

 しかし論点はそこではない。ほぼ単語のような彼の言葉に対して、深読みを許す返答をしたこと、期待させる返事をしてしまったことが問題なのだった。

 だって断ると思ったんだもん。それに、雨降りの軒先で控えめに佇む男は、私の警戒心を緩ませた。1ミリくらい、おちょくってやろうと思わなくもなかったことを認めよう。

 隣を歩くヒロヤの肩は傘からはみ出て、きっと濡れていた。私はもっと濡れていた。だからもう一刻も早く家に着いて服を脱ぎたかった。それだけ考えた。


 結果から言うと、まんまとそういう流れになった。私はこだわりのないワンルーム暮らしだったので、濡れた服を着替えるための区切られたスペースもなく、自室であるにも関わらず所在をなくした。同じく、招かれたまま呆然と立ち尽くしていたヒロヤにとりあえずタオルだけ渡して、私は同じ空間で思い切って服を脱いだ。晩夏であろうと、夜の雨は体温を奪うに充分で、体は冷えていた。彼も同じだったのだろう。私が着替え終わって振り向くと、タオルで裸の上半身を拭くヒロヤと目が合った。彼の右側の髪から雫が垂れていた。一滴ずつ落ちる雫がカウントのようだった。そしてテンカウントを数える前に、ヒロヤが私に手を伸ばした。


 ヒロヤは私が初めて殴った男だった。彼は本当に強引な男だったのだ。押さえつけるのが好みなのかもしれない。押さえ付けられた怒りで思い切り振り回した手が彼の体にヒットした。3回くらい連続で当たると、ヒロヤの胸に爪で引っ掻いた傷ができた。なのに彼はビクともしないで私を押さえ続けた。足は何度も空を蹴り、彼から逃れた片手でもう一度殴ると鼻先を掠めた。手応えを感じてハッとした瞬間、ヒロヤの鼻から血が垂れた。彼はそれをぐいと拭って私の服に擦り付ける。それでも下になった私の顔に次々と彼の血が滴ってきて、怖くなって攻撃を緩める。それでおしまい。

 彼がわざと血塗れの顔を近づけてきてキスする。ぬるぬるしたものが口と口を行き交い、生臭い鉄の味がした。青春とは真逆の状況で汗と血と涙を味わう羽目になった。私から離れたヒロヤは鼻から顎を血で汚している。それは鏡かもしれない。ヒロヤの目の鈍いきらめきの中に、同様に汚れた私もいる。彼は痛みを感じていない。直面するその顔に浮かぶ薄い笑みは、ひどく満足そうに歪んでいた。猛烈な嫌悪感が訪れる。激しい呼吸で閉じられなくなった口の隙間から漏れ出てしまう自分の悲鳴がヒロヤの新たな導火線に火をつけ、いつの間にか縄に変化した導火線が私の首に巻きついて燃え上がる。

「やめて」

 ヒロヤは私の拒絶の言葉を飲みこむように深く口を吸ってくる。厚い舌が激しく絡みついて私の舌を絞り上げると恐ろしいほどの寒気が走り、体の力が抜けた。想像以上の酷い仕打ちへの怒りと酸欠で出た涙も根こそぎ舐め尽くされる。私の声は怒りのはずだ。でもそう伝わっていない。そのもどかしさに混乱する。引きちぎられた服から露わになった胸の先端にヒロヤがむしゃぶりつく。唇と舌の熱で焦げつきそうだった。掴まれた腕はビクともしない。自分が抗うのは苦痛からであって、快感の身悶えではないと思いたい。彼の舌先が器用に乳頭に巻きつき、乳輪をなぞって離してくれない、と思うのは身勝手なのだろうか。両の胸を手と舌に犯されて流す涙は、悦びではないと言い切ってもいいのだろうか。呼吸をする唇もそうじゃない唇も、熱くてたまらない。どうしようもない切なさに泣いて叫びたかった。

 息の詰まるきつい圧迫感のあと、息継ぎのときに開けた薄目から、私の腰を持ち上げて膝をつくヒロヤがみえた。掴まるものを探していた手が彼の手を探った。するとヒロヤは私をいったん放して裏返し、背後から私の腕を取って一気に突き立ててきた。彼の鼠径部が繰り返し私のお尻にぶつかる。そのたび甘苦しい痺れが脳天を突き抜け、掛け声のような声が我慢できない。そのまま暫くすると、内側から抗いようのない何かが込み上げてきて、弾けた。


 目覚めると翌朝の5時だった。酷く消耗していて、とても立ち上がって仕事の支度をする気になれないから、もう少ししたら欠勤の連絡を入れようと思った。

 狭いベッドの隣りで寝息を立てているヒロヤを起こした。彼は昨夜、一度破裂した私を何度か抱いた。もうその頃には無我夢中だった自分を今さら思い出して自己嫌悪に陥った。

「時間大丈夫なの?」

 その私の呟きで目覚めたヒロヤは、朦朧とした顔で起きあがり、

「今何時?」

 とくぐもった声で尋ね返した。

「シャワー貸して」

 という彼に、指で場所を教えながら食べ物の支度をした。支度といってもロールパンとコーヒーしかない。

 よろりと立つヒロヤの裸の後ろ姿をじっと眺めた。柔らかな筋肉に覆われた肩からお尻の輪郭を目で追う。湿ったまま乾いて癖のついた髪が、歩くとふわふわしている。バタン!とバスルームの扉が閉じた音でびくりとする。

 ああ、本格的にやってしまったな。後悔のような、諦めのような感覚が広がっていく。

「それじゃ、お邪魔しました」

 閉じたカーテンから透過する陽光だけを光源にした室内で、適当に朝食めいたものをつまんでから、干しもせず放っておいた皺だらけの服をまとってヒロヤは背を向けた。その湿った背におずおずと腕を回すと、彼は一瞬立ち止まって、それから玄関を出ていった。

 朝日を取り込むために開けたカーテンから注ぐ陽の光が、私を蒸発させるのではないかと少し慄いた。どうやら明け方まで雨は降り続いたようで、窓の外は、残った水滴が弾き返す光で眩しく煌めいていた。けれど私の気は晴れなかった。それどころか、昨夜の出来事を肯定しないよう用心深くなっていた。

 昨日彼は店先で私を待っていて、去るときにも「また」とは言わなかった。

 腫れたように今も疼く、私の陰をヒロヤに教えてしまった。暴かれた場所へ、彼は戻ってくるだろうか。もう一度、ぐずぐずとした考えを力でねじ伏せに来るだろうか。新品でなくなった私を、壊しに。


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