第二十四話:世界の再定義

 最後の面倒事。

 その言葉が、廃墟と化した摩天楼の谷間に、乾いた音となって落ちた。


 眼前の『魔王』


 その不定形の身体の中心で、血のように赤い巨大な瞳が、俺という一点をじっと見据えている。その視線には、もはや侮蔑といったものはなかった。ただ、自らの存在を脅かす可能性のある、異物を排除するという、ひどく事務的で、冷たい意思だけが、俺の精神に直接流れ込んでくる。


 ゴボリ、と。


 『魔王』の身体から、黒い粘液のような触手が、数十本、いや数百本と、無音で射出された。一本一本が、高層ビルを容易く貫くほどの質量と速度を持っている。それらが、あらゆる角度から、俺という存在を、この空間から完全に抹消せんと、殺到してくる。

 同時に、俺の足元では、『無』の侵食がその速度を上げていた。俺が立っているアスファルトの残骸が、端から消しゴムで消されていくように、その存在を失っていく。あと数秒もすれば、俺が立つ場所そのものが、この世界から『欠落』するだろう。


 だが、俺は、その場から一歩も動かなかった。


 迫りくる抗いようのない死。

 それを、仮面の下で、何の感慨もなく、ただ、見上げている。

 まるで、自分の頭上に降り注ぐ夕立を、軒下から眺めているかのように。


「エノク」


 俺は、脳内だけに存在する相棒に、静かに問いかけた。


「こいつを、物理的に消し飛ばしたところで、また別の次元から、ゴキブリみたいに湧いてくる可能性があるか?」


『肯定します、マスター。対象は、単一の個体というよりも、高次元に存在する『概念』そのものに限りなく近い存在です。この次元における端末、すなわち、今あなたの目の前にいるあの姿を破壊しても、本体に致命的なダメージを与えることは困難であると予測されます。いずれ、また別の形で、この世界に干渉してくるでしょう』


「だろうな」


 俺の予想通りの答えだった。

 こいつは、ただのモンスターではない。災害そのものだ。

 台風の目を潰しても、次の台風がやってくるように、この場しのぎの対処では、何の意味もない。俺の平穏な日常は、いつまでも、この再発の脅威に怯え続けなければならなくなる。

 そんなのは、ごめんだ。


「じゃあ、やることは一つだ」


 俺は、突き上げた右手に、意識を集中させた。


「面倒事は、根っこから、完全に断ち切るに限る」


 その言葉と共に、俺は、自らの権能を、これまでとは全く違う次元で、解放した。

 無限のMPが、俺の身体という器から、奔流となって溢れ出す。

 だが、その力は、目の前の空間に、何かを『創造』するためには使われなかった。


 俺の意思は、物理的な世界を飛び越え、もっと根源的な、この宇宙の『ルール』そのものへと、直接干渉を始めた。


 ……世界を救う、か。馬鹿馬鹿しい。


 俺がやっているのは、ただの環境整備だ。

 俺という人間が、快適に、ストレスなく生きていくための、究極の環境整備。

 そのためには、世界のルールごと書き換える必要がある。それだけのことだ。


 俺の目の前、数メートルの空間に、一枚の、目には見えないが、確かに存在する『何か』が、すっと音もなく現れた。

 それは、盾ではなかった。壁でもない。

 ただの一枚の透明な板のようなもの。


 殺到していた数百本の黒い触手が、その透明な板に触れた。


 音はなかった。


 触手が弾かれるのでも、防がれるのでもない。

 触れた瞬間、その先端からその存在が消滅していった。

 『無』の侵食も、その透明な板に到達した時点で、ぴたり、とその進行を止めた。

 まるで、そこから先の世界は、自分たちの法則が通用しない、全く別の宇宙だとでも言うかのように。


「…………?」


 初めて、『魔王』の赤い瞳に、理解不能な現象に対する、純粋な『疑問』が浮かんだ。

 自分こそが、この世界の理を破壊する存在であるはず。

 なのに、目の前のちっぽけな黒い人型は、自分よりもさらに高次の、全く新しい『理』を、この場に持ち込んできている。


 俺が『創造』したのは、武器でも、魔法でもない。


 俺が、今、この場に創り出したのは、『魔王という脅威が、最初からこの宇宙に存在しなかった』という、新しい『世界の歴史』そのものだった。


 俺が、その新しい『事実』を、絶対的な真実として、この世界に宣言した瞬間。

 世界の『再定義』が、始まった。


 パチン。


 何かが切り替わるような、乾いた音が、俺の頭の中で響いた。

 直後、視界が、真っ白な光で塗りつぶされる。聴覚が機能を失い、全ての音が消える。時間という概念さえ、一度停止したかのような、絶対的な静止。


 そして――。


 再び世界に色が戻った時、そこはもう、俺が知る戦場ではなかった。


「……なんだ?」


 思わず、俺の口から、間の抜けた声が漏れた。

 目の前に広がっていた、文明が滅びた光景は、跡形もなく消え去っていた。

 へし折れていたはずの摩天楼は、何事もなかったかのように夜空に向かってそびえ立ち、その壁面の巨大ディスプレイには、色鮮やかな企業の広告が煌々と輝いている。

 横転していたバスやタクシーの残骸はなく、代わりに、無数の車がヘッドライトの光跡を描きながら、整然と道路を行き交っていた。

 けたたましいクラクションの音。遠くで聞こえる救急車のサイレン。そして、大勢の人々のざわめき。

 さっきまでの、死の世界のような静けさが嘘のように、活気に満ちた大都市の喧騒が、突然、俺の鼓膜に流れ込んできた。


 まるで、今まで俺が見ていた地獄絵図の方が、ほんの数秒間の、質の悪い白昼夢だったかのようだ。


 空を見上げる。

 赤黒く染まっていた空も、空に開いた巨大な『無』の穴も、どこにもない。


 そこにはただ、星々が瞬く、穏やかな夜空が広がっているだけだった。


 だが、一つだけ。

 あまりに平和な日常の風景に、一つだけ、明らかにそぐわない『異物』があった。


 俺の目の前。


 行き交う車や人々の流れの中心に、ぽつんと、あの『魔王』が、取り残されたように浮かんでいた。


 不定形の身体が、激しく揺らめいている。

 その強大な存在が、消滅に抗っているのだ。


 周囲の平和な世界と、『魔王』という存在との、あまりに巨大な矛盾。

 その狭間で、その存在そのものが悲鳴を上げているようだった。


 新しい『歴史』には、お前の存在は、どこにも記述されていない。


 ならば、今、ここにいるお前は、いったい何なのだ?


 自分の身体を構成していた『無と破壊』の概念。

 それが、この平和な世界から、その根拠を失っていく。

 足場を失ったかのように、その巨体が、ぐらりと、大きく揺らめいた。


 血のように赤い巨大な瞳が、初めて、焦りを浮かべたかのように、俺を睨みつける。


 この世界との接続を必死に保とうとしているのだろう。


 再び、俺に向かって黒い触手を伸ばそうとする。

 だが、その触手は、生まれる傍から新しい世界によって、存在を否定されて、瞬時に消えていった。


 無駄なことだ。


 お前は、もはや、この世界に存在してはいけない存在なのだから。


 哀れだな。


 お前は、絶対的な悪として、この世界に君臨するはずだったのかもしれない。

 だが運が悪かった。


 お前が選んだ庭には、俺という、お前以上に理不尽な『理』が、既に存在していた。


 それだけのことだ。


 やがて、『魔王』の身体が、まるで水面に垂らしたインクが、じわじわと水に溶けていくように、その気配を薄めていった。

 おぞましい姿が、徐々に周囲の夜景に透けて見え始めている。


 最後に残ったのは、あの巨大な赤い瞳だけだった。

 その瞳は、最後まで、俺という理解不能な存在をじっと見つめていた。

 そこに浮かんでいたのは、もはや、疑問でも焦りでもない。

 自分よりも、さらに高次の抗いようのない『理』と遭遇してしまった。そんな純粋な『諦観』だったのかもしれない。


 やがて、その瞳も闇の中へと消えた。


 音はなかった。

 爆発も、光も、何も起こらなかった。


 ただ、そこにいたはずの絶対的な絶望が、まるで、最初からなかったかのように、跡形もなく消え去っていた。


 全てが終わった。


 いや、そもそも何も始まらなかったのだ。


「……ふぅ」


 俺は、突き上げていた右手を、ゆっくりと下ろした。

 そして、一つ、長い息を吐く。

 無限のMPを持つ俺にとっても、世界の理を書き換えるという作業は、それなりに精神を消耗するらしい。


『……完了を確認しました、マスター』


 俺の脳内に、エノクの、どこか呆然とした響きを含んだ声が、こだました。


『世界は、瞬時に再定義されました。人々の記憶や記録は、全てが矛盾なく上書きされています。あの侵略は、誰の記憶にも残らない、真に『なかったこと』になりました。全ての脅威は、因果の地平より完全に消滅。これにより、あなたの平穏は永続的に保証されます』


「そうか」


 俺は、その言葉に、何の感慨も抱かなかった。

 世界を救ったという、高揚感や達成感はない。

 ただ、一番面倒くさかったゴミ掃除が、ようやく終わった、という、静かな安堵感だけがあった。


 俺は、漆黒のコートの裾を翻した。

 そして、この何も起こらなかった街に背を向ける。

 周囲の人々は、俺という漆黒の異様な存在に、一瞬だけ訝しげな視線を向けるが、すぐに興味を失ったように、それぞれの日常へと戻っていく。


 おそらく、俺のステルス機能が、彼らの認識を微妙に操作しているのだろう。


「さて、と」


 俺の口からこぼれたのは、そんな、気の抜けた独り言だった。


「家に帰って、映画の続きでも見るか」

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ブラック企業で心折れた俺は、ダンジョン最底層で覚醒する ~スローライフを目指して、復讐ついでに世界を救う~ 速水静香 @fdtwete45

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