第二十三話:最後の面倒事
その声は、自分でも驚くほど、冷え切っていた。
「掃除の時間だ」
着ていた部屋着のスウェットが、俺の意思に応じてサラサラと光の粒子へと変わり、虚空に消えていく。
代わりに、俺の身体の表面を、闇そのものが編み上げられたかのような、漆黒の繊維が覆っていく。
シルクのように滑らかで、それでいて鋼鉄以上の強度を持つロングコート。
一歩踏み出すごとに、その足音を完全に吸収する特殊なブーツ。
そして最後に、俺の全ての人間的な表情を覆い隠す、能面のような、滑らかな黒い仮面。
再び、俺は、名もなき執行者となった。
「エノク」
『はい、マスター。何なりと』
脳内に響く相棒の声は、いつも通りの平坦さを保っていたが、その応答速度は、コンマ数秒、早まっているような気がした。こいつも、この前代未聞の事態を、自らの処理能力の限界近くで解析し続けているのだろう。
「転移するぞ。場所は……そうだな。この、世界中で起きている面倒事の、一番やかましい場所だ。特等席で、最後の花火を見物してやろうじゃないか」
『……了解しました。全世界の魔力反応の増大率、及び、空間座標の湾曲率が最も高い地点を算出……ヒット。北米大陸、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタン島中心部。現在の状況下では、最も危険なエリアと断定されます。実行しますか?』
「ああ、頼む。さっさと終わらせて、見逃した映画の続きを見る」
『了解しました。空間転移、実行』
エノクの言葉が、俺の思考に染み渡るのと、俺の視界がぐにゃりと揺れたのは、ほぼ同時だった。
ほんの一瞬、万華鏡を覗き込んだかのように、世界の景色が意味のない色の羅列となって砕け散る。
次の瞬間、俺の全身を覆っていた、城の清浄で管理され尽くした空気の感触は、跡形もなく消え去っていた。
代わりに鼻腔を突いたのは、物が焼ける焦げ臭い匂いと、鉄錆のような血の匂い、そして、正体不明の何かが腐敗したような、甘ったるい悪臭だった。
俺は、タワーマンションの最上階から、地獄のど真ん中へと、音もなく立っていた。
◇
「……はっ。ずいぶんとまあ、派手にやったもんだな」
俺は、目の前に広がる光景に、思わず乾いた笑いを漏らした。
そこは、かつて『世界の交差点』と呼ばれた、巨大な広場だったはずの場所だ。
四方を、摩天楼と呼ばれる巨大なビル群に囲まれ、その壁面には、二十四時間、煌びやかな広告映像が流れ続ける、資本主義の象徴。
だが、今、その面影はどこにもない。
摩天楼のいくつかは、巨大な獣に食いちぎられたかのように、無残にへし折れている。断面からは、ねじ切れた鉄骨が、肋骨のように突き出し、黒い煙をだらだらと空に流していた。
壁面の巨大ディスプレイは、その全てが沈黙しているか、あるいは、意味のないノイズの砂嵐を映し出しているだけ。かろうじて映像が残っているものも、それは広告ではなく、避難を呼びかける緊急警報の赤いテロップが、ただ虚しく点滅を繰り返しているだけだった。
アスファルトは、巨大な爪で引き裂かれたように抉れ、ひび割れた地面のあちこちで、炎がゆらゆらと不気味なダンスを踊っている。横転した黄色いタクシー、真っ二つになった観光バス、そして、原型を留めない装甲車の残骸が、まるで巨大な墓標のように、あたりに散乱していた。
そして、何より異様だったのは、その静けさだった。
あれだけ、人でごった返していたはずの広場に、人っ子一人いない。
車のクラクションも、人々のざわめきも、何も聞こえない。
ただ、ゴウゴウと炎が燃え盛る音と、遠くで時折響く、建物の崩れる音だけが、この街がまだ完全に死んではいないことを、かろうじて証明していた。
俺は、その、文明が滅びたかのような光景の真ん中に、ただ、ぽつんと立っていた。
『マスター。周辺に、生命反応は感知されません。生存者は、既にこのエリアから避難したか、あるいは……』
「……あるいは、食われたか、だな」
俺は、エノクの言葉を引き継ぐと、足元に転がっていた、おぞましい肉塊を一瞥した。
それは、先日、モニター越しに見た、『魔王』の眷属の残骸だった。
蜘蛛と人間を混ぜ合わせたような、冒涜的なデザイン。既に事切れているようだが、そのおぞましさは少しも薄れていない。どうやら、この一体は、この国の軍隊か、探索者たちが、相打ち覚悟で仕留めたらしい。
「ご苦労なこった」
俺は、その名もなき英雄たちの、無駄な抵抗に、心の中で短く呟いた。
その時だった。
空の色が、変わり始めた。
今まで、黒い煙と炎の色がまだらに広がっていた空が、急速に、その色を失っていく。
いや、違う。
色が失われるのではない。
空全体が、まるで巨大な赤黒い絵の具をぶちまけたかのように、不吉な深紅の色に、じわじわと染め上げられていく。
それは、夕焼けの赤ではない。
傷口から流れ出す、古い血の色。見ているだけで、精神が不快感を覚えるような、生命を拒絶する色だった。
キィィィィィィィィン……。
耳鳴りのような、甲高い音が、どこからともなく響き始めた。
それは、音というよりも、空間そのものが軋みを上げている悲鳴。
次元と次元の壁が、薄く、脆くなっていく。その、破滅への前奏曲。
『来ます、マスター』
エノクの声が、俺の思考に、警告を叩き込む。
『『顕現』の前兆現象です。次元の壁が、完全に破壊されます』
「ああ。分かってる。実に、趣味の悪い演出だ。三流の怪獣映画でも、もう少しまともな前振りをするぞ」
俺は、軽口を叩きながら、ゆっくりと空を見上げた。
空気が、鉛を溶かし込んだかのように、重くなる。
肌が、ピリピリと、静電気を帯びたかのように粟立つ。
俺の、超人的に強化された五感が、この世界の法則そのものが、根底から覆されようとしているのを、敏感に感じ取っていた。
そして、ついに、その時は来た。
広場の真上。
摩天楼の残骸が切り取った、赤黒い空の中心。
その空間が、まるで黒いインクを一滴垂らしたかのように、ぽつりと、黒く染まった。
その黒い点は、次の瞬間には、凄まじい速度で、周囲の空間を侵食し始める。
それは、裂け目ではなかった。
穴でもない。
ただ、そこにあるはずの空間が、『欠落』していく。
まるで、世界の絵図に、巨大な黒い円形の穴が、無理やり開けられていくような、神への挑戦ともいえる光景。
音も、光も、何の前触れもない。
ただ、静かに、そして抗いようもなく、世界に『無』が広がっていく。
やがて、その黒い円は、直径数百メートルにも及ぶ巨大な『無の領域』となって、空に静止した。
その黒は、どんな闇とも違う。光を吸収する黒ではない。
その向こう側には、何もない。時間も、空間も、物理法則すらも存在しない、絶対的な虚無。
俺は、その、常識では理解しがたい光景を、仮面の下で、ただ、冷静に観察していた。
「……なるほどな。あれが、『魔王』か」
『はい。あれこそが、アトランティスを滅ぼし、この宇宙の知的生命体の天敵とされる存在。その本質は、『無と破壊』。存在そのものが、世界の理を侵食する、高次元の災害です』
エノクの解説を聞きながら、俺は、その『無』から、ゆっくりと何かが染み出してくるのを、視認した。
それは、黒い粘液のようでもあり、あるいは、影のようでもあった。
『無』の穴から、ずるり、と。
この世界へと、その身を押し出してくる。
特定の形はない。
ある時は、巨大な眼球の集合体のように見え、次の瞬間には、無数の触手が蠢く、不定形の肉塊のように見える。
見る者の、最も深い場所にある恐怖を、具現化したかのような、おぞましい姿。
だが、その本質は形ではない。
その存在が、この世界に触れた瞬間から、世界の崩壊が始まった。
『魔王』の身体の一部が、近くのへし折れた摩天楼に触れた。
ビルが崩れるのではない。
ビルの『概念』が、消しゴムで消されていくかのように、その存在が初めからなかったかのように消滅していく。
鉄骨も、コンクリートも、ガラスも、何の音も立てずに、ただ、あったという事実ごと、『無』へと還っていく。
俺が立っているアスファルトも、その影響を受け始めた。
地面が消えた。
「……存在そのものが害悪、か。これ以上、俺の庭を荒らされるのは、気分が悪いな」
俺は、吐き捨てるように、そう呟いた。
世界の終わり。
人類の滅亡。
そんな壮大なテーマには、何の興味もない。
俺が、今、感じているのは、もっと単純で、もっと個人的な感情だ。
不快。
ただ、それだけだった。
ようやく手に入れた、俺だけの静かな庭を、土足で踏み荒らす、招かれざる客。
その存在が、ただ、ひたすらに気に食わない。
『マスター、あれが……』
「分かってる。ラスボスだろ」
俺は、エノクの言葉を遮った。
「さっさと倒して、クレジットを流させてくれ。俺は、家に帰って、ポップコーンの続きが食べたいんだ」
『魔王』が、俺という、この世界の法則から外れた異物を、ようやく認識したらしい。
不定形の身体の中心に、巨大な、血のように赤い瞳が、一つ、ゆっくりと開かれた。
その瞳が、俺という、ちっぽけな存在を、じっと見下ろしている。
憎悪や殺意。
そういった感情らしいものはまったくない。
ただ、そこに存在する、取るに足らないゴミを、排除するという、ひどく事務的な意思だけが、その瞳から、俺の精神に直接流れ込んでくる。
『無』の侵食が、俺に向かって、その速度を上げた。
俺と『魔王』との間にある、全てのものが音もなく消滅していく。
俺は、面倒くさそうに、ごしごしと頭を掻いた。
そして、その『無』が、俺のブーツのつま先に触れる、まさにその寸前。
ゆっくりと、右手を天に向かって突き上げた。
「さて……」
仮面の下で、俺の口元が、わずかに吊り上がるのが、自分でも分かった。
「最後の面倒事だ。手際よく、終わらせるとするか」
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