第五章:最後の面倒事
第二十二話:世界の異変
過去という名の、こびりついて剥がれなかった不快な染み。それを完全に洗い流してから、どれくらいの時間が流れただろうか。
俺は、俺だけの城で、文字通り王様のような、いや、神様のような自由気ままな生活を送っていた。
朝、目を覚ますのは太陽が空の真上に昇ってからだ。けたたましい目覚ましの音も、怒声のみの会話にならない電話も掛かってこない。俺の身体が自然と休息の終わりを告げるまで、ふかふかのキングサイズベッドの上で微睡みを貪る。それが俺の一日の始まりだった。
「ふぁ……」
大きなあくびを一つ。ゆっくりと上半身を起こすと、寝室の遮光カーテンが俺の意思を読み取ったかのように、すーっと静かに左右へ開いた。窓の外には、雲一つない真っ青な空と、ミニチュア模型のように広がる東京の街並み。今日も、世界は俺の足元でせわしなく動いている。
「さて、今日の朝飯は何にすっかな」
ベッドから降り、リビングへと続くドアを開ける。ひんやりとした大理石調の床の感触が、まだ眠気の残る足の裏に心地よかった。
キッチンに立ち、頭の中でメニューを組み立てる。今日は洋食の気分だ。
厚切りのベーコンを鉄板で焼き、申し分のない半熟の目玉焼きを二つ。付け合わせには、新鮮なベビーリーフのサラダと、焼きたてのクロワッサン。そして、淹れたてのコーヒー。
俺がイメージを固めると、目の前のキッチンカウンターの上に、まるで最初からそこにあったかのように、湯気の立つ非の打ちどころのない朝食セットが、すっと音もなく現れた。消費MPは、もはや体感できないレベルだ。
「いただきます」
誰に言うでもなくそう呟き、フォークでベーコンを刺す。じゅわっと溢れ出す肉汁と、鼻腔をくすぐる香ばしい薫り。うまい。当たり前だが、うまい。
自分の食べたいものを、最高の状態で、いつでも好きな時に食べられる。それは、かつての俺が夢見ることさえ許されなかった、この上ない贅沢だった。
昼間は、もっぱら趣味に時間を費やした。
壁一面を覆う巨大なディスプレイに、先日発売されたばかりの最新ゲームを映し出す。美麗なグラフィックで描かれたファンタジーの世界を、最強の主人公になりきって駆け巡る。どんな強敵も、俺の敵ではない。当たり前だ。現実の俺の方が、よっぽど規格外なのだから。
ゲームに飽きれば、次は映画鑑賞だ。この城のサーバーには、人類が生み出してきた古今東西のあらゆる映像作品が、申し分のない状態で保存されている。今日は、九〇年代に作られた、少しマイナーなアクション映画を選んだ。派手な爆発シーンと、主人公の軽快なジョーク。頭を空っぽにして楽しむには、ちょうどいい。
ポップコーンとコーラを『創造』し、ふかふかのソファに身体を深く沈める。外の世界の喧騒は、この城には一切届かない。ここにあるのは、完全な静けさと、俺一人のための自由な時間だけだった。
最高だ。
これこそが、俺がずっと、心の底から求めていた人生。
誰にも命令されず、誰にも頭を下げず、誰の顔色も窺う必要がない。時間も、金も、力も、全てが俺のためだけにある。
ブラック企業で心をすり減らし、僅かな金のために尊厳を売り渡していた頃の俺とは全く違う世界。
まあ、どうでもいい。
俺は、この申し分のない日常に、ただ身を委ねていた。
永遠に続くかと思われた、俺だけの平穏な時間。
それが、音を立てて崩れ始めたのは、ある日の午後のことだった。
◇
その日も俺は、ソファの上で寝転がりながら、古いコメディ映画をだらだらと眺めていた。主人公のドジな失敗に、くつくつと喉を鳴らして笑う。実に、平和な時間だった。
映画が、ちょうどクライマックスに差し掛かった、その時。
『マスター』
脳内に、エノクの平坦な声が響いた。
いつもと、何かが違う。
感情のないはずの合成音声に、どこか、これまで一度も感じたことのない、張り詰めたような響きを含んでいた。
「……なんだ、エノク。今、いいところなんだが」
俺は、画面から目を離さずに、少しだけ不機嫌な声で返した。
『緊急事態です。全球モニタリングシステムより、最大級の警告が発せられました』
「警告? またどこかの国で、戦争でも始まったのか? 俺の平穏に関係ないことなら、後にしてくれ」
『いいえ。これは、あなたの平穏を、根底から覆しかねない事象です』
その、あまりに断定的な物言いに、俺は、ようやく億劫そうに身体を起こした。ソファからリモコンを取り、映画を一時停止する。
画面の中で、パイを顔面に受けた主人公が、間抜けな顔で固まった。
「……で、その緊急事態とやらは、何なんだ?」
俺がそう尋ねると、壁のディスプレイが、映画のスクリーンから、見慣れた地球のホログラムと、無数の情報ウィンドウへと、一瞬で切り替わった。
そして、俺は、そこに映し出された光景に、わずかに眉を動かした。
壁の中央に浮かぶ、青い地球。その表面の、ありとあらゆる場所に、無数の赤い光点が、まるで悪性のウイルスのように、同時に、そして急速に広がっていた。
「……なんだ、これは」
『世界中に点在する、全てのダンジョンです。今、この瞬間、観測されている全てのダンジョンが、その活動を、同時に活性化させています』
エノクの言葉と共に、いくつかのウィンドウが、画面の中央に拡大表示された。
そこには、世界各地のダンジョンの入り口を映した、リアルタイムの監視カメラ映像が並んでいる。
北米大陸の、岩砂漠に口を開けた巨大な蟻塚のようなダンジョン。
ユーラシア大陸の、雪深い山脈に存在する、氷の洞窟のようなダンジョン。
そして、日本の都市部に存在する、ビル街の裂け目のようなダンジョン。
その全てが、普段の静かな佇まいを失い、まるで巨大な心臓が脈打つように、不吉な光を、不規則に明滅させていた。その光は、俺が先日掃除した、新宿三丁目ダンジョンがブレイクする直前に放っていた、あの破滅の色と、よく似ていた。
「……全てのダンジョンが、同時に、だと? そんな馬鹿な。何かのシステムエラーじゃないのか?」
『いいえ。データは正常です。これは、紛れもない事実です。さらに、異常はそれだけではありません』
エノクは、さらに別のウィンドウを拡大した。
そこには、各国の探索者ギルドが、パニック状態で更新している内部情報が、リアルタイムで表示されている。
『ダンジョン内部の構造が、未知のパターンへと、大規模に変容しているとの報告が、世界中の支部から同時に寄せられています。これは、過去に一度も観測されたことのない、異常事態です』
『第一階層を探索中だったパーティーが、突如として出現した壁によって分断され、連絡が途絶!』
『既知のモンスターが、姿を消した……? 代わりに、見たこともない、異形のモンスターが出現しているとの報告多数!』
『緊急警報! これは、もはやスタンピードなどというレベルの災害ではない! 全ての探索者は、直ちにダンジョンから退避せよ!』
壁一面に映し出された情報が、この星の裏側で、今まさに、前代未聞の混乱が起きていることを、克明に物語っていた。
俺は、その光景を、腕を組んで、ただ、静かに眺めていた。
「……なるほどな。つまり、世界中のダンジョンが、一斉に、俺がこの前片付けた新宿のダンジョンと同じ状態になった、と。そういうことか」
『ご明察です。ですが、マスター。これは、単なる偶然の一致ではありません』
エノクの声のトーンが、さらに一段、低くなった。
『アトランティスの情報アーカイブに残された、最後の予言。その中に、この現象と完全に一致する記述が存在します』
「……予言?」
『はい。それは、アトランティスを滅ぼした災厄、侵略者『魔王』。その本格的な侵攻、『顕現』が、間近に迫った時にのみ観測される、最終警告フェーズ。すなわち、『魔王』の先触れです』
魔王。
その、どこか陳腐で、現実味のない単語を、俺は、無感動に反芻した。
アトランティスの記録で、その存在は知っていた。この世界の知的生命体の天敵。存在そのものが、世界を破壊する、高次元の災害。
それが、いよいよ、この世界にやってくる、と。
「……はっ。ずいぶんとまあ、壮大な話になったもんだ」
俺は、どこか他人事のように、乾いた笑いを漏らした。
世界の終わり。人類の危機。
そんなもの、俺の知ったことか。俺は、この城の中で、安全に、快適に、生きていくだけだ。
俺がそう考えているのを、見透かしたかのように、エノクは、さらに絶望的な情報を、俺の目の前に突きつけた。
『マスター。事態は、さらに進行しています。変容したダンジョン内部より、新たな脅威が出現し始めました』
壁のディスプレイの一番大きなウィンドウに、北米大陸の、とある大都市の中心部の映像が映し出された。摩天楼が林立する、見慣れた風景。
だが、その日常の風景は、無慈悲に破壊されつつあった。
街の中心に、ぽっかりと口を開けたダンジョンのゲート。そこから、黒い津波のような、おびただしい数の何かが、溢れ出してきていた。
モンスターだった。
だが、俺が知っている、どんなモンスターとも違う。
蜘蛛の身体に、人間の上半身が融合したような、おぞましい怪物。
全身が、ぬらぬらと濡れたような黒い甲殻で覆われ、その背中からは、蝙蝠のような皮膜の翼が生えている、悪魔のような怪物。
実体があるのかないのか分からない、黒い霧のような姿で、アスファルトに同化し、地面を侵食するように移動する、不定形の怪物。
それらが、阿鼻叫喚の地獄と化した市街地を、蹂躙し尽くしていた。
「……なんだ、あいつらは」
『『魔王』の眷属。魔王が、自らの尖兵として、異次元から送り込んだ、先遣部隊です。一体一体が、あなた方の文明における、Sランクダンジョンのボスに匹敵する、戦闘能力を有しています』
Sランクのボス。
そんな化け物が、今、画面の中では、ゴキブリの大群のように、うじゃうじゃと街を埋め尽くしている。
けたたましいサイレンと共に、パトカーや、装甲車が駆けつける。警官たちが銃を構え、必死に応戦する。
だが、無駄だった。
銃弾は、怪物の硬い甲殻に、カン、カン、と軽い音を立てて弾かれるだけ。
怪物が、巨大な鎌のような腕を一閃させると、パトカーが、まるで紙細工のように、真っ二つに引き裂かれた。
『無意味です。あなた方の文明の兵器は、高濃度の魔力で構成された、彼らの身体には、効果がありません。時間稼ぎにしかならないでしょう』
エノクの冷静な分析通り、文明の利器は、異次元の暴力の前には、あまりにも無力だった。だが、それでも軍や警察は必死に戦っている。市民を一人でも多く避難させるための、絶望的な時間稼ぎ。そのための肉壁として、彼らは次々と命を散らしていく。
やがて、その国の希望であるはずの、トップランカーたちが、戦場に到着した。
壁に映し出された、一般市民がスマートフォンで撮影したらしい、手ブレのひどい映像。その中で、きらびやかな鎧に身を包んだ、いかにも高ランクといった風情の男が、大剣を構えて眷属の一体に斬りかかった。
だが、次の瞬間。
男の身体は、巨大な爪によって、あっけなく、貫かれていた。
信じられない、といった顔で、自らの胸から突き出た爪を見下ろす男。その口から、ごぼり、と赤い血が溢れ出す。
その衝撃的な映像が、瞬く間にネット上で拡散されたのだろう。
壁の片隅に表示された、短い文章を投稿する形式のSNSのタイムラインが、絶望の濁流で、一気に埋め尽くされていく。
『嘘だろ……今の、うちの国のトップランカーだぞ……一撃で……?』
『もうだめだ……おしまいだ……』
『神様、助けて……』
絶望は伝染する。
アメリカだけではない。ヨーロッパで、アジアで、南米で。
世界中のあらゆる場所で、同じ地獄絵図が繰り広げられていた。
警察も、軍隊も、そして、人類の最後の希望であったはずの高ランク探索者たちも、この新たな脅威の前には、なすすべもなく、ただ蹂躙されていくだけ。
人類の文明が積み上げてきた全てのものが、いとも容易く崩れ去っていく。
俺は、世界の終わりを示す光景を、ただ、ソファの上から、静かに眺めていた。
悲しみや怒り、恐怖はない。
ただ一つだけ。
心の奥底で膨れ上がっていく感情があった。
「……はぁ」
俺は、今世紀最大ともいえる、深くて、長いため息を、ゆっくりと吐き出した。
その音は、世界の阿鼻叫喚とは、あまりに不釣り合いなほど、穏やかで、そして、どこまでも、億劫そうな響きを帯びていた。
壁のモニターに映る、地獄の光景。
街を破壊し、人々を蹂躙する、おぞましい化け物の群れ。
ああ、なんてことだ。
なんて、うるさい。
なんて、目障りなんだ。
俺が、ようやく手に入れた、この静かで、申し分のない、俺だけの平穏な日常。
それを、土足で踏み荒らす、不快な害虫ども。
俺の庭に、勝手に湧いて出てきた、醜い雑草。
世界がどうなろうと知ったことか。人類が滅びようと、どうでもいい。
だが、こいつらは、ダメだ。
こいつらの存在は、俺が定めた、たった一つのルール。
『俺の平穏を脅かす可能性のある面倒事を、芽のうちに摘み取る』
その俺のルールに、真正面から喧嘩を売ってきている。
俺の平穏な日常を、乱すものは、それがたとえ、神であろうと、悪魔であろうと、ただの『掃除』の対象でしかない。
「……仕方ない」
俺は、重い腰をゆっくりと上げた。
「掃除の時間だ」
その声は、自分でも驚くほど、冷え切っていた。
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