第二十一話:豚どもの鳴き声

 希望の頂点から、絶望の底へ。


 その高低差は、あまりに激しく、そしてあまりに残酷で、彼らの脆弱な精神を完全に破壊するには十分すぎた。

 俺は、ブーツの底についた赤い粉を、近くの岩でトン、トン、と軽く払った。まるで、道端で汚物を踏んでしまったかのような、ただの事務的な動作。

 その無感動な仕草が、彼らの最後の理性を断ち切ったのかもしれない。


「な……なんで……」


 リーダーが、絞り出すような声で言った。その瞳は、もはや俺を捉えてはいなかった。ただ、無価値な赤い砂と化した、かつての希望の残骸を呆然と見つめている。

 やがて、その呆然は、ぐらぐらと煮え立つマグマのように、理解不能な現実への怒りへと変わった。


「なんでだよッ!!」


 唾を飛ばしながら、リーダーが絶叫した。その顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになり、もはや原型を留めていない。


「なんでそんなことすんだよ! あんたが助けてくれたんじゃねえのかよ!? 助けてくれたんなら、最後まで助けろよ! あの石が……あれが、俺たちの最後の希望だったんだぞ! あんたほどの力があるんなら、あんな石っころの一つや二つ、どうだっていいだろ! なのに、なんで……なんでそれを目の前で……!」


 その言葉は、もはや命乞いですらなかった。自分を助けた相手に対し、「なぜ自分の思い通りにしてくれないのだ」と駄々をこねる、赤ん坊の癇癪。

 あまりに理不尽で、あまりに自己中心的で、そして、あまりに醜い魂の叫びだった。


「そうだ……そうだろ!? 俺たちは助かったんだ! あんたに助けられたんだ! だったら、俺たちが幸せになる権利だってあるはずだ! なのに、それを邪魔するってのかよ! あんたは神様なんかじゃねえ! 悪魔だ!」


 痩せた男が、そのみっともない絶叫に耐えかねたように「もう……やめろ……」と力なく呟いたが、興奮したリーダーの耳には届かない。


 俺は、その醜悪な激情の奔流を、仮面の下で、何の感情もなく浴びていた。

 素晴らしい。実に、素晴らしい鳴き声だ。

 期待通り、いや、期待以上に醜く、そして愚かだ。

 感謝も、道理も、こいつらの頭の辞書には存在しないらしい。あるのは、ただ、自分の欲望だけ。それが満たされないと分かった途端、助けてくれた相手にさえ、平気で牙を剥く。

 やはり、こいつらは、生かしておく価値のない、ただの害虫だ。

 俺が、その最後の結論を静かに下した、その時だった。


「ギャア……」


 広間の奥の暗がりから、か細い、しかし明確な敵意を含んだ声が聞こえてきた。

 はっとして、わめき散らしていたリーダーもそちらに視線を向ける。

 そこには、先ほどの戦闘で、物陰に隠れて生き延びていたらしい、数体のゴブリンが、おそるおそる姿を現すところだった。その数は、五、六体。手には、錆びついた短剣や、石斧を握りしめている。


 先ほどまでの圧倒的な数の暴力に比べれば、取るに足らない戦力。


 だが、今の『ブラッディ・ファング』にとっては、死を告げる執行人にしか見えなかっただろう。

 リーダーの逆上した頭が、急速に冷えていくのが分かった。激情の赤が、恐怖の青へと変わっていく。


「ひ、ひぃぃぃ……!」


 痩せた男が、尻をつけたまま、後ずさる。その動きに反応するように、ゴブリンたちが、自分たちの優位を確信した。


「ギャア! ギャアアア!」


 仲間を呼ぶ、甲高い雄叫び。それは、死に体の獲物を見つけた、ハイエナの喜びの声だった。

 リーダーは、絶望的な状況を前に、再び、最後の、そして唯一の希望へと、その視線を向けた。


 俺だ。


 彼は、血走った目で、俺の足元に文字通り這うようにして、すがりついてきた。


 今度は、先ほどまでの逆ギレが嘘のように、ただただ卑屈な命乞いの形だった。


「た、頼む! もう一度……!もう一度だけ、助けてくれ!」


 彼は、俺のコートの裾を、汚れた手で掴もうとする。


「こ、今度こそ、礼はする!なんだってする!だから、あいつらを……!見てないでさっさと片付けろよ!一度、助けてくれたんだから、最後まで面倒見ろよ!」


 懇願は、いつの間にか厚かましい命令に変わっていた。


 だが、俺は、その汚らわしい手が俺に触れる前に、すっと一歩、後ろに下がった。


 リーダーの手が、虚しく空を切った。


 俺は、彼の命乞いを無視した。


 ゴブリンたちが、じりじりと距離を詰めてくる。その、いやらしい笑みが、松明の光に照らし出されている。

 リーダーは、俺のその態度に、ようやく、何かがおかしいと気づき始めたらしい。

 彼の瞳に、懇願の色と同時に、純粋な疑問と、そして、わずかな恐怖の様子が浮かび上がった。


「あんたほどの力があれば、あんな雑魚、さっきみたいに……」


 そうだ。その通りだ。


 俺が指を鳴らせば、あのゴブリンどもは、一瞬で塵と化すだろう。

 だが、俺は、それをしない。


 なぜなら、俺は、お前たちの救世主などではないのだから。


 俺は、もはや彼らに何の興味もないとばかりに、ゆっくりと、彼らに背を向けた。

 そして、元来た通路の暗がりへと、一歩、足を踏み出す。


「ま、待て! 待ってくれ!」


 背後から、リーダーの、悲鳴のような声が聞こえる。


「どこへ行くんだ! 俺たちを、見捨てるのか!?」


 見捨てる?


 違うな。

 これは、お前たちが、かつて俺にしたことと全く同じことだ。


 俺は、振り返らなかった。

 通路の闇に、その身が完全に消える、まさにその直前。


 俺は、一度だけ足を止めた。


 そして、振り返ることなく、ただ、静かに一言だけ告げた。


「あの時、俺は助かったがな」


 その言葉の意味を、彼らが、あの瞬間に理解できたのか。


 かつて、自分たちが、一人の無力な荷物持ちを、モンスターの群れの中に突き飛ばした時のことを。


 そして、その荷物持ちが、最後にどんな顔をしていたかを。


 その答えを俺は知らない。

 知る必要もない。


 俺の背後で、ゴブリンたちの甲高い雄叫びと、リーダーたちの断末魔。その悲鳴が重なって響き渡った。


 俺は、ダンジョンの闇の中へと、完全にその姿を消した。



 空気のかすかな振動。

 ダンジョンのカビ臭くて湿った空気の感触は、一瞬で消え去った。


 代わりに、俺の全身を包むのは、この城の清浄で、管理され尽くした空気。


 あの掃きだめどもの断末魔、その無様な合唱もまったく聞こえない。


 ここにあるのは、絶対的な静寂だけだった。


 俺は、タワーマンションの最上階、そのリビングの中央に、音もなく立っていた。

 身にまとっていた『絶影』の装備一式が、俺の意思に応じて、サラサラと光の粒子へと変わり、虚空に消えていく。


 代わりに現れたのは、肌触りの良い、いつもの部屋着のスウェット。


 俺は、長い息を吐いた。


 掃除が終わった。

 俺の心に、こびりついていた、しつこい染み。

 それをようやく洗い流せた、という、静かな達成感があった。


 そう、彼らは俺の中で、完全に過去の掃きだめの一部と化したのだった。


 これで、俺のスローライフを邪魔するものは、もう何もない。


 本当に自由な日常が、ここから始まるのだ。


 俺は、黒い本革の巨大なソファに、どさりと身体を預けた。


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