第十九話:過去の清算
未明。
夜の冷気がまだアスファルトにまとわりついている時間帯だった。
俺は、俺の『城』から一歩も動いてはいなかった。
ただ、壁のモニターに映し出される一つの光景を、黒い本革のソファに深く身体を沈めたまま、静かに眺めているだけだ。
そこに映っていたのは、鬱蒼とした森の中に、ぽっかりと不気味な口を開けた洞窟の入り口。C級ダンジョン『ゴブリンの要塞』のゲートである。
俺が『創造』した、ハエほどの大きさのドローン型超小型監視ユニットが、その光景を鮮明に捉えていた。
そのユニットは、光学迷彩と魔力遮断機能を備えており、誰にも、そしてどんなモンスターにも、その存在を気づかれることはない。それはまさに、神の視点だった。
やがて、一台のオンボロのワゴン車が、未舗装の林道を、ガタガタと頼りない音を立てながら走ってくるのが見えた。ヘッドライトの光が、木々の間を神経質そうに行き来している。
車は、ダンジョンの入り口近くで乱暴に停まると、中から三人の男女がぞろぞろと降りてきた。
見慣れた、そして二度と見たくもなかった連中。『ブラッディ・ファング』のメンバーだ。
彼らは、昨日までの酒の席での惨めな様子とは打って変わり、新調したらしい、そこそこ見栄えのする金属鎧に身を包んでいた。ダンジョンファクタリングとかいう、未来を切り売りして手に入れた、最後の希望。その、借り物の輝きが、彼らを少しだけ、まともな探索者に見せている。
「よし、野郎ども! 準備はいいか!」
リーダーが、まるで自分を鼓舞するかのように、空元気たっぷりに叫んだ。その声は、監視ユニットのマイクを通して、俺の城にクリアに届いている。
「このダンジョンをクリアすりゃ、俺たちはDランクからおさらばだ! 借金も返せるし、当分は美味い酒が飲める! 気合い入れていくぞ!」
「……おう」
「……はいはい」
痩せた男と女、二人の返事は、どこか気のない、諦観に満ちたものだったが、リーダーはそれに気づかないふりをしている。いや、気づいていて、無視しているのだろう。もう、後戻りはできないのだから。
三人は、お互いの顔を見合わせることもなく、それぞれの武器を手に取ると、洞窟の闇の中へと、その足を踏み入れていった。
まるで、自ら墓穴を掘りに行く、愚かな罪人たちのように。
俺は、その一部始終を、ソファの上で頬杖をつきながら、ただ、静かに見守っていた。
モニターの表示が、監視ドローンの視点に切り替わる。
ドローンは、彼らの後を追うように、音もなく、ダンジョンの内部へと侵入していった。
過去を清算するための、最後の場面。
その、幕が上がろうとしていた。
◇
『マスター。対象パーティー、ダンジョン第二階層に到達。複数のモンスターとの戦闘に突入しました』
脳内に、エノクの平坦な声が広がる。
壁のモニターには、薄暗い洞窟通路で繰り広げられる、お粗末な戦闘の様子が映し出されていた。
緑色の肌をした、小柄なモンスター、ゴブリン。その数が、やけに多い。ざっと見ただけでも、二十体は超えている。その中には、一回り体の大きいホブゴブリンや、杖を構えて後方から不気味な呪文を唱えるゴブリンシャーマンの姿も混じっていた。
「くそっ、なんだってんだ、こいつらの数! 聞いてた話と違うじゃねえか!」
リーダーが、巨大な戦斧を振り回しながら悪態をつく。その攻撃は、確かに威力はありそうだが、大振りで隙だらけだ。一体のゴブリンを叩き潰している間に、別の二体が背後から錆びた短剣で斬りかかっている。
ガキン! と金属音が鳴り、新調したばかりの鎧に、早くも深い傷が刻まれた。
「リーダー、後ろ! ちゃんと周りを見てくれよ!」
「うるせえ! 分かってる!」
痩せた男が、弓を引き絞りながら叫ぶ。彼の放つ矢は、それなりに正確にゴブリンを射抜いているが、いかんせん数が多すぎる。矢を一本放つ間に、ゴブリンたちは三歩も前進してくる。
女は、パーティーの後方で、小さなメイスを無我夢中で振り回していた。その顔は恐怖で青ざめ、もはや戦うというよりは、ただ必死に追い払おうとしているだけに見えた。
「きゃあっ!」
一体のゴブリンが、パーティの女の足元にまとわりつき、その脚に噛みついた。
「このっ、離しなさいよ、このキモいのが!」
女がパニックに陥り、メイスで自分の足を殴りかねない勢いで暴れる。
連携も、戦略も、何もない。ただ、目の前の敵に場当たり的に対応しているだけの、素人の喧嘩。
これが、Dランクパーティーの現実だった。
「……はっ。何の成長もしていないな、こいつら」
俺は、その無様な光景を鼻で笑った。
俺を荷物持ちとしてこき使っていた頃と、何も変わっていない。ただ、敵が少し強くなっただけで、この様だ。
『マスターの分析通りです。彼らの生存確率は、現在、13.4パーセント。一分ごとに、約2パーセントずつ低下しています』
「そうか。じゃあ、そろそろ、俺も観に行くとしますか」
俺は、ソファからゆっくりと立ち上がった。
このまま、モニター越しに彼らの無様な死を見届けるのも一興だが、それでは『掃除』としては不完全だ。
最後の雑草は、俺自身の手で、根っこから、丁寧に、引き抜いてやらなければならない。
「エノク。転移の準備を」
『了解。転移座標、設定完了。目標、対象パーティーがいる階層、北側の未使用通路。実行しますか?』
「ああ。さっさと終わらせて、朝飯の準備をする」
『了解しました。空間転移、実行』
エノクの言葉と同時に、俺の視界が、一瞬だけテレビの砂嵐のように乱れた。
次の瞬間、俺の身体にあった、城の清浄で無機質な空気の感触は消え去り、代わりに、ひんやりと湿った、カビ臭い空気が、仮面の隙間から流れ込んできた。
ほんの数秒だった。
物理的な距離という概念は、今の俺には存在しない。
俺は、タワーマンションの最上階から、C級ダンジョン『ゴブリンの要塞』の、そのただ中に立っていた。
周囲は、ごつごつとした岩肌が剥き出しの、薄暗い洞窟通路。天井からは、ポタ、ポタ、と水滴が滴り落ちる音が、不気味に反響している。遠くの方から、ギャア、ギャア、というゴブリンたちの甲高い雄叫びと、金属がぶつかり合う喧騒が、くぐもって聞こえてきた。
「……さて、と」
俺は、漆黒のコートの裾を軽く払うと、喧騒が聞こえる方向へ、音もなく歩き出した。
俺の身体は、先日改良を加えた完全ステルス機能によって、その『存在』そのものが、この空間から切り離されている。
俺が歩いても、足音はしない。
俺がそこにいても、誰にも、ここにいるどんなモンスターにも、気づかれることはない。
俺は、壁の暗がりに同化するようにして、戦闘が繰り広げられている広間へと、たどり着いた。
そして、その惨状を、通路の影から、静かに観察し始めた。
状況は、モニターで見ていた時よりも、さらに悪化していた。
リーダーの男は、既に満身創痍だった。鎧はボコボコに凹み、あちこちから血が滲んでいる。自慢の戦斧を振るう腕も、疲労で重そうだ。
痩せた男は、背負っていた矢筒が空になったのか、今は腰のショートソードを抜き、必死に応戦している。だが、彼の細腕では、ホブゴブリンの棍棒を受け止めるだけで、精一杯のようだった。
女は、とうとう地面にへたり込み、腰が抜けてしまったらしい。ただ、顔を両手で覆い、「いや、いや……」と意味のない言葉を繰り返しているだけ。もはや、戦力としては、完全に機能していなかった。
ゴブリンの群れは、そんな彼らの絶望を嘲笑うかのように、じりじりと、しかし確実に、包囲の輪を狭めてきている。
「くそっ……! なんでだよ! なんで、こんなことに……!」
リーダーが、血反吐を吐きながら叫んだ。
「ポーションは、もうないのか!」
「とっくに、使い果たしたよ! リーダーが、無駄に飲みまくるからだろ!」
「うるせえ! 俺のせいにするってのか!」
絶体絶命の状況で、仲間割れまで始めている。
見苦しい。
やがて、一体のゴブリンシャーマンが、杖を高く掲げた。
その杖の先に、禍々しい紫色の光が収束していく。
「やべえ! あれは、ダークボルトだ! 食らったら、終わりだぞ!」
痩せた男が、絶望的な声を上げた。
リーダーは、その魔法を阻止しようと、シャーマンに向かって突進しようとする。だが、彼の行く手を、三体のホブゴブリンが、巨大な棍棒を構えて塞いだ。
もう間に合わない。
万事休す。
リーダーの顔に、死がちらついた。痩せた男は、固く目を閉じ、女は、甲高い悲鳴を上げた。
シャーマンの杖から、漆黒の雷撃が、一直線に、リーダーの身体へと放たれる。
彼らが、自らの死を覚悟した、まさにその瞬間だった。
俺は、装備のステルスを解除した。
空気のかすかな振動と共に、通路の暗がりから、俺の漆黒の姿が、音もなく現実の空間に現れる。
そして、俺は、右手の指を、軽く弾いただけだった。
パチン、と。
乾いた音が、喧騒に満ちた広間に、不自然なほど、はっきりと響き渡った。
直後。
リーダーに向かって飛んでいた漆黒の雷撃が、何の予兆もなく、虚空に消え去った。
「「「……え?」」」
リーダー、痩せた男、そして女。
三人の間の抜けた声が、奇跡的に重なった。
ゴブリンたちも、何が起きたのか理解できず、一斉に動きを止めている。
広間から、全ての音が消え去った。
ただ、不気味なほどの静寂が、そこを支配している。
その静寂の中。
全ての視線が、音もなく現れた、一つの異様な存在へと、注がれていた。
通路の入り口に、ただ、静かに立っている、漆黒の姿。
何の感情も読み取れない、能面のような仮面。
夜の闇そのものを切り取って作ったかのような、ロングコート。
あまりに現実離れした俺の姿を見て、彼らの思考は完全に停止したようだった。
「……あんたは……」
その声は、かすれていた。
リーダーは、目の前の光景が信じられないといった様子で、呆然と俺を見つめている。
無理もないだろう。C級ダンジョンの奥深くで死にかけていたところに、突如として現れた正体不明の男。それも、ゴブリンシャーマンの必殺魔法を、指を鳴らしただけでかき消すような、常識外れの力を持った存在だ。
彼の単純な思考回路は、目の前の現実を処理するために、最も分かりやすい答えに飛びついたに違いない。
「……ま、まさか……高ランカーの方、なのか……?」
そうだ。それでいい。
彼の世界では、強さとはギルドが定めたアルファベットの階級で測られる。
Aランク、あるいはその上のSランク。Dランクの彼からすれば、雲の上の、神にも等しい存在なのだ。
そんな高位の探索者が、気まぐれか何かで、このダンジョンに現れた。彼の脳は、そのあまりに都合の良い奇跡を、必死に信じようとしていた。絶望的な状況下で、突如として現れた、理解不能な救世主。
リーダーの目に、一筋の、いや、極太の光が差し込んだ。
「助かった……! 俺たちは、助かったんだ!」
彼は、そう叫ぶと、俺に向かって、必死の形相で何かを訴えかけようとしていた。
助けてくれ、と。
報酬はいくらでも払う、と。
きっと、そう言うのだろう。
俺は、そんな彼の姿を、仮面の下で、ただ、冷たく見つめていた。
ゴブリンの群れも、闖入者の登場に、完全に狼狽している。
リーダー格のホブゴブリンが、仲間たちに何かを威嚇するように叫んでいるが、その声には、先ほどまでの勢いはなかった。
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