第四章:過去の掃き溜め

第十八話:過去の掃き溜め

 新宿の地下で俺が密かに行った大掃除から、一週間が経った。


 あの後、世界がどうなったか。

 俺のあずかり知らぬところで、正体不明の規格外ランカーについて、メディアもネットも専門家も入り乱れて激論が交わされ、荒唐無稽な尾ひれが幾重にもつけられて語られているらしい。S級ダンジョンを単独で、しかも名乗りも出ずに攻略した存在は、畏怖と憧憬を一身に集め、新たな都市伝説として瞬く間に世界を駆け巡った。


 そんなことは、今の俺にとってはどうでもいいことだった。


 俺は今、俺が心の底から望んだ通りの、誰にも邪魔されることのないスローライフを存分に満喫していたからだ。


 朝は、けたたましいアラームの音で叩き起こされることはない。身体が自然と覚醒を求めるまで、キングサイズのベッドの上で微睡みを貪る。腹が減れば、キッチンに立ってその日の気分で朝食を『創造』する。


 昨日は、厚切りのベーコンエッグと焼きたてのクロワッサン。今日は、ふっくらと炊き上がった白米に、皮がパリッと焼かれた塩鮭と出汁の香りが豊かな味噌汁。


 明日は何にしようか。

 そんな、かつての俺が想像すらできなかった贅沢極まりない悩みが、今の俺の日常だった。


 昼間は、もっぱら趣味の時間だ。


 壁一面を覆う巨大なディスプレイに、発売されたばかりの最新ゲームの美麗なグラフィックを映し出す。そのゲームに飽きれば、すぐに映画鑑賞に切り替える。古今東西、人類が生み出してきたあらゆる映画が、この城のサーバーには保存されている。ハリウッドのド派手な大作から、ヨーロッパの単館上映のアート系映画まで、その日の気分で好きなものを好きなだけ見ることができる。

 夜は、窓の外に広がる東京の夜景を眺めながら、静かに過ごす。俺が『創造』した、地球上で最も希少とされる豆で淹れたコーヒーを片手に、黒い本革のソファに身体を深く沈める。


 外の世界の喧騒は、この城には一切届かない。ここにあるのは、絶対的な静寂と、俺一人の自由な時間だけだ。


 最高だ。

 これこそが、俺がずっと求めていた人生。


 誰にも命令されず、誰にも頭を下げず、誰の顔色も窺う必要がない。時間も、金も、力も、全てが俺のためだけにある。


 ブラック企業で心をすり減らしていた頃の俺が、この光景を見たら、きっと涙を流して嫉妬するだろう。

 いや、嫉妬する権利すらないかもしれない。

 あれは、もはや別人だ。俺とは何の関係もない、過去の亡霊。

 俺は、そう自分に言い聞かせ、この完璧な日常に身を委ねていた。


 その日までは。



「……ちっ」


 俺は、手にしていたコントローラーを、思わず床に叩きつけそうになった。

 今クリアしたばかりのゲームのエンディング。苦楽を共にしたはずの仲間が、最後の最後で主人公を裏切り、全ての功績を横取りしていく。そんな、後味の悪い結末だった。

 画面の中の主人公が、絶望に打ちひしがれる顔で、その場に膝から崩れ落ちる。

 その姿に、不意に、忘れていたはずの記憶が、胃の中からせり上がってくるような不快感と共に蘇った。


『じゃあな、使えねえ荷物持ち』


 あの下卑た笑い声。

 俺をゴミのように見下していた、あの目。

 Dランクパーティー、『ブラッディ・ファング』。

 俺を奴隷のようにこき使い、用済みになった途端、モンスターの囮にして見殺しにしようとした、あのクズども。


 俺は、慌ててゲームの電源を落とした。

 漆黒の壁に、俺の無表情な顔がぼんやりと映り込む。


 おかしい。


 もう、終わったはずだ。


 俺は、あの地獄から抜け出し、絶対的な力を手に入れた。もう、あいつらと俺の世界は、二度と交わることはない。

 なのに、なぜだ。

 なぜ、こんなにも胸の奥がざわつく。

 満ち足りた俺の日常に、まるで一滴のインクを垂らしたかのように、黒い染みがじわりと広がっていく。


『マスター。心拍数、及び脳波に異常なパターンを検出。ストレス反応と断定します。休息を推奨します』


 脳内に、エノクの平坦な声が響いた。

 こいつは、俺のバイタルデータを常に監視している。俺の心の揺らぎも、こいつにとってはただの観測データの一つに過ぎない。


「……うるさい。分かってる」


 俺は、吐き捨てるようにそう言うと、ソファから立ち上がった。

 気分転換が必要だ。

 俺はキッチンへ向かうと、冷蔵庫から最高級の霜降り和牛を取り出した。分厚い鉄板を『創造』し、完璧な火加減でステーキを焼き始める。ジュウ、という食欲をそそる音と、香ばしい肉の焼ける匂いが、静かな室内に広がった。

 焼き上がったステーキを皿に乗せ、年代物の赤ワインをグラスに注ぐ。テーブルにつき、ナイフとフォークを手に取った。

 肉を一切れ切り分け、口に運ぶ。

 じゅわっと、上質な脂の甘みが口いっぱいに広がった。とろけるように柔らかい食感。間違いなく、最高の味だ。


 だが。


 その味を堪能しているはずの俺の脳裏に、またしても、あの記憶がこびりついて離れない。


 日当二千円で買った、あのクソみたいな百円の菓子パン。

 パサパサの生地と、どこか人工的な甘さのクリーム。アパートの埃っぽい床の上で、水道水でそれを流し込んでいた、あの頃の記憶。


 うまいステーキを食えば食うほど、あの惨めな味が、舌の奥で蘇ってくるようだった。


「……くそっ」


 俺は、ナイフとフォークを皿の上に叩きつけるように置いた。

 カチャン、と乾いた音が響く。

 食欲が、一瞬で消え失せた。

 もう、我慢の限界だった。

 俺は、ようやく認めざるを得なかった。


 俺の心は、まだ解放されていない。

 過去の記憶が、まだ俺の足に絡みつく、見えない鎖となっている。

 この城は、物理的にも、魔力的にも、完璧な要塞だ。だが、俺自身の心の中に巣食う、過去という名の亡霊までは、防いでくれない。

 このままではダメだ。

 この不快な染みを放置しておけば、いつか、このスローライフそのものを、内側から腐らせていくかもしれない。


 俺は、静かに目を閉じた。

 そして、一つの結論に達した。


 復讐ではない。

 これは、復讐心のような、ウェットで感情的なものではない。


 ただの掃除だ。


 俺の庭に生えた、不快な雑草を根こそぎ抜き取り、快適な環境を維持するための、合理的な作業。

 過去のしがらみを、完全に断ち切る。

 そうしなければ、俺の本当の平穏は、永遠に訪れない。


「……そうか。そういうことか」


 俺は、ゆっくりと目を開けた。

 その瞳に、もう迷いはなかった。

 やるべきことが、はっきりと見えた。


「エノク」


 俺の呼びかけに、相棒は即座に応じる。


「はい、マスター。何なりと」


「全球モニタリングシステムを起動しろ。検索対象は、Dランクパーティー『ブラッディ・ファング』。リーダーの男、及びその仲間たちが今、どこで何をしているか、洗いざらい調べ上げろ」


「了解しました。データベースを照合。対象の探索者登録情報を検索……ヒット。さらに詳細情報を検索します」


 俺は、食べかけのステーキには目もくれず、ソファへと戻った。

 目の前の壁が、再び、巨大な情報ディスプレイへと姿を変える。

 壁の中央に、一つのウィンドウが、大きく表示された。

 そこには、三つの顔写真と、それぞれのプロフィールが表示されていた。

 中心にいるのは、俺がよく知る、あの下卑た男の顔。筋肉質な身体をこれ見よがしに晒し、常に他人を見下したような笑みを浮かべていた、あのリーダーだ。その両脇には、蛇のように細い目をした痩せた男と、常に気だるげな表情でガムを噛んでいた女の顔。

 僅か数か月ぶりに見るその顔は、俺の記憶にあるものよりも、心なしか疲弊しているように見えた。


「……ふん。ずいぶんとまあ、くたびれた顔になったじゃないか」


 俺は冷たく呟いた。


「追跡を継続中。対象者三名の個人端末、及び関連する短い文章を投稿する形式のSNSアカウントへのアクセスを開始します」


 エノクの宣言と共に、壁の表示がさらに目まぐるしく変化していく。

 巨大SNSのロゴが一瞬表示されたかと思うと、次の瞬間には、リーダーの男が使っている裏アカウントの投稿履歴が、ずらりと壁に並べられた。鍵がかけられ、仲間内でしか見られないはずの、愚痴と虚勢に満ちた投稿の数々。


『【今日のダンジョン飯】コンビニのカップ麺とストロング系チューハイ。これが漢の晩餐だぜ(笑)』

『まじで金ねえ……。誰か割のいい仕事紹介してくれよ。Dランクとか、やってらんねー』

『最近の新人、根性なさすぎ。俺らの頃はもっと……』

『そういや昔、ウチのパーティーにいた荷物持ちのクソ雑魚、マジで使えなかったな。ダンジョンで死んだろうけど、自業自得だろ。あんなのが生きてても、社会の迷惑だしな』


 最後の投稿を見た瞬間、俺の眉がピクリと動いた。

 モニターに映し出されたその文字列を、俺は氷のような視線でなぞる。

 まだ、俺のことを言っている。

 それも、死んだことにして、好き放題に。


「……そうか。俺は、死んだことになっているのか」


 まあ、当然か。

 だが、その事実が、俺の心の奥底に沈んでいた黒い澱を、ゆっくりとかき混ぜる。

 静かな怒りという名のインクが、じわりと、俺の思考に広がっていった。


「マスター。対象の現在位置を特定しました。新宿区歌舞伎町、雑居ビル地下二階の酒場です。周辺の監視カメラネットワークに接続。リアルタイム映像を表示します」


 壁の片隅に、新しいウィンドウが開いた。

 薄暗く、タバコの煙が立ち込める、場末の安酒場。そのカウンター席で、リーダーの男が一人、安物の蒸留酒らしきものを呷っている。顔は、酒のせいか、あるいは人生への不満のせいか、真っ赤に上気していた。

 彼の隣には、同じようにうつむいて酒を飲む、痩せた男と女の姿もある。どうやら、三人で飲んでいるらしい。


「だからよぉ……聞いてんのか、お前ら!」


 監視カメラのマイクが拾った、リーダーのだみ声が、城のスピーカーから響き渡る。映像の中の彼は、テーブルをドンと叩き、仲間たちに絡み始めた。


「俺たちのパーティーが、いつまでもDランクで燻ってるのは、なんでだと思う!? 運だよ、運! 俺たちには、圧倒的に運が足りてねえんだよ!」

「……またその話かよ、リーダー」

「うるせえ! そうだろ!? 俺たちには実力はある! ただ、デカい獲物が獲れてねえだけなんだよ! 新宿三丁目ダンジョンをクリアしたっていう、あの正体不明のランカーみたいに、一発デカいのを当てさえすれば……!」


 痩せた男が、心底うんざりした顔でため息をつく。女は、もう何も聞こえていないかのように、ただ虚空を見つめてグラスを傾けている。パーティーの雰囲気は、最悪のようだった。


「……はっ。俺が掃除した場所を引き合いに出して、自分を慰めてるのか。滑稽なこと、この上ないな」


 俺は、その惨めな光景を、何の感情もなく見下ろしていた。

 彼らが羨む正体不明のランカーが、まさか、かつて自分たちが見殺しにしようとした、あの『クソ雑魚荷物持ち』だとは、夢にも思っていないのだろう。

 実に、愉快な喜劇だった。

 その時、エノクが新たな情報を提示した。


「マスター。対象の男、新たな動きです。金の流れに不審な点を検出しました」


 別のウィンドウが開き、そこに表示されたのは、とある金融業者の取引履歴データだった。


「これは……まともな金融機関じゃないな」

「はい。『ダンジョンファクタリング』と呼ばれる、探索者専門の金融サービスです。ダンジョン攻略によって将来得られるドロップアイテムや報酬を債権として買い取り、手数料を差し引いた金額を即座に融資するシステムです。しかし、その実態は、法外な手数料と厳しい取り立てで、多くの低ランク探索者を破滅に追い込んでいる、極めて悪質な業者です」


 画面には、リーダーの男の名前と、契約書のデジタルデータが映し出されている。融資額、五百万円。その担保は、これから挑むダンジョンの、まだ手に入れてもいないドロップアイテム。成功すれば返せるが、失敗すれば全てを失う、破滅への片道切符。


「……なるほどな。一発逆転とやらのために、未来まで売り払ったか」

「ご明察です。そして、その資金の使途も判明しました。高ランクダンジョンに挑むための、装備新調費用と、高価なポーションの購入代金です」

「で、その標的のダンジョンは?」

「現在、ギルドに提出されているパーティーの活動計画書を解析中……完了。目標、C級ダンジョン『ゴブリンの要塞』。明日未明、攻略を開始する予定です」


 C級ダンジョン、『ゴブリンの要塞』。

 その名前を、俺は聞いたことがあった。

 新人探索者向けの講習で、絶対に単独で、あるいは準備不足で挑んではいけないダンジョンの代表例として、何度も名前が挙げられていた場所だ。

 内部は、単純なゴブリンだけでなく、上位種であるホブゴブリンや、ゴブリンシャーマン、さらにはゴブリンを統率するゴブリンキングが待ち構えている。Dランクの、それも連携の取れていないパーティーが挑めば、生きては帰れない。


「……死に場所を探している、と。上等だ」


 俺は、ゆっくりとソファから立ち上がった。

 全ての情報は、出揃った。

 過去を清算するための、最高の舞台が、向こうからご丁寧に用意してくれた。

 俺が手を下すまでもない。

 奴らは、自らの愚かさによって、勝手に地獄へと足を踏み入れようとしている。

 俺がすべきことは、ただ一つ。

 その地獄の釜の蓋を、最高のタイミングで、閉じてやることだけだ。


「面白い。見届けてやろうじゃないか。お前たちの惨めな最期をな」


 モニターに映る、リーダーの下卑た顔。

 その顔を見て、俺の胸の奥で燻っていた、黒い染みが、一つの明確な形を成していく。


 そうだ。


 この感情は、怒りや憎しみではない。

 ただ、当然の報いを受けさせるという、ひどく事務的で、合理的な結論。

 世界のバランスを、正常な状態に戻すための、ただの調整作業だ。


「掃除の時間だ」


 俺は、誰に言うでもなく、そう呟いた。


 その声は、自分でも驚くほど、静かで、そしてどこまでも冷え切っていた。


 着ていた部屋着のスウェットが、俺の意思に応じてサラサラと光の粒子へと変わり、虚空に消えていく。

 代わりに、俺の身体の表面を、闇そのものが編み上げられたかのような、漆黒の繊維が覆っていく。

 シルクのように滑らかで、それでいて鋼鉄以上の強度を持つロングコート。

 一歩踏み出すごとに、その足音を完全に吸収する特殊なブーツ。


 そして最後に、俺の全ての人間的な表情を覆い隠す、能面のような、滑らかな黒い仮面。


 再び、俺は、名もなき執行者となった。


 俺のスローライフは、この最後の『掃除』を終えてから、本当の意味で始まるのだ。

 俺は、壁のモニターに表示された『ゴブリンの要塞』の座標データに、冷たい視線を注いだ。

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